大和郡山

約60年ぶりに訪れた奈良県、まずは県北に位置する大和郡山からスタートです。
 
     
   
  羅城門橋
佐保川に架かる羅城門橋、大和郡山市と奈良市の境にあり、その昔平城京の朱雀大路の南端であったところで、羅城門があったところです。羅城門は後に「羅生門」とも呼ばれるようになっています。
 
     
 
 
橋の下には平城京の朱雀大路と九条大路があったと示す石碑が建てられています。また、橋の欄干には羅城門跡を示す説明板があり、ここから北に朱雀大路が続いていたといわれています。
 
     
 
 



きこく地蔵尊

佐保川に架かる群界橋のたもとにあるこの地蔵尊は、奈良時代に、行基菩薩によって矢田寺参りの分岐点の道しるべとして創設されたといわれており、周囲に災いを防ぐため枳殻(からたち)の木が植えられたことから枳殻(きこく)地蔵と呼ばれるようになったとのことです。
戦時中は「きこく」を「帰国」にかけて、戦場に行かれている人たちの無事な「帰国」を願って、お詣りする人が多かったといわれています。
      
 



外堀緑地

外堀緑地は、かつての郡山城の外堀を利用し整備された市民憩いの公園です。
 
     
   
  薬園八幡神社
神社のある一帯は、奈良時代には「薬園の庄」と呼ばれていたところで、聖武天皇の勅命により天平勝宝元年(749年)に大分の宇佐八幡ヲ神勧請して創建されたとあります。
 
   
 
拝殿
 
     
 
境内にはゲンノショウコ(現の証拠)、ジャノヒゲ(蛇の髭)、ワレモコウ(吾亦紅)など種々の薬草が見本として植えられています。
 
     
   
  紺屋川
市内の中心部を東西に流れる川幅1mくらいの細い川ですが、この地帯は藍染め職人たちが多く住んでいたところで、染められた布や糸をこの川で晒していました。
写真の左側には箱本館という町屋があり、江戸時代から続いていた藍染め体験ができる施設です。
そういえば昭和30年代に中野に住んでいた時に、家の近くを流れる神田川で染物業者が川で晒しの作業をよく行っていましたね。
 
   
町中の散策を終わりにして続日本100名城に選定されている郡山城(大和郡山城)あとに行ってみることにして足を延ばします。
 
 
 
 
郡山城(大和郡山城)の頬当門跡(左)と柳御門趾(右)
大和郡山城の三の丸にあった御門趾です。「頬当」とは変わった名前ですが、その昔、武士が使用した甲冑の小具足の一つで頬や顎を防御する小具足からきています。
 
     
 
 
大和郡山城の中堀ともなっている五軒屋敷池のそばを通る近鉄橿原線と大和郡山城の鉄御門趾
 
   
 
 



さくら名所100選の碑

郡山城趾の一帯は郡山城址公園となっていて「さくら名所100選」に選定されていますが、染井吉野はすでに盛りを過ぎ少し葉桜状態となっいました。
 
     
 
内濠
 
     
   
  表門跡の碑と「金魚とねこ」の歌碑(右側)
郡山城の表門は現在郡山高校の正門近くに建てられており、この辺りまでが城の二の丸となっていたようです。そのわきに郡山高校の前身である旧制郡山中学出身の詩人で教育者であった「金魚とねこ」の歌碑があります。(下の写真)
 
   
     
   
  竹林橋趾
内堀に架かる橋で、当時は土橋でなっており、この先が郡山城の本丸となります。
 
     
 




柳澤神社

郡山藩は、大坂夏の陣後の元和元年(1619年)に、水野勝成が初代藩主として立藩された藩で、その後松平氏、本田氏と代替わりしていました。
徳川5代将軍綱吉の時代に側用人となり、その後大老まで上り詰めた柳沢吉保の子息であった、甲斐甲府藩の第2代藩主柳沢吉里が、享保の改革によって郡山藩に移封されてから明治維新まで藩主を務めていました。
この神社は明治13年(1880年)に、旧藩士たちの手によって創建されたもので、柳沢吉保を祭神としています。
 
     
   
   
   
  神社の拝殿のそばには大砲の砲丸と見えるものが置かれています。あいにくと境内に入れない状態なので由来等は不明です。  
     
   
  郡山城跡の碑
郡山城は、10世紀の後半に郡山衆が雁陣の城を築いたのがはじめといわれ、明智光秀、藤堂高虎達によって普請が行われ、その後、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修されました。
普請に当たっては石垣に用いる石材が乏しかったため、平城京の羅城門のものとみられる礎石や仏教遺跡の頭塔の石仏などを流用していた形跡が見られます。
「郡山」の名は14世紀の初めに「郡山庄」が独立したことからその名がつけられたと見れています。
 
     
   
  天守台跡
天守台には5層6階の天守閣があったのではといわれていますが、あったことは事実のようですが、その具体的な構造等は不明のようです。
天守台の石垣には転用石材が数多く見られます。石垣に転用石材を用いることはよく見かけられるようですが、これだけ多くの転用石材を使っているのは例を見ないといわれています。それだけこの城の築城が厳しかったのでしょうね。
 
     
 
 
さかさ地蔵
転用石材が多く用いられている天守台の北側には、大永3年(1523年)と刻まれている地蔵尊があります。頭が下を向き俯いているので「さかさ地蔵」の名で呼ばれています。

 
 
 
 



山口誓子の句碑

城址会館の前にある句碑には、俳人の山口誓子が詠んだ、「大和また 新たなる国 田を鋤けば」の句が刻まれています。
 
     
 
天守台跡から見る郡山城址会館(左)と追手東隅櫓(右)
 
       
   
  郡山城址会館
法印曲輪があったところにあるこの城址会館は、明治41年(1908年)に、奈良公園内に奈良県立図書館として木造入母屋造り、千鳥破風付きで建てられたもので、昭和43年(1968年)にこの地に移築され、現在は市民集会や展示会に利用されています。
法印曲輪の名は、一庵法印良慶の屋敷があったところで、常盤曲輪とも呼ばれています。
 
 
   
  追手門
梅林門とも呼ばれており、最初の門が築かれたのは、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が天正13年に大和、和泉、紀伊三ヵ国100万石余の領主として入城したころといわれていますが、関ケ原の戦いで西軍が敗れた際に城は取り壊され、建物のすべては京の伏見城に移築されました。
その後、大坂夏の陣で戦功を上げた松平忠明が入封した際に、伏見城から戻されています。
梅林門の名は柳沢吉里が入場した際に当時庵丸門と呼ばれていた追手門を梅林門と呼ぶようにしたとのこと。城の建物は明治時代になってからの廃城令ですべて取り壊さており、現在の門は昭和58年(1983年)に再建されたものです。
 
     
   
  追手向櫓
追手門を守るために設けられている櫓で、本田氏が城主を務めていたころは、大手先丑寅櫓と呼ばれていましたが、柳沢氏が入場してからはこの名に代わっています。櫓は廃城令で取り壊され、昭和62年(1987年)に現在の姿で復元されたものです。
 
     
     
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