会津若松と五色沼  
飯盛山
会津戊辰戦争(1868年)で、官軍と戦った会津藩の若き戦士が武家屋敷から上がる煙を見て城が落ちたと見間違い、自刃するという悲劇の場所となったのがここ飯盛山です。
 
  飯盛山への上り口となる階段
右側には歩く歩道(有料です。)があるので、階段が苦手な人でも大丈夫です。
 
       
  ローマ市寄贈の碑
白虎隊戦士の精神に感銘を受けたローマ市民から昭和3年寄贈されたもので、柱はポンペイの遺跡で発掘された古代宮殿の柱だったようです。
 
        
白虎隊士の像と鶴ヶ城の遠景
ローマ市寄贈の碑の右側の道を歩くとすぐに「白虎隊士自刃の跡」の碑がありその横にこの像があります。像はお城を望む姿となっていますが、当時は今ほど建物も多くなく見えたであろう鶴ヶ城も、現在は右の写真のように望遠レンズで撮っても漸く判るくらいです。(画面中央の赤白のポールの後ろです。)
 
   
        
  白虎隊戦士の墓
自刃の地と反対側には、白虎隊士30名の墓があり、今でも香を手向ける人が多いようです。
 
        
白虎隊士自刃の絵と鶴ヶ城の写真
自刃の地のすぐそばにある茶店に飾られていたもので、左が自刃の絵、右が戊辰戦争後の鶴ヶ城の写真です。
 
   
        
  宇賀神堂
飯盛山から戻るときに階段を使わずに歩くとすぐにあり、江戸時代寛文年間に会津藩藩主松平正容が建立したものですが、中には自刃した白虎隊士の霊が祀られています。
 
        
さざえ堂
宇賀神堂の横にあり、寛政8年に建立されたもので、らせん状の廊下を登l、下りは別の廊下で降りてくるといった珍しい構造で建てられています。つまり、上りの人と下りの人がすれ違うことはないのです。
右の写真を見ると「さざえ」の名の意味がわかります。(国指定重要文化財に指定されています。)
 
   
        
  戸の口堰洞穴
猪苗代湖から会津まで水を引くために造られた堰で、今から約400年前の元和年間に工事が行われたとのことで、戊辰戦争のときには白虎隊士が通った洞穴として知られています。
 
        
鶴ヶ城
会津若松城、若松城、黒川城、会津城とも呼ばれるこの城、南朝時代の1384年に当時の領主葦名氏が館を建てたのがはじまりとされ、文禄元年(1592年)から2年(1593年)にかけて蒲生氏郷により天守が造られ「鶴ヶ城」と名がつけられたとのことです。戊辰戦争では1ヶ月間の篭城に耐えたが傷みも激しく、明治7年にすべて解体されましたが、現在の姿は昭和40年に復元されたものです。
 
天守閣  
    
  鐘撞堂
西出丸から埋め坂を過ぎた左側の小高いところにあり、時守により会津城下に昼夜を問わず時刻を知らせていた堂で、戊辰戦争時には、西軍(官軍)により集中砲火を浴び時守も殉死が相次いでいるにもかかわらず、最後まで時刻を報じ続けたと言われています。
 
        
  武者走り
鶴ヶ城の石垣の特色でもあり、渡り櫓等への昇降がすばやくできるように左右に階段が設けられています。く
 
        
  南走長屋と干飯櫓
天守閣から見たもので、手前が南走長屋、奥に見えるのが干飯櫓(干飯の貯蔵庫)で、平成13年に復元されたものです。
 
        
  天守閣から見る本丸御殿跡  
        
  本丸御殿跡から見る天守閣
手前の芝生のところに本丸御殿があったとのことです。
 
        
  「荒城の月」碑
土井晩翠が作詞した名曲「荒城の月」はここ鶴ヶ城と仙台の青葉城をモチーフにして作られたといわれており、この碑の前に建つと荒城の月のメロディーが流れます。
 
        
月見櫓と天守閣
この櫓は武器が収納されていたそうですが、月見に絶好の場所であったところから月見櫓と呼ばれるようになったとのことです。右の天守閣は月見櫓から撮ったものです。
 
   
        
  茶壷櫓から見る高石垣と廊下橋
茶壷櫓は茶器が収納されていたところですが、廊下橋の見張所として重要な役目を担っていたようです。
 
        
  廊下橋
二の丸から本丸へ通じるのがこの廊下橋で、築城当初は屋根がついていたとのことです。橋の向こうは廊下橋門の桝形石垣です。
 
        
  御三階の石垣
数寄屋風の楼閣状の建物で、密議を行う場所として使われていたといわれてます。建物は戊辰戦争後市内の阿弥陀寺に移築され現存しているそうです。
 
        
  茶室麟閣
千利休の次男少庵が蒲生氏郷のために城内に建てたといわれており、現在の形は江戸時代中期のもので、一時期市内の別の場所に移築されていたそうですが、平成2年にこの場所に戻されたとのことで、今でも茶室として利用されています。
 
        
  奥御殿跡
藩主の住居である御殿があった場所です。
 
         
  桝形石垣
廊下橋から本丸に至る所の石垣です。
 
        
  太鼓門
北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、ここには大太鼓を備え付けた多聞櫓があり、登城や非常呼集の合図に使用されていたことから、太鼓門と呼ばれるようになったそうです。
 
        
  北出丸
寛永年間に北馬出を造り替えたもので、本丸防衛の重要な出丸であったようです。ここに侵入した敵を二の丸、本丸、西出丸から攻めることができたので別名「みな殺し丸」と呼ばれたとのことです。
 
        
五色沼
磐梯山の北側(裏磐梯)にある大小数十の湖沼群の総称で、明治21年(1888年)の小磐梯山の爆発によって川がせき止められてできた湖沼です。五色沼自然探勝路を巡るコース(約3.6q)があり、毘沙門沼、赤沼、深泥(みどろ)沼、弁天沼、瑠璃沼、青沼、柳沼を約一時間かかけて散策できます。訪れたのは6月の半ばでしたが、場所によっては新緑が邪魔して沼が見難いところもありました。
 

毘沙門沼
 
赤沼
 
        

みどろ沼
 
竜沼
 
        

探勝路近くを流れる清流
 
弁天沼
 
        

青沼
 
柳沼
 
      
        
        
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