月山富田城(がっさんとだじょう)(2015.11.5撮影)
 
   
安来市郊外の標高197mの月山に築かれていた月山富田城、日本5大山城のひとつであり、国の史跡に指定されていて日本100名城68番に認定されています。
月山富田城は文治元年(1185年)ごろに佐々木義清によって築かれたのではないかといわれていますが定かではないようです。
築城後は歴代の出雲の国の守護職の居城となり、佐々木氏、京極氏、吉田氏が守護を務めていました。南朝時代の後半に守護となった山名満幸が明徳2年(1392年)の明徳の乱で敗れ、京極高詮が守護となり、甥の尼子持久を守護代として置き、以後尼子氏が城域を拡大整備して城を治め山陰の覇者となりましたが、尼子義久の時代の永禄8年(1565年)には毛利元就率いる毛利軍の包囲を受けて籠城するも、毛利氏の兵糧攻めに補給も絶たれて永禄9年(1566年)11月21日に毛利軍に降伏、これにより尼子氏は事実上滅亡しました。(月山富田城の戦い)
その後永禄12年(1569年)には尼子氏の家臣であった山中鹿之介幸盛が尼子氏の再興をかけて城攻めをするも毛利氏の反撃により敗退。以後城は毛利氏の家臣によって治められるも関ヶ原の戦いで敗れ、戦功を称された堀尾氏が入城。堀尾氏が松江城を築いたのちの慶長16年(1611年)に廃城となりました。

なお富田城の周辺は、富田城跡を中心とする月山地区、天台宗の名刹・清水寺を中心とする地区、国民保養温泉地に指定されている鷺の湯温泉地区の3つの地区から成り立つ自然公園となっています。
        
     
城址に上る前に現地ボランティアの説明を受けましたが、絵図も立体模型図も汚れていたり文字が消えていた。観光客を呼び込もうとするならメンテも必要なのではないか。  
     
  城への上り口は菅谷口、御子守口、塩谷口の3ヶ所しかありません。塩谷口から上ります。  
     
山中御殿平(さんちゅうごてんだいら)
城には麓に里御殿があったためここは山中御殿平と呼ばれていたようです。菅谷口、御子守口、塩谷口のいずれから上りはじめてもすべてこの山中御殿平を経なければ山頂部にある本丸は行けない構造となっています。
 

本丸への登り口七曲りから見る山中御殿平
 
正面奥は山頂部で、三の丸、二の丸そして本丸がありました。
 
     

雑用井戸跡
 
喰違虎口構造の菅谷虎 門跡
 
 
七曲りから本丸を目指します。
 
   
  親子(しんし)観音
慶長13年(1608年)に建てられたた宝篋印塔で、伝承では慶長9年(1609年)に起きた堀尾家の家督相続に関する御家騒動で、その首謀者であるとして流罪処刑された堀尾河内守とその子である掃部の墓碑と云われていましたが、基礎に刻まれた戒名と「堀尾古記」からから堀尾勘解由の墓と推定されています。

注:宝篋印塔とは墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種です。
 
   

三の丸から二の丸と本丸への上り口が分かれます。
 
三の丸から見る二の丸の石垣
 
     

二の丸跡
 
二ノ丸の上段曲輪からの眺望。晴れていれば正面奥に中海が見えるのですが・・・・
 
     
  二の丸と本丸(正面奥の平らなところ)の間には深さ10mあったといわれる堀切があります。  
     

月山頂上にある本丸は細長い形です。
 
本丸から見る眺望。うっすらとですが中海が見えます。
 
     

本丸にある山中鹿介幸盛の記念碑
 
本丸の最奥にあり天照大神を祀っている勝日高守神社は城の守り神でした。
 
     
太鼓壇(千畳平(せんじょうなり))
時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝われていて、尼子神社と山中鹿介幸盛像があり、太鼓壇公園となっています。
尼子神社は尼子経久をはじめとする歴代尼子氏と、山中鹿介幸盛他諸勇士が祭神として祀られています。
     
 
        
  太鼓段公園にある山中鹿介幸盛像
山陰の麒麟児の異名を持ち、尼子十勇士の一人であった幸盛は、二度にわたる月山富田城の戦いで滅亡した尼子氏の再興を期して「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったといわれる逸話があり、一時は富田城を包囲するまで勢いがありましたが、布部・山佐の戦いで毛利軍に敗退、その後羽柴秀吉の軍勢に加わり播磨上月城の守備を賜るも毛利軍の猛攻により落城。備中松山城へ護送される途中、阿井の渡しで暗殺されました。
 
   
 
 
     
     
     
     
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