軍艦島

街歩きを少しお休みして軍艦島上陸ツアーに参加してみました。
 
        
  軍艦島への船が出るのは、長崎港の常盤ターミナルです。港を挟んで対岸には稲佐山が見えます。  
        
  長崎税関の広域取締艇「さいかい」(左側)と、海上保安庁第7管区に属するつるぎ型巡視艇「ほうおう」(右側)
海上保安庁の巡視船は、日本の領海内での警備が主任務ですが、広域取締艇は、港に入港する外国と往来する船舶や、外国に寄港した日本漁船等に対し、高速監視艇の機動性を有効に活用して密輸入の取締りを行っています。
 
       
  乗船するのは軍艦島コンシェルジュが運行している「JUPITER」、総トン数99トン、定員200名の船ですが、横揺れの少ないジャイロスタビライザーが搭載されています。
軍艦島ツアーは結構人気があるようで、私も前日申し込みましたが、その日はすでに予約でいっぱいでした。    
 
       
  定刻10時半に出航です。港の奥には旭大橋が見えます。  
       
  対岸にあるのは三菱重工長崎造船所です。液化天然ガスを運搬する大型のLNG船が停泊しています。
LNG船の右側にあるのは、ジャイアント・カンチレバークレーンといい、明治42年(1909年)に造られたイギリス製の吊上げ能力150トンの電動クレーンで、日本初の大型カンチレバークレーンです。このクレーンは、平成27年(2015年)にユネスコの世界遺産に明治日本の産業革命遺産を構成するひとつとして登録されています。
 
       
  造船所のドックには、海上自衛隊の護衛艦が何隻もドック入りしています。こちらはこんごう型の護衛艦「こんごう」で、日本初のイージス・システム搭載艦です。  
       
  三菱重工業長崎造船所の第三船渠
この造船所は、安政4年(1857年)に日本初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として操業を開始、その後三菱に払い下げられ、戦艦「武蔵」など多くの艦船を造船し、現在も多数の船舶を造船する100年以上現役の造船所で、明治日本の産業革命遺産を構成するひとつとして、平成27年(2015年)にユネスコの世界遺産に登録されています。
 
 
       
  対岸には小菅修船所跡が見えます。この修船所は、明治2年(1869年)にトーマス・グラバー、五代友厚らによって造られた、日本で初めての蒸気機関を用いた洋式船渠で、通称「コンニャクレンガ」と呼ばれる扁平な煉瓦を用いた曳揚げ小屋があり、これは日本最古のレンガ建築となっています。日本の近代造船では最古の遺構となっています。
この小菅修船所跡は、明治日本の産業革命遺産を構成するひとつとして、平成27年(2015年)にユネスコの世界遺産に登録されています
 
       
  南山手地区の風景です。奥の山は鍋冠山で、頂上は鍋冠山公園となっていて展望台があり、長崎の街が一望できます。  
        
  長崎女神大橋
愛称「ヴィーナスウィング」と呼ばれるこの橋は、慢性化していた長崎市内の交通渋滞を解消するため、平成15年(2005年)に完成した斜張橋で、延長1289m、水面からの高さ150mあり、大型船が航行できるよう考慮して造られました。
 
       
  出港してから約10分過ぎたところで、高鉾島が近づいてきました。小さな無人島ですが、この島では、キリスト教禁教令が出された後の、元和3年(1617)に、宣教師をかくまっていた2人のキリシタンが捕らえられており、その後キリシタンとして初めて処刑されたところです。  
       
  カトリック神ノ島教会と岬のマリア像
「神ノ島」と名前がついていますが、島ではありません。かつては離島で、長崎港の入口にあたっていましたが、1960年代に埋め立てが行われて長崎市内と陸続きになっています。
教会は、明治9年(1876年)に木造の仮教会が建てられ、その後、明治30年(1897)に煉瓦造りの教会が建てられました。
写真では少し見難いですが、教会の前にある岬には、「岬のマリア像」と呼ばれるマリア像があります。マリア像が最初に建てられたのは昭和23年(1948)のことで、当時は高さ1.7mと小型のものでしたが、現在のマリア像は昭和59年(1984)に再建されたもので高さは4.7mあり、港に出入りする船の航海安全を祈っています。
 
       
  カトリック馬込教会
カトリック馬込教会は伊王島にある教会で、正式には聖ミカエル教会といいますが、「馬込教会」、「馬込天主堂」、「沖之島天主堂」などいくつもの名前で呼ばれています。教会は、明治23年(1890年)に建てられたのが初めですが、台風や落雷などで被害を受けたため、昭和6年(1931年)にゴシック様式で再建されており、国の登録有形文化財となっています。
この伊王島は、平安時代の僧俊寛が流刑され、亡くなったとの言伝えが残されており、その墓もあります。また、島にある伊王島灯台は、江戸条約で設置を約束した8ヶ所の灯台のうちのひとつで、明治4年(1871年)に日本初の鉄造灯台として完成、点灯しています。
 
        
港を出港してから「軍艦島」が見えてきました。正式な島の名前は「端島(端島)」といいますが、大正時代に大阪朝日新聞で島の外観を「軍艦と間違えそうである」と報道しており、このころから「軍艦島」と呼ばれるようになったようです。
島は現在無人島ですが、江戸時代の末期に島で石炭が発見され、佐賀藩の管理のもとで、最初は露天掘りで採掘していましたが、明治19年(1886年)には深さ36mの第一竪坑が完成。その持ち主であった鍋島氏から三菱に譲渡され、炭鉱の規模が拡大。大正5年(1916年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造りの集合住宅が造られるなど、最盛期の人口は5000人を超え、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つとなりました。
その中では、従事者不足から朝鮮や中国から強制的に送り込み最下級の労働に従事させる、終戦後も日本人労働者の扱いで差別があるなど労働争議も発生していました。
昭和の半ば(1960年)代には、エネルギー革命により、石油の利用が増えて石炭の需要は減少し、昭和49年(1974年)1月で閉山となり、同年4月20日に島は無人島となりました。
閉山後の島は長崎県に譲渡されましたが、建物の老朽化、廃墟化が進み、危険な箇所も多くことから立ち入りが禁止されていましたが、平成20年(2008年)に長崎市が条例制定を行い、立ち入り制限区域はあるものの、観光客が上陸して見学できることとなりました。
島は平成27年(2015年)に、ユネスコの世界文化遺産に、幕末から明治の重工業施設を中心とした「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして登録されています。


※ 右の写真はウィキペディアより借用しています。
 
 
       
  横から見る端島はその名の通り軍艦を思わせます。  
       
  島は南北に約480m、東西が約160mと長方形の形をしていますが、当初からこの大きさであったのではなく、小さなセであった島を埋め立てによってこの大きさにしたようです。
写真は島の東側で、左側にある建物は、端島小中学校跡で、明治26年(1893年)に端島尋常小学校として開校し、その後中学校が併設されたもので、昭和33年(1968年)に建てられましたが、開校80年目の昭和49年(1974)に閉校となっています。
中央には10階建ての鉱員宿舎、右側は端島病院と隔離病となっていました。
 
       
  船が島の南側に回ると、高台に白い灯台が見えます。
この灯台は、肥前端島灯台といい、無人島であり夜間は真っ暗となることから、船の航行に支障の出ないよう昭和50年(1975年)に建てられたもので、現在あるのは平成10年(1998年)に建てられた二代目の灯台です。
 
       
  ドルフィン桟橋
島に上陸するための桟橋は、南西側にあるこの桟橋1ヶ所だけです。
今日は波もほとんどなく無事着岸、上陸できそうですが、防波堤もなく外海に造られた小さな桟橋ですので、風が強く波が高いと着岸できずということが結構あるようで、上陸できるのは年間100日位、それも11月から3月までの上陸は難しいとのことですから、とてもラッキーです。
 
     

 
 
  軍艦島コンシェルジュより配付された島の案内図です。
上陸した見学者は、地図の赤く塗られた見学通路と見学広場を、ガイドさんに続いて歩きます。それ以外は全て立ち入り禁止となっています。

11時35分いよいよ島に上陸、第1見学広場、第2見学広場そして第3見学広場とみて回ります。
 
 
       
  第1見学広場から見る貯炭場跡(手前の草むら)とベルトコンベヤー跡(右端の支柱)
地下で採掘された石炭は、精炭されたのちにベルトコンベヤーで、この貯炭場まで運ばれて運搬船に積まれて出荷されていました。

正面奥は端島小中学校跡のようです。
 
       
  左側の建物は貯水槽、右側は島の一番高いところに建てられている第3号棟で、幹部社員用の住宅となっており、戸数は20戸の内風呂付でした。  
       
  坑道が塞がれていますが、製炭した後のボタ(捨石)を島の反対側に送って捨てるための地下道となっていました。  
        
  第2見学広場前にあるのは、鉱山の中枢部となる総合事務所です。
赤煉瓦造りの建物で、内部には抗夫達が利用するお風呂が設けてありました。
    第2立坑の入口
最盛期にはこの立坑が3基あって、エレベータ(というかケージのようです。)で一番深いところでは、地下約1000mまで下って、採炭していたとのことです。
坑道は気温30度前後、湿度95%という厳しい作業条件、それに加えて炭塵爆発の恐れと隣り合わせといった中での作業が行われていました。
 
   
第3見学広場に来ました。
正面の建物は30号棟アパートで、大正5年(1916年)に建てられた日本で最古の7階建て鉄筋コンクリート造りの鉱員社宅用の高層アパートです。左側は31号棟アパートで、やはり鉱員社宅用となっており、理髪店や郵便局、地下には共同浴場がありました。
 
   
 
左の写真は会議室と鍛冶工場、右は仕上工場です。仕上工場は機械のメンテナンスを中心に行っていました。  
   
 
約1時間で島の見学を終え街に戻ります。着いたらまた街歩き再開です。  
   
   
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