平林寺の紅葉(2015.11.21&27撮影)      
新座市野火止にある平林寺は、正式には金鳳山平林禅寺といい、永和元年(1375年)武蔵国騎西郡渋江郷金重村(現 さいたま市岩槻区)に、石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師により開山、当時岩月城主であった大田備州沙弥蘊沢(しゃみうんたく)により開基された臨済宗の寺院です。
寺はその後寛文3年(1663年)に川越城主で徳川幕府の老中であった松平伊豆守信綱の遺志を継いだ長男で川越藩2代藩主の輝綱により野火止の地に菩提寺として移転したもので、関東の名刹として知られています。野火止の台地に13万坪もの広大な境内を有し、境内林は国の天然記念物に指定されており、紅葉の時期には訪れる大勢の人でにぎわいます。
 
        
   
総門
切妻造茅葺の四脚門で、埼玉県の有形文化財に指定されており、石川丈山(江戸時代初期の武人、文人で煎茶の祖と呼ばれ儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していました。)によって正保5年(1648年)に揮毫された「金凰山」の扁額が掛けられています。 総門を入ると山門まで短い参道があります。
 
     
   
石川丈山揮毫による「凌霄閣(りょうしょうかく)」の扁額が掛けられた山門は、入母屋造茅葺の楼門で建てられており、門の左右には「電力王」と称された松永耳庵(1875~1971)寄進の金剛力士像が配されています。(埼玉県有形文化財指定)
 
     
  経蔵
山門の左奥にあるこの経蔵は、寛文12年(1672年)に松平久綱の正室である宗学院の寄進により建立されたもので、四方に外縁のある方形造りとなっています。
 
     
仏殿
山門の奥にあるこの仏殿は、単層入母屋造の茅葺で禅宗様式を踏襲しており、正面には天明元年(1781年)に書家三井親和の揮毫による「無形元寂寥」の扁額が掲げられており、仏殿内部の中央の須弥檀には釈迦・阿難・迦葉の三尊像が安置されています。この仏殿は埼玉県の有形文化財に指定されています。

右の写真は仏殿横の紅葉です。
     
 
     
戴渓堂(たいけいどう)
高玄岱(こうげんたい 江戸時代の儒学者、書家・篆刻家)により寛文3年(1718年)に建立されたもので、堂内には独立性易(どくりつしょうえき 中国の禅僧で日本に渡来し、書法、水墨画、篆刻を伝え、日本篆刻の祖と称されています。)の座像が安置されています。
     
 
        
  中門
茅葺きの切妻造りの四脚門で造られており、平林寺の中心部となる本堂、開山堂、僧堂、書院、庫裏への入口となる門で一般見学者はこの門を潜って本堂正面までしか入山できません。(埼玉県有形文化財指定)
 
     
  本堂
慶応3年(1867)12月の火災により庫裏とともに焼失したこの本堂は明治13年(1880年)に再建されたものです。

境内は入口にあたる総門からこの本堂まで一直線に配置されています。
 
        
本堂の前庭には慶応3年の火災で燃えた木が一本、枯れずに残っており、新芽が出ています。
ちょうど本堂を掃除していた若いお坊さんがいたので木の名前を訪ねましたが「わかりません」とのことでした。
    
 
     
   
鐘楼の周りの紅葉はちょうど見頃です。  
     
   
庫裏入り口付近の紅葉  
     

禅宗四部録堤唱
 
禅宗四部録堤唱前の苔と落ち葉
 
     
  半僧坊感応殿
半僧坊は静岡県引佐郡引佐町にある臨済宗方広寺の鎮守、半僧坊大権現がその源といわれ、半俗半僧の姿をした摩訶不思議な神通力をもつ守護神を信仰しており、明治29年(1892年)に勧請されたものです。半僧坊では毎年4月に半僧坊大祭が催され大勢の人が訪れるようです。
 
     
  放生池
半僧坊の裏側にあるこの放生池、大きさはそれほどではありませんが中央に小島があり弁天堂が建てられています。
 
   

地蔵半跏像
いつ頃に祀られたのか由来は不明ですが、右手に錫杖、左手に宝珠を持って、左脚を踏み下げて蓮華座に座るという珍しい姿の地蔵像です。
      島原の乱供養塔
島原の乱は、寛永14年(1637年)から15年にかけて発生した日本の歴史において最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれており、肥前島原半島、肥後天草諸島の領民たちが、過酷なる年貢の取り立て、キリスト教徒への迫害と飢饉の被害を訴えて起こされた一揆です。
この乱では当時16歳であった益田四郎時貞(天草四郎時貞)を総大将に約3万7千人もの領民達が廃城となっていた原城に立て籠もり幕府軍と戦闘を行い、3ヶ月もの間の籠城の結果、兵站の補給もなく弾薬・兵糧も尽き果て女子供から老人に至るまで全員皆殺しにされたということです。
この時の幕府軍の総大将が武蔵忍藩の藩主であった松平信綱で、この供養塔は乱により亡くなった人たちの霊を慰めるために三河吉田藩の家臣であった大島左源太が松平家の菩提寺であるこの地に建立したものです。
  
              
松永安左エ門の墓
松永安左エ門は福博電気軌道の設立にかかわり、その後電力関係にも力を注いで「電力王」、「電力の鬼」と言われた人で、近代小田原の三茶人の一人で、号を「耳庵」といいます。
    前田卓(つな)と前田利鎌(とがま)の墓
卓は、夏目漱石の小説「草枕」に出てくる「那美」のモデルとされている女性で、孫文ら中国の革命家が日本で作った「中国革命同盟会(のちの中国同盟会)」を支援したことでも知られています。
利鎌は卓の異母弟で、卓の養子となり、東京工業大学の哲学の教授をとめた人です。
 
 
     
野火止用水
別名「伊豆殿堀」と呼ばれるこの用水は、関東ローム層の地盤であった武蔵野台地の生活用水を確保するために、承応2年(1653年)に幕府の老中で川越藩主であった松平信綱が、多摩川の水を羽村から武蔵野台地に通す玉川上水を開削し、その後領内の野火止への分水を許されて開削したもので、立川市の小平監視所から取水し新河岸川を経て、当時「いろは樋」と呼ばれた水路橋を用いて志木市宗岡近辺まで総延長25km近く導いていました。
用水は戦後の生活様式の変化で汚染が進み、取水が一時停止されましたが、東京都の清流復活事業で高度下水処理を行い、ボランティアの活動もあって最近では鯉が泳ぐほどの清流となっているようです。
 
     
大河内松平家の墓所
左から廟所参道、大河内松平家墓所、松平伊豆守信綱公墓の写真で、廟所参道は本堂から廟所までの間の杉の並木道に座禅燈籠が50基ほど配されており通常は閉鎖されています。
大河内家の墓所には歴代の大河内家の直系にあたる伊豆守家歴代の墓石群が建ち並んでいて、手前には「知恵伊豆」と呼ばれた河越侍従松平伊豆守信綱のお墓があります。
       
 
   
境内林の紅葉
平林寺の境内林の広さは約56ヘクタール、浜離宮の2つ以上、東京ドーム約12個分くらいの広さがあり、スギ・ヒノキを主体とする針葉樹林が取り囲み、さらにその外側を、武蔵野を代表するコナラ・クヌギ・エゴノキ・イヌシデを主体とする落葉広葉樹林がとりまいており、国の天然記念物に指定されています。
訪れたこの日はまだ青葉の紅葉も多かったのであと一週間くらいは楽しめそうでした。
 
        
   
   
  野火止塚
境内林の中にある塚で、九十九塚ともいい、かつて焼畑農業をしていた時代の火勢の見張りか、火田狩猟(のに火を放って獲物を追い出す狩猟法)の見張りなどに用いられていたのではないかといわれています。
 
     
  業平塚
在原業平が京から東下りをしていた際に駒を止めて休んだ所といわれており、「むさし野にかたり伝えし在原の その名を偲ぶ露の古塚」と詠んで塚を建てたいわれています。(塚は現存していません。)
 
     
 
 
     
     
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