世界文化遺産厳島神社(2016.05.29撮影)
 
   
宮城県の松島、京都の天橋立と並んで『日本三景』と知られる景勝地の宮島、正式には厳島といい、瀬戸内海の芸予諸島の島のひとつで、廿日市市の宮島口駅からフェリーで10分ほどのところにあります。
広島電鉄の宮島口駅からフェリーで宮島桟橋に着くと構内の壁には地元のライオンズクラブがクラブ創設50周年を記念して寄贈したからくり時計が架けられており、毎日午前8時から午後8時まで1時間ごとに「平清盛と蘭陵王」の人形が踊る仕掛けとなっています。


ここ宮島は古代より自然崇拝の対象とされていた島で、推古天皇元年(593年)に創建されたと伝えられる「厳島神社」があり、年間300万人を超える参拝者や観光客でにぎわう島です。
厳島神社は1996年ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されています。
        
  大鳥居
神社の境内、といっても沖合200mほど離れたところに建てられていて、棟の高さ16.6m、柱間10.9mある大型の木造両部鳥居で、奈良の春日大社、敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられており、平清盛が初代を造営してから8代目となる明治8年(1875年)に造営されたもので、重要文化財に指定されています。
晴れていれば海と空の青さに朱塗りの鳥居がよく映えるのでしょうが、訪れたこの日はあいにくの雨模様です。
 
     
   大杓子
神社の参道の入口のところにあるこの大杓子
、なんでも宮島が杓子発祥の地ということで、樹齢270年の欅の木から約3年の歳月をかけて制作されたもので、長さ7.7m、最大幅2.7m、重さ2.5tと世界最大の杓子です。
 
     
    
 
社殿は宮島の北部、大野瀬戸に面した有浦(ありのうら)と呼ばれる湾の奥に建てられており、遠目では浮かんでいるように見えます。後方に見える弥山(みせん)は雨のため霞んでいます。  
     
  客神社(まろうどじんじゃ)の回廊より望む、左から本殿、高舞台(中央石燈籠の後ろの赤い部分)、右楽房、一番右側はは右門客神社(みぎかどまろうどじんじゃ)  
     
  回廊
国宝に指定されている朱塗りの回廊の幅は4mあり、その全長は260mもあって、他の神社やお寺では見られぬ壮大なものです。床板は釘を使っておらず板と板の間は隙間があるようになっていて、満潮時の波や高潮でも波のエネルギーを分散するよう考慮されています。又床板は当初は1枚でしたが、近年になって参拝者が靴を脱がずにという配慮から2重にされています。

なお、見学は一方通行となっているので逆戻りして見直すことはできません。
 
     

  客神社祓殿の回廊より見る右楽房、奥に左楽房が見えます。いずれも国宝指定  
     
  客神社祓殿の回廊より見る本殿付近の回廊  
       
  回廊より望む五重塔
応永14年(1407年)に建立された五重塔は高さが27mあり、四隅の軒の反りが強いのが特徴となっています。

右の写真は豊国神社前で撮影したものです。
   
     
  回廊より望む大鳥居
右側は客神社祓殿、左奥は右楽房で、ここは「枡形」と呼ばれており、毎年旧暦の6月17日に行われる管弦祭では、御座船や阿賀・江波の曳船がここに入り、船を3回廻します。
楽房は舞楽の際に楽を奏するところで、高舞台の両側に造られています。
 
   
  回廊より見る客神社祓殿
客神社は平安時代の創建で国宝に指定されています。本殿、幣殿、拝殿は祓殿の奥にあり見えません。
 
     
  本殿
平安時代に幣殿、祓殿と続く三棟造りで建立された本殿は国宝に指定されており、現在の姿は元亀2年(1571年)に毛利元就によって改築されたものです。
 
     
  平舞台から見る本殿
国宝に指定されている平舞台は、寝殿造りでいえば庭にあたる部分で、全体の広さは約553㎡(167.6坪)あり、中央に一段高く赤い欄干で囲まれた高舞台(写真右端)が設けられています。
 
     
  門客神社
国宝に指定されており、火焼前
(ひたさき)を挟んで左右にありにあります。平成3年と平成16年の台風で被害を受けましたが修復されています。
(雨粒が写っているのがちょっと残念)
 
     
  能舞台(左)と天神社(右)
何れも重要文化財に指定されていて、能舞台は延宝8年(1680年)に広島藩主浅野綱長により改修されたもので、日本で唯一の海中に建てられた切妻造りの能舞台です。ここでは毎年4月に桃花祭神能が行われます。
天神社は弘治2年(1556年)に毛利隆元によって寄進されて創建したもので、古くは「連歌堂」と呼ばれ、明治時代の初めまで連歌の会が開かれていました。
 
     
  反橋
別名を「勅使橋」といい天皇の使者だけが渡ることができた橋で、鎌倉時代に造られていましたが、弘治3年(1557年)毛利元就・隆元父子により再建されたもので、長さ約24m、幅4mあり、高欄は丹塗り、橋脚は墨塗りの構造となっています。
 
     
清盛神社
厳島神社の出口から右に折れて松並木の続く参道を往くと、清盛神社があります。
この参道は厳島神社の裏を流れる御手洗川からの土砂などを用いて造られた参道で「西の松原」と呼ばれています。
清盛神社は、平清盛没後770年を記念して昭和29年(1954年)に創建されたものです。
   
 
     
  大願寺
亀居山方光院大願寺という名が大願寺の正式名称で、開基の時期については不明のようですが、建仁年間(1201年~1203年)の僧了海が再興したと伝えられる真言宗の古刹です。
本堂奥にある書院では、第二次長州戦争の際、当時幕府の軍艦奉行であった勝海舟と長州藩を代表する井上馨(後に第2次伊藤博文内閣の内務大臣などを歴任)、広沢真臣(維新の十傑として知られ、後に明治政府の参議を務める)らの長州藩士が講和会議をした場所として知られています。
 
     
  厳島龍神と九本松
厳島龍神は大願寺境内の池の中にあって弁財天の使いとされており、後ろに見えていて上半分が写っていない松の木は、伊藤博文公が植えられたというクロマツ(推定樹齢200年)があり、根元から9本に分かれて伸びていることが「九本松と」呼ばれています。
 
     
  後白河法皇御行幸松の遺木
承安4年(1174年)に後白河法皇が厳島神社を参詣された際にお手植えされた松の遺木で、明治時代の初期に切り倒されたものです。(中が空洞になっています。)
 
     
  豊国神社
厳島神社の裏手の小高い丘の上にあるこの神社は、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が安国寺恵瓊に建立を命じた経堂で、畳857枚分もの広さがある厳島内では最大の建造物で「千畳閣」と呼ばれています。
建設開始後秀吉が亡くなったため工事が中断、一部を残して板壁もないまま現在に至っているとのことで、江戸時代には小高いところにあることから憩いの場、納涼の場として親しまれていたようです。
 
     
厳島観光は弥山迄観光しようとすると最低4時間は必要のようですが、今回はツアーで出かけたのでわずか2時間足らずの観光となり、おまけに雨も降っているため思うように写真も撮ることができずちょっと残念です。
機会があれば晴れた日にロープウェイで弥山まで登ってみたいと思っています。


※ 鹿にご用心を!!
島内には500頭以上の鹿がいますが、すべて野生の鹿で、かつ『神鹿』として扱われています。歩いていると女性の悲鳴が聞こえたので後ろを振り返ると、ビニール袋の中に食べ物が入っているか、袋に噛みついていました。
 
 
     
     
     
     
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