鹿児島街歩き その2  
       
 



丹下梅子生誕の地

明治7年(1873年)にこの地で生まれ、日本女子大学を卒業後に、女性で初めて帝国大学(現 東北大学)に入学して卒業。
米国のスタンフォード大学、コロンビア大学で栄養学を修め、ジョンズ・ホプキンズ大学でステロール研究で博士号を取得。日本人女性として辻村みちよ茶カテキンなど(緑茶の研究で日本で初めての女性農学博士)に続いて二人目の農学博士となりました。
帰国後理化学研究所で鈴木梅太郎のもとでビタミンの研究を行い、東京帝国大学(現 東京大学)より農学博士の学位を受けています。
昭和30年(1955年)に82歳で亡くなるまで独身を続け、女性化学者の先駆者として学究に生涯をささげた人です。
 
所在地:鹿児島市金生町5
 
      
 
 



月照上人遺跡の碑

江戸時代末期に大坂の町医者の長男として生まれた宗久は、伝手を頼って京都の清水寺成就院寺に入り、長じて住職となりましたが、次第に尊王攘夷主義に傾倒。幕府からは危険人物とみなされるようになりました。
その後安政の大獄で追われる身となり西郷隆盛とともに京都を脱出し、海路で薩摩に逃れましたが、藩は月照を厄介者である月照の保護を拒否し日向との国境で殺害しようとしました。
このため、月照は西郷とともに錦江湾で入水自殺を図りましたが、西郷は奇跡的に一命をとりとめたものの月照はなくなりました。

なお、清水寺では月照の命日にあたる11月16日に「落葉忌」として法要を行っているとのことです。

所在地:鹿児島市金生町5
 
      
 
 



五代友厚像

江戸時代末期の天保6年(1836年)に『三国名勝図会』の執筆者で、薩摩藩士で記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として生まれた五代友厚は、質実剛健を尊ぶ薩摩の気風のもとに育ちました。
藩の遣英使節団の一員として欧州各地を巡歴後帰国した後は、実業家としての道を開きはじめるとともに、倒幕運動で活躍。
維新後は新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事として外交処理にあたるとともに、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。
その後、大阪株式取引所、商法会議所(現 大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現 大阪市立大学)を設立。
更に、大坂青銅会社(現 住友金属工業)、大阪商船(現 商船三井)など多くの事業をスタートさせた大阪経済界の重鎮の一人でした。

所在地:鹿児島市金生町5
 
      
 


小松帯刀像

江戸時代末期の天保6年(1836年)に喜入領主・肝付兼善(5,500石)の四男として生まれ、薩摩藩の奥小姓・近習番となり、吉利領主・小松清猷(2,600石)の跡目養子となって家督を継承し小松姓となる。
薩摩藩11代藩主島津久光の側役になったのち御改革御内用掛に任命され、藩政改革を行い、家老職となってからは薩長同盟、大政奉還において維新十傑の一人

所在地:鹿児島市山下町5-3
 
      
 


赤﨑(「赤崎」と記されることが多いようです。)勇工学博士ノーベル物理学賞受賞記念碑

赤﨑(「赤崎」と記されることが多いようです。)博士は、鹿児島県知覧村(現 知覧町)出身の半導体工学者で、京都大学理学部を卒業後、神戸工業に入社し、国産ブラウン管の開発を担当。
その後名古屋大学の教授に転身したのちに工学博士となり、松下幸之助の熱望を聞き入れて松下電器の東京研究所の研究室長に転身。
同研究所では各種発光ダイオードの研究を行い、日本で初めて赤色レーザーダイオードを発振させました。
再び名古屋大学に戻った赤﨑博士は、窒化ガリウム(Gan)の結晶化に成功し、青色発光ダイオード(青色LED)を発明することに成功し、平成26年(2014年)に、ノーベル物理学賞を受賞しました。
碑は、市内宝山ホール前にあり、赤﨑博士直筆の「本当にやりたいことをやりとげるあきらめない心を」の若者に向けた言葉が刻まれています。

所在地:鹿児島市山下町5-3
 
      
 
   
  鹿児島市中央公民館

見るからに古そうな建物と思って撮影し、帰って調べたら昭和2年(1927年)に建てられた建物で、開館当時は市公会堂として用いられていたとのことで、公会堂建築としては、大正7年(1918年)に建てられた大阪市公会堂に続いて日本で二番目に古い公会堂で、東京の日比谷公会堂よりも2年早く建てられており、国の登録有形文化財に登録されています。

所在地:鹿児島市山下町5-3
 
 
   
  撮影広場
中央公民館前にある広場は、城山を背にした高さが5mもある西郷隆盛像をバックに記念写真を撮ることができる広場となっています。手前の小さな犬は西郷隆盛の愛犬であった「ツン」という名の薩摩犬のようです。
 
所在地:鹿児島市山下町5-3
 
 
   
  シティビューに乗って城山公園に。バス停から歩いて数分のところに展望台があります。ここからは市内の町並みと桜島が一望できますが、残念なことに少し雲が出始めており、いい色が出ません。
 
所在地:鹿児島市城山町22
 
 
   
 
     
 


西郷隆盛洞窟 

明治10年(1877年)の2月、西南戦争で敗色濃厚となった薩軍は鹿児島城下から九州各地を転戦し、再び鹿児島に戻り、9月1日に城山に立て籠もりました。西郷ととともに行動した桐野利明たちと最後の5日間を過ごしたのがこの洞窟と伝えられています。
洞窟は当時11個掘られましたが、昭和49年(1974年)までそのまま放置されていたため殆どが崩れており、現在残るのは写真に写っている二つのみとなっています。
 
所在地:鹿児島市城山町19
 
 
 
     
   
  敬天愛人の石碑

鹿児島本線の城山トンネルのところにある碑で、西郷隆盛の座右の銘とのことですが、「 道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」という意味のようです。
場所的には道路より少し下がったところにトンネルがあり、フェンス越しの撮影となるため正面からのアングルでは撮ることができません。よじ登って撮ってもこれが精いっぱいでした。
 
 
 
 

南洲翁終焉之地碑

城山の洞窟から出た西郷隆盛らの一行は明治10年(1877年)9月24日最後の戦いをこの地で行い、官軍(明治政府軍)からの総攻撃で股と腹に被弾し、別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、別府晋介の介錯で自刃して果てました。この時西郷隆盛は49歳でした。
 
所在地:鹿児島市城山町12
 
     



西郷隆盛の墓
 
南洲公園内にある南洲墓地には西南戦争で亡くなった薩軍の兵士を弔う墓地があり、西郷隆盛もこの墓地に眠っています。 

所在地:鹿児島市上竜尾町2-1
 
 
勝海舟の歌碑
南洲公園内には、勝海舟が西郷隆盛を偲んで詠んだ「ぬれぎぬを 干そうともせず こどもらが なすがままに 果てし君かな」の歌碑があります。
 
 
 


薩摩義士碑

宝暦3年(1753年)、徳川幕府は薩摩藩に対して木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の改修工事を命じました。薩摩藩は、約1000人もの藩士や領民たちを動員して工費約40万両を費やし、1年3か月かけて改修工事を完成。(当時の1両を現在の貨幣価値に換算するのは困難ですが、蕎麦代金などから換算すると、江戸時代の中期から後期にかけての1両は3~5万円とのことですので、4万円として計算すると約160億円かかったことになります。)
この間、幕府の婉曲な工事の妨害や現地住民との対立そして悪疫の流行などにより、工事にあたった藩士と領民が病となって命を落としたということです。
工事完成後多大な出費の責をとって治水総奉行であった家老平田靱負は自刃しており、この供養碑は、その犠牲になった志士たち88名の碑を、平田靱負の碑を頂点にして設けられたもので、大正9年(1920年)に建立されています。
 
所在地:鹿児島市城山町11
 
     
 


私学校跡記念碑
明治6年(1873年)に政変で下野し鹿児島に戻った西郷隆盛が鶴丸城内に、鹿児島の士族のために創設した学校で、「幼年学校」、「銃隊学校」、「砲隊学校」の三校がありました。
学校の設立の真の目的は、不平士族の暴発を防ぐ事にあったとのことですが、明治10年(1877年)1月に大久保利通、川路利良らが陰謀を企てたとして激昂した同校生徒達が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけで西南戦争が勃発したといわれています。
学校は西南戦争後に廃校となっており、現在は門と壁だけが史跡として残されています。
 
所在地:鹿児島市城山町8
 
     
 
私学校の石垣に残る西南戦争時の弾痕跡

明治10年(1877年)の西南戦争の際、同年9月5月から9月にかけて、この私学校周辺は官軍と西郷軍の間で激しい攻防戦が行われており、石垣には官軍が放った銃弾の跡が今でも生々しく残されています。
 
 
 
 


鶴丸城

慶長6年(1601年)に薩摩藩初代藩主島津忠恒(家久)によって築城された城で、正式には「鹿児島城」というようですが、鹿児島では、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから、別名の「鶴丸城」と呼ぶほうが多いとのこと。城は城山を背後にして屋形(本丸、二ノ丸、出丸)を設けていましたが、天守や櫓そして高石垣は築かれておらず、「薩摩77万石」と呼ばれる大大名としては「不思議」であるといわれていました。
南国鹿児島は白アリの被害が多かったため、城は幾度となく倒壊し、そのたびに再建されていたとのことですが、明治7年(1874年)に焼失して以後の再建は行われませんでした。
鶴丸城は、平成18年(2006)年に日本100名城97番に選定されています。
所在地:鹿児島市城山町7-7
 
      
 
   
  御楼門
鶴丸城のシンボルであった御楼門は、二重二階造で本瓦葺きとなっていて屋根には鯱を置き、この鯱迄の高さが約20mあったとのことですが、明治6年(1873年)に失火により焼失し、そのままとなっていました。
平成27年(2015年)より県、市民、鹿児島市等が復元に向けて協力し合い、令和2年3月に147年ぶりに復元が完成しました。

 
 
   
  西南戦争の弾痕の跡

御楼門を入った正面の石垣には数十か所にわたって窪みがありますが、明治10年(1877年)の西南戦争の際に官軍から行われた攻撃による弾痕の跡です。
 
 
 
 


天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)の像

天保6年(1836年)に島津一門に生まれ、島津本家の養女となって、さらに五摂家筆頭の近衛家の養女になって名を藤原敬子(ふじわらのすみこ)にあらた、。そして安政3年(1856年)に徳川家に嫁ぎ、13代将軍徳川家定の御台所となりました。
輿入れ後2年目に家定が急死し、結婚生活は堡図化1年9ヶ月という短いものになり、落飾して天璋院と名乗りました。落飾後、薩摩藩より薩摩への帰国を申し入れたとのことですが、天璋院はこれを拒否し江戸で住むことを続け、明治16年(1883年)満47歳で亡くなりました。
 
      
 
   
  黎明館
明治百年の記念事業として城址跡内に建設されたもので、正式には「鹿児島県歴史・美術センター黎明館」といい、「郷土の歴史・文化遺産に対する県民の理解と認識を深め、その文化活動及び学術研究に寄与するための施設」として、昭和58(1983)年に開館しています。
 
 



火山灰の回収

桜島からの火山灰。その処理は市民の頭を悩ませるもので、自治体から配られる克灰袋(こくはいぶくろ)という専用の袋に詰めて、所定の位置に置くことになっているようです。
道路などは市、県、国(国土交通省)が、ロードスイーパーという降灰処理専用の車で吸いこんでトラックに積みなおして処理場に持ってゆくとのこと。
 
 
 
     
 
西郷隆盛像
 
      
     
 
 城山町中心のマップ
 
     
     
     
       トップページに戻る       鹿児島街歩き その3を見る