鹿児島街歩き その4  
 
 


仙厳園

国の指定名勝となっている仙厳園は、万治元年(1658年)に薩摩藩の別邸として、19代藩主であった島津久光により造園されたもので、造園後は歴代当主が借景技法を取り入れて改築され、桜島を築山、鹿児島湾を池に見立てた広大(約5ha=約15,000坪)な庭園が特徴となっており、別名では「磯庭園」と呼ばれています。
幕末には28代当主の島津斉彬が、ヨーロッパ式製鉄所やガラス工場などを建設して近代化事業を起こしました。(これらの事業は、「集成館事業」と呼ばれています。)
 
 
 
   
  訪れたときは園内で菊祭りをおなうための準備が行われていました。
 
 
 
 
 
  左上の写真の中央に見えるのは人間の手ではありません。顔、足をつけて右の写真のように完成です。
 
 
   
  29代当主島津忠義により明治28年(1895年)に建てられた正門。上は国道側から、下は園内側から撮影
 
   
      
   
   
   
  錫門
江戸時代の後半に建てられたといわれる錫門、この門を通ることができるのは藩主と嗣子(世継ぎ)だけであったとのことです。
門の名前は屋根に葺かれている錫からきており、江戸時代の初めに錫の鉱山が発見され、薩摩藩の特産品となっていました。
尾根は瓦葺または銅板葺きがほとんどですが、錫を用いられている屋根はめったに見ることができません。
 
 
   
  御殿
現在ある御殿の建物は、明治17年に改築された部分が中心となっていますが、薩摩藩最後の当主であった29代当主の島津忠義は、鹿児島城が焼失していたこともあって、一時ここを本邸として利用していました。
この御殿には、1890年(明時23年)の秋からの世界旅行中に日本に立ち寄った、ロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)が明治24年(1891年)の4月から5月にかけて日本に立ち寄った際に訪れており、大正11年にイギリスkのエドワード皇太子(後のエドワード8世)がプリンス・オブ・ウェールズとして訪れており、祝賀会の際には鎧兜をまとって参加されました。
注:ニコライ皇太子は日本国内を回っていましたが、5月11日に滋賀県の大津から京都に戻る際に滋賀県の警察官によってサーベルで切りつけられるという事件(大津事件)が発生しています。
 
 
 
 
 
 
 


鶴灯籠

28代当主の島津斉彬が、安政4年(1857年)にこの灯籠を用いてガス灯の実験を行ったところで、敦賀羽を広げた姿に似ていることからこの名がついたとのことです。
 
 
     
 
 
  望嶽楼
約350年前に琉球王国から伝わったといわれる東屋(あずまや=四阿)で、28代当主の島津斉彬がここで勝海舟と面会したとのことです。
 
 
 
 
高枡
庭園内の湧き水の水量を調整するために設けられた水道施設で、園内の湧き水をいったんこの施設に集めてから、サイフォンの原理を用いて御殿前の池などに配水していました。
 
 
   
  茶室秀成荘
右隣にある徒然庵とともに、昭和62年(1985年)に建てられた茶室で、秀成荘は広間、徒然庵は小間として用いられています。
 
 
   
  水力発電用ダム跡
第29代当主島津忠義が、工場である就成所用の送発電をするために設けたもので、上部の水槽からの落差を利用して、下にあった水車を回転させて発電するという仕組みで、明治25年(1892年)には邸内に電気を送って灯りを灯したり、就成所と邸内をつなぐ電話にも利用されていました。
因みに鹿児島市内の電灯は5年後の明治30年(1897年)、電話はさらに遅れて明治39年(1906年)とのことでしたから、島津家は時代の先端をいっていました。
  
 
   
  曲水の庭
昭和34年(1959年)に発掘により発見されたもので、元禄15年(1702年)に21代当主島津吉貴の時代に築造されたと推定されており、ここで「曲水の宴」が催されており、現在も平成4年(1992年)に復活して毎年続けられています。
 
 
 



御庭神社

園内の最奥にあるこの神社は、旧鶴丸城内や仙厳園内など各地に散在していた朝日神社、厳島神社など13社の神社を、大正7年(1918年)に合祀して社殿を新築したものです。
 
 
 
 
 
  江南竹林
「江南」とは孟宗竹の別名で、この林は、琉球在番として赴任していた物頭野村勘兵衛良昌が、元文3年(1736年)に帰国する際に、琉球滞在中に清から輸入した孟宗竹を献上したのが、国内で初めてといわれています。
右の写真は、刻まれた文字が薄れだして判読しにくくなっていますが、「仙巌別館江南竹記」の碑で、五代友厚の父の五代秀
堯(ひでたか)によるものです。
 
 
 



猫神(ねこがみ)神社

全国から猫好きの人が集まるといわれている神社で、17代藩主島津義弘が朝鮮出兵の際に7匹の猫を連れてゆき、猫の目の瞳孔の開き方を見て時間を推測していたという逸話が伝えられており、無事帰還した2匹の猫が祀られているとのこと。
毎年6月10日の時の記念日にあわせて猫長寿祈願と供養祭が行われているとか。
 
 
 
   
  濾過池
明治40年(1907年)に設けられたこの濾過池は、仙厳園に隣接する千尋厳から水道管を経由して流れくる水をろ過して敷地内の各所に配水していました。建物は登録有形文化財に指定されており、日本土木学会選奨の土木遺産となっています。(下の写真は内部を撮影)
しっかり写真を撮ったと思って画像を確認しないまま家に帰り編集しようと思ったらなぜか斜めの写真だけ。ダメですね~~)
 
   
     
   
 



迫ン太郎

この石臼、「さこんたろう」と呼ぶそうですが、園内を流れる谷川の水を利用して籾(もみ)や玄米を精米するために用いていたとのことで、写真では判りにくいですが、上の写真の右側中央部の竹を通して山すそから水が流れ落ち、杵の部分に掘られた溝にある程度水がたまると杵が後ろに下がって水を吐き出したのちに臼を突くという構造となっています。
 
 
 
 
 


会津・薩摩友好の椿

明治維新後の明治元年(1868年)から翌年にかけて、薩摩・長州・土佐藩を中心とした新政府軍と会津藩を中心とした奥羽越列藩同盟軍の間で発生した戊辰戦争では、薩摩藩と会津藩は敵味方に分かれて戦いましたが、その恩讐を超えて、近代日本のためにその士風を伝えていこうと友好盟約が平成21年(2009年)に結ばれており、その記念としてこの椿が植樹されました。
 
 
 
 
 
  
 
 


旧集成館反射炉址(上)

反射炉は、オランダの技術書をもとに建設された、大砲の砲身をつくる施設でした。
かつては高20mもの建物がそびえていたとのことで「集成館」の中核工場でした。
炉内部の天井や、壁に炎と熱を反射させて鉄を溶かすため、反射炉と呼ばれました。反射炉の建設は製煉所で小型のひな型をつくり、鉄の溶解実験からスタートしましたが実験は難航。
島津斉彬は「西欧人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人もまた人なり(西欧人や佐賀人にできた反射炉製造が薩摩人にできないわけはない)」と、藩士らを励まします。
嘉永4年(1852年)に磯で建設された1号炉の建設は失敗に終わりましたが、2号炉が安政3年(1857年)に完成すると、鉄製砲製造にも成功しました。
ただし、2号炉も薩英戦争で破壊されたため、現存するのは2号反射炉の基礎部分のみです。
 
 
   
   
   
 
 


山階宮大妃えい歯髪碑

第29代当主であった島津忠義の四女として生まれた常子(ひさこ)は、山階宮菊麿王の後妃(後妻)として結婚し、3人の子息を設けましたが、64歳で亡くなった後の遺髪と歯がこの地に埋葬されています。
 
 
             
  園内の建物、史跡等全て撮ったと思っていましたが、ページ編集をしていると撮り漏れがあるのがわかりました。場所が近ければも一度撮りに行けるのにチョット残念です。
 
 
   
  鹿児島空港を離陸するJ-AIRと霧島連山(右端の山は標高1,574mの霧島の嶺)
 
 
      仙厳園のマップ


 
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