鎌倉散歩 その1(2016.11.13撮影) 紅葉には少し早いけど天気がいいので鎌倉のお寺巡りをしてみました。 |
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参道から階段を上ると神門に到着です。神門の上には「天満宮」と記された扁額が掲げられています。 | |||||||||||||
拝殿と本殿 左奥にある本殿は、三間社流造の銅板葺きで、正和5(1316)年に建立された鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受けて移築したもので、度重なる修理は施されていますが、鎌倉地方における中世建築の稀少な遺構となっており、国の重要文化財に指定されています。 |
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かっぱ絵塚 「カッパ天国」の漫画で知られた清水崑氏が用いていた絵筆が収められており、岩の下部には彫りが薄くてちょっと見難いですけど、かっぱの絵が刻まれています。 |
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拝殿 拝殿の後方には本殿がありますが、あいにくと塀で囲われていて見ることができません。 |
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木彫りの護良親王騎馬像、後ろには山本五十六元帥の「至誠奉公」の額があり、昭和18年春と読めますのでガダルカナルで戦死する前に書かれたものなのでしょうか。 |
厄割り石(息を吹きかけて身体の中の悪いものを移し、そのかわらけを地面に叩きつけて厄除けにします) |
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山門 |
本堂 |
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どこも苦地蔵 もとは鎌倉駅近くにある扇ケ谷にあった地蔵堂にあった地蔵菩薩像を移設したもので、地蔵堂の堂守が貧しさゆえに逃げ出そうとしたとき、夢枕に地蔵が現れ、「どこも苦、どこも苦(苦しいのはどこも同じ)」といわれ、堂守は地蔵堂に残ったという伝承があるとのことで、鎌倉二十四地蔵尊霊場の七番札所となっています。 お堂の前には小さな大黒様と恵比須様の石像があります。 |
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評論家であり作家であり、『マスコミ界の帝王』とも呼ばれた大宅壮一が残した言葉、「男の顔は履歴書である」と刻まれた石碑 | |||||||||||||
吉野秀雄の歌碑 吉野秀雄は群馬県の高崎に生まれ、慶応大学在学中に子規庵を訪ねたことから和歌を学びはじめた人ですが、肺結核、気管支喘息、糖尿病、リウマチなど多くの病気と闘いながら創作活動を続け昭和42(1967)年に65歳で亡くなり、ここ瑞泉寺にお墓があります。 碑には「死をいとい 生をもおそれ 人間の ゆれ定まらぬ こころしるのみ」と刻まれています。 |
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山崎方代(やまざきほうだい)の歌碑 山梨県の右左口村(現右左口町)に8人兄弟の末っ子として生まれた山崎方代、その名は長女と五女以外の子どもを亡くした両親が「生き放題、死に放題」にちなんで名付けたといわれており、15歳ころから文芸活動をはじめ、太平洋戦争で右目を失明するも、各地を転々としながら創作活動を続けたことから「漂泊の歌人」と呼ばれました。 昭和47(1962)年には鎌倉に移り、『右左口』、『こおろぎ』、『青じその花』などを発表していますが昭和60(1985)年71歳で亡くなっています。 碑には「手のひらに 豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲がりて帰る」と刻まれています。 |
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