鎌倉散歩 その1(2016.11.13撮影)

紅葉には少し早いけど天気がいいので鎌倉のお寺巡りをしてみました。
 
        
若宮大路
     
鶴岡八幡宮への参道となる若宮大路の中央は二の鳥居から三の鳥居まで両側の車道より一段高くなっており、段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道となっていますが、2014年10月から改修工事が行われていましたが、今年の春に改修工事が終わり綺麗になって歩けるようになっています。
 
     
大蔵幕府跡

鶴岡八幡宮の三の鳥居から歩くこと10分、源頼朝の墓のそばにある「大蔵幕府跡の碑」に到着です。大蔵幕府は大倉御所或は大蔵御所とも呼ばれていました。
この地は治承4(1180)年8月に挙兵した源頼朝が、同年10月に鎌倉入りして館の建設をはじめ邸宅を構えたところで、承久元(1219)年までの39年間鎌倉幕府の将軍御所となっていました。治承元年以降、御所は2度の火災にあい、その都度再建されていましたが、承久元年の3度目の火災以後は再建されておらず、石碑が残るだけとなっています。
 
 
      
荏柄天神社
     
大蔵幕府の跡から歩くこと約5分で荏柄天神社の入口に到着です。
ここ荏柄天神社は、菅原道真を祀る神社で、源頼朝が幕府の鬼門の方向の守護社として長治元(1104)年に社殿を造営、古くは荏柄天満宮とも呼ばれ、福岡の大府天満宮、京都の北野天満宮とともに日本三天神のひとつに数えられていました。
 
   
  参道から階段を上ると神門に到着です。神門の上には「天満宮」と記された扁額が掲げられています。  
   
拝殿と本殿
左奥にある本殿は、三間社流造の銅板葺きで、正和5(1316)年に建立された鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受けて移築したもので、度重なる修理は施されていますが、鎌倉地方における中世建築の稀少な遺構となっており、国の重要文化財に指定されています。
 
     
  絵筆塚
拝殿に向かって左側に建てられているこの絵筆塚は、漫画家の横山隆一達が建立したもので、横山隆一、小島一夫、藤子不二雄など154人の漫画家が描いたカッパのレリーフが刻まれています。
 
     
かっぱ絵塚
「カッパ天国」の漫画で知られた清水崑氏が用いていた絵筆が収められており、岩の下部には彫りが薄くてちょっと見難いですけど、かっぱの絵が刻まれています。
 
     
鎌倉宮
 
荏柄天神社から歩いて約7分で鎌倉宮に到着します。
鎌倉宮は別名を「大宮宮(だいとうのみや)」ともいい、後醍醐天皇の皇子であった護良親王(もりながしんのう)を祭神としている神社で、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛えて、廃寺となっていた東光寺というお寺のあったこの地に、明治2(1869)年に明治天皇の命により、社殿が造営されたものです。
この神社のある場所は、当時東光寺というお寺があったところで、護良親王は、後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒した建武の中興を実現しましたが、その後足利尊氏との対立で捕らえられ、9か月間土牢に幽閉され、その後足利尊氏の弟である直義の命で、家来の淵辺義弘により処刑されたたころです。
注①  建武の中興とは、鎌倉幕府滅亡後の1333年に後醍醐天皇が自ら政治を行う「新政」を開始したことにより成立した政権のことで、その名は翌年に定められた年号の「建武」からきており、「建武の新政」あるいは「建武政権」とも表されています。政権は足利尊氏の離反によりわずか3年で崩壊しています。
  ② 淵辺義弘は、南北朝時代の武将で、現在の相模原市中央区淵野辺本町3丁目付近にあった淵野辺城の城主でした。
 
     
   拝殿
拝殿の後方には本殿がありますが、あいにくと塀で囲われていて見ることができません。
 
   
土牢(左)と御構廟(右)
護良親王が幽閉されたといわれる土牢は本殿の後方にあり、二段の土窟となっていています。
御構廟は処刑された護良親王の首が埋葬されたところであり、「御首塚」とも呼ばれています。
   
 
   
  献茶塔
保利宗久が詠んだ「一服の御茶を献じて親王の御霊やすかれと念ずる吾は」の句が刻まれています。
    教育勅語碑
碑の上段には慶応4(1868)年に布告された『御箇条の御誓文』、中央には明治23(1890)年に発布された『教育勅語』の全文が刻まれています。
 
     

木彫りの護良親王騎馬像、後ろには山本五十六元帥の「至誠奉公」の額があり、昭和18年春と読めますのでガダルカナルで戦死する前に書かれたものなのでしょうか。
 
厄割り石(息を吹きかけて身体の中の悪いものを移し、そのかわらけを地面に叩きつけて厄除けにします)
 
     
瑞泉寺       
鎌倉宮から歩くこと約15分で鎌倉随一の花の寺、紅葉の名所としても有名な瑞泉寺につきます。
といっても紅葉の時期には半月ほど早く、お花も咲いていそうにありません。
右の写真は寺の入口となる総門で、山門まではここから更に5分ほど歩きます。総門を過ぎても参道が続き民家も建ち並んでいるので、昔は門前町のような感じだったのでしょうか。
ここ瑞泉寺は、臨済宗円覚寺派の寺院で、山号は錦屏山といい、鎌倉幕府時代の嘉暦2(1327)年に夢想礎石により創建され当初は「瑞泉院」と云っていました。
寺の境内には夢窓疎石の作庭による方丈書院の庭園があり、「瑞泉寺境内」として国の名勝に指定されていて、また東国花の寺百ヶ寺のひとつとしても知られており、水仙、ツツジ、ボタンなどの時期には
多くの人が訪れています。
 
     
参道を歩きはじめると階段となり、さらに進むと道は二手に分かれます。左手は急な坂道で右は緩やかな坂道、男坂と女坂でしょうか。左の道は石段に苔がついていますので、滑って転びそうです。ます。    
 
     

山門
 
本堂
 
     
石庭
凝灰岩の岩盤で造られ、長らく埋もれていたものを発掘して復元したもので、鎌倉に残る鎌倉時代の唯一の庭園です。大きくあいた洞は「天女窟」と呼ばれています。
   
 
     
  どこも苦地蔵
もとは鎌倉駅近くにある扇ケ谷にあった地蔵堂にあった地蔵菩薩像を移設したもので、地蔵堂の堂守が貧しさゆえに逃げ出そうとしたとき、夢枕に地蔵が現れ、「どこも苦、どこも苦(苦しいのはどこも同じ)」といわれ、堂守は地蔵堂に残ったという伝承があるとのことで、鎌倉二十四地蔵尊霊場の七番札所となっています。
お堂の前には小さな大黒様と恵比須様の石像があります。
 
        
     錦屏晩鐘
 
   
  評論家であり作家であり、『マスコミ界の帝王』とも呼ばれた大宅壮一が残した言葉、「男の顔は履歴書である」と刻まれた石碑  
     
  吉野秀雄の歌碑
吉野秀雄は群馬県の高崎に生まれ、慶応大学在学中に子規庵を訪ねたことから和歌を学びはじめた人ですが、肺結核、気管支喘息、糖尿病、リウマチなど多くの病気と闘いながら創作活動を続け昭和42(1967)年に65歳で亡くなり、ここ瑞泉寺にお墓があります。
碑には「死をいとい 生をもおそれ 人間の ゆれ定まらぬ こころしるのみ」と刻まれています。
 
     
  山崎方代(やまざきほうだい)の歌碑
山梨県の右左口村(現右左口町)に8人兄弟の末っ子として生まれた山崎方代、その名は長女と五女以外の子どもを亡くした両親が「生き放題、死に放題」にちなんで名付けたといわれており、15歳ころから文芸活動をはじめ、太平洋戦争で右目を失明するも、各地を転々としながら創作活動を続けたことから「漂泊の歌人」と呼ばれました。
昭和47(1962)年には鎌倉に移り、『右左口』、『こおろぎ』、『青じその花』などを発表していますが昭和60(1985)年71歳で亡くなっています。
碑には「手のひらに 豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲がりて帰る」と刻まれています。
 
     
  吉田松陰留跡碑
明治維新の精神的な指導者で、倒幕論者であった吉田松陰は、下田から米国に密航を企てた際に、伯父の竹院和尚が住職をしていたここ瑞泉寺に度々訪れていたとのことです。
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