金沢八景ぶらり歩き

鎌倉時代からその美しさが知られていた横浜市金沢地区の風景、当時は風光明媚な入江の続く景色で、江戸時代初期の随筆家三浦浄心が『名所和歌物語』で中国湖南省の瀟湘八景に倣って名付けたのがはじまりといわれ、歌川広重をはじめ多くの絵師が名所図会をえ描いたところでもありますが、現在では埋め立てや開発がが進み、その名が残るだけで、往時の面影はほとんど残っていません。
京浜急行金沢文庫駅から金沢八景までその面影をたどってみることにしました。
 
         
中世の隧道
金沢文庫駅から歩くこと10分少々、「金沢文庫」に到着です。駅からここまで歩く人があまりいないのか、道標が少なく、スマホの地図を見ながら、そして犬を連れて散歩していた町の人に聞いてたどり着く始末です。(とはいっても私がたどったルートはどうやら裏ルートのようで、正式には称名寺の惣門側からくるのが正しいようです。)
この隧道は、鎌倉時代の元亨3(1323)年に描かれた「称名寺絵図」にも隧道の扉が描かれていたという歴史のある隧道で、隧道を抜けると称名寺に、後ろ側は県立金沢文庫です。現在は右側に新しい隧道が造られているので使用できません。
   
     
県立金沢文庫
北条実時が元治元(1275)年頃に設けたのではないかといわれる現存する最古の武家文庫で、北条氏滅亡後には所蔵されていた蔵書は、徳川家康、前田綱紀らによって持ち出されていましたが、明治時代になって伊藤博文らの尽力により復興され、持ち出された蔵書の回収が行われていました。
現在は「神奈川県立金沢文庫」の名称で県立の中世歴史博物館となっています。
   
   
隧道を抜けると称名寺境内です。
入ってすぐの右側には、「新宮(しんぐう)古址」と刻まれた石碑と小さな堂宇があります。
「新宮」は称名寺の鎮守社で、寛政2(1790)年に再建され、当時は茅葺でしたが、現在は銅板葺きとなっています。
そのそばには称名寺を開基した北条実時公の胸像があります。
   
 
     
   
称名寺浄土式庭園
元応2(1320)年に、金沢氏3代貞顕の代に整備されたという庭園は、国の史跡に指定されており、右側の参道からくると反橋、中之島、平橋を通って金堂に至ります。
 
     
 
 
金堂と呼ばれる称名寺の本堂は、天和元(1681)年に再建されています。   金堂の横に建つのは文久2(1862)年に建立された茅葺の釈迦堂です。  
       
  鐘楼
この鐘楼は、「称名の晩鐘」として金沢八景のひとつとなっており、創建当初の梵鐘は、文永6(1269)年の地震で破損したため、正安3(1301)年にかいちゅうされており、国の重要文化財に指定されています。
 
     
  金沢北条氏一族の墓と北条実時の墓(右の写真)
北条実時(1224-1276年)は、北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖で、四代執権北条経時、五代執権北条時頼政権の側近として引付衆、評定衆、寄合衆を歴任。
政務を引退後は六浦荘金沢に金沢文庫を設立しています。
 
 
     
  仁王門
文政元(1818)年に再建された軒唐破風付、入母屋造りの楼門となっており、再建当時は茅葺でしたが現在は銅板葺きとなっています。
門には元亨3(1323)年に造られたという木彫りの金剛力士像があり、神奈川県の重要文化財に指定されています。
 
     
  惣門
赤門とも呼ばれる朱塗門で、明和8(1771)年に切妻造り茅葺(現在は瓦葺き)の四脚門で再建されています。
 
     
金沢八幡神社
称名寺の総門から南に歩くこと10分ちょっとで金沢八幡神社に着きます。
この神社は、「寺前八幡神社」とも呼ばれ、創建年代は記録もないことから不明ではあるものの、金沢文庫の古文書に700年前の称名寺造営の運ぶ舟が八幡河岸に陸揚げしたとあり、鎌倉時代に存在していたとのことです。
(所在地:金沢区寺前1-10-19)
   
     
龍華寺(りゅうげじ)
金沢八幡神社から更に南に約7分、龍華時に到着です。
正式名称を知足山龍華寺といい、源頼朝が文治年間(1185~1190)に六浦山中に創建した浄願寺が始まりとされていて、明応8年(1499)年に、現在の地にあった光徳寺と併合し移築されたものです。創建以来800年余の歴史のある寺ですので、天平時代の作といわれる、「脱活乾漆造菩薩坐像」、平安時代の作の、「木造阿弥陀如来坐像」などがあり、横浜市の指定文化財となっています。
また四季折々に花が咲き「華の寺」として知られています。
(所在地:金沢区洲崎町9-31)
   
 
     
   
 本 堂    六地蔵  
        
  鐘楼
珍しい茅葺屋根の鐘楼にある梵鐘には天文10(1541)年の銘があり、鎌倉時代後期の作といわれ、神奈川県指定文化財となっています。
 
     

    太田道灌が奉納したといわれる不動明王堂には不動明王像が祀られています。 
 
       ぼけ封じ観世音菩薩
 
   境内では早咲きのさくらが咲いています。
 
     
洲崎神社
龍華寺を出てすぐのところにあるこの神社は、創祀は不明のようですが、当地より北にある長浜に祀られていたとのことで、村が大海嘯(だいかいしょう)に飲み込まれた応長元(1311)年に、生き残った村人たちが鎮守大六天と共に当地に移住したといわれており、現在の社は天保9(1838)年に再建されたものです。

大海嘯とは潮津波とも呼ばれ、河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象で、昭和初期までは地震による津波も海嘯と呼ばれていました。
(所在地:金沢区洲崎町9-28)
   
     
明治憲法草創の碑
洲崎神社から更に南に歩いて洲崎町の三叉路の交差点のところにあるのがこの明治憲法草創の碑です。
明治20(1887)年、金沢八景が観光名所として栄えていたころこの地には多くの旅館や料亭が建ち並んでおり、その中のひとつの東屋で、伊藤博文を中心に、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4名が、明治憲法の草案づくりをしていました。草案原稿の入った鞄の盗難事件が起こったため、伊藤博文の横須賀の別荘に移って草案造りは続けられたとのことです。
碑は金子堅太郎によって昭和10(1935)年に東屋の庭に建てられましたが東屋の廃業もあり、その後この地に移設されています。
   
 
     
   
平潟湾(左)と帰帆橋(右)
歌川広重が描いた「乙舳の帰帆」はこのあたりと思われますが、当時の面影は全くありません。
 
     
旧伊藤博文金沢別邸
野島公園の乙舳の海岸沿いに明治31(1898)年に建てられた田舎家風意匠をもつ海浜別荘建築で、大正天皇をはじめ多くの政府高官が訪れたとのことます。伊藤博文没後は一時民間の所有となりましたが昭和34(1959)年に横浜市の所有となり一般に公開されています。 
(所在地:金沢区野島町24 野島公園内)
 
   
     
  八景島シーパラダイスと海苔ひび
別邸そばからは乙舳の海の遠くに八景島のシーパラダイスが望め、また手前には珍しい海苔ひびがあります。
昭和30年代には大森の海岸で見ることができましたが、東京近郊では珍しい海苔の養殖が行われているようです。
 
       
野島公園展望台
標高57mの野島山の頂上にある展望台で、上に登ると360度の展望が楽しめ、平潟湾や海の公園、八景島をはじめ金沢をとりまく緑の丘陵地帯、そして遠くに富士山を望むことができる絶景ポイントです。
野島山の頂上は、江戸時代には金沢八景の一つである「野島夕照」と詠われた景勝の地でもありました。
現在ではかながわの景勝50選に選定されています。
   
      
   
        
野島稲荷神社
この神社は、安貞元(1227)年に創建されたもので、野島山の南裾にあり、万治年間(1658~1661)には近くに紀州藩主徳川頼宣の塩風呂御殿と呼ばれる別邸があり、鬼門の守り神として庇護を受けていたとのことです。
(所在地:金沢区野島町23-1)
   
 
    
夕照橋から見る平潟湾と夕照橋
室ノ木から平潟湾を挟んで野島までの間は、昔は渡し船で往き来していましたが、昭和19(1944)年に初めの橋が架けられて徴用橋と名付けられ、その後八紘橋となりました。夕照橋と呼ばれるようになったのは戦後のことで、現在の橋は昭和60(1985)年に架けられた4代目の橋です。橋の上からは遠くに富士山が望めます。
歌川広重描く金沢八景の「野島夕照(せきしょう)」と「平潟落雁」はこのあたりで描かれたものです。
 
   
     
琵琶島神社
平潟湾にある周囲60mくらいしかない琵琶の形をしていたと伝えられた琵琶島にあるのが琵琶島神社です。治承4(1180)年に源頼朝が対岸に瀬戸神社を創建した際に、頼朝夫人の北条政子が、日頃信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して、創建したと伝えられています。

(所在地:金沢区瀬戸18ー14)
   
   
     
福石
金沢四石の一つで、頼朝が禊をする際に衣服
をこの石に架けたことから「呉服石」とも「福石
とも呼ばれていたと伝えられ、もとは海中にあ
ったものを道路工事のためこの地に移設した
とのことです。
  金沢七福神弁財天
  琵琶島の参道途中にはわずか4、5mの小橋が架けられています。   神社の祭神は、立ち姿をしており、「立身弁財
天」と呼ばれており、島の名前をとって「琵琶島
弁財天」とも呼ばれています。
 
     
瀬戸神社
瀬戸三島明神とも呼ばれる神社で、治承4(1180)年に源頼朝が挙兵した際に戦勝を祈願して、伊豆三島明神を勧請して創建したのが始まりとされ、室町時代には鎌倉公方が参拝するのが慣例であったといわれ、徳川家康も自ら参拝し、百石の社領を寄進したといわれています。
現在の社殿は寛政2(1800)年に権現造りで再建されたものです。

(所在地:金沢区瀬戸18ー14)
   
     
   
拝殿と本殿   延宝8(1680)年の大暴風で倒れたといわれる蛇柏槙  
     
 
 
     
        
        
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