世界文化遺産清水寺(2021.12.03撮影)

古都京都の文化財として世界文化遺産に登録されている清水寺ですが、紅葉の時期に訪れるのは初めてです。昨年の春には修復も終わり、コロナ過で海外からの観光客も少なくノンビリと写真が撮れそうです。
正式な寺の名前は音羽山清水寺といいますが、京都市東山区にある音羽山に、宝亀9年(778年)に延鎮よって創建されたと伝えられるお寺で、学生時代の修学旅行では訪れるところです。

(写真は2016年の3月に撮ったものもあります。)

 
 
 
清水寺から高台寺に向かってはいくつもの坂道があります。
お寺の近くには清水坂、その南側あるのが茶わん坂(下右の写真)、清水坂の下を右に曲がると三寧坂(下右の写真)、反対に左に曲がると五条坂、更には二寧坂(二年坂)や一念坂(一年坂)、そして龍馬坂と行ったり来たりしたら年寄の私はくたびれてたまりません。
 
 
 
     
   
  左は仁王門、右には西門(さいもん)その奥には三重塔が見えます。
いずれも重要文化財に指定されていますが、応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)にかけて発生した応仁の乱で焼失し、その後再建されたもので、仁王門に掲げられている「清水寺」の扁額は藤原行成の筆となっています。
 
 
 
 
西門の下の祥雲青龍
この祥雲青龍は、清水坂にある商店街で構成された清水寺門前会によって建立されもので、上部と中央に2頭の龍の顔があります。
 



三重塔

創建時の三重塔は火災で焼失、現在の三重塔は寛永9年(1632年)に再建されたもので、高さは約31mあり国内最大級のもので、重要文化財に指定されています。
 
 
   
  鐘楼
平安朝時代に建造されて、慶長12年(1607年)にこの地に移築された鐘楼は、寛永6年(1629年)の大火の被害を受けておらず桃山期の建築様式が随処に残っています。(重要文化財指定)
 
 
   
  開山堂
堂の前には「田村堂」と書かれた札がありますが、寛永10年(1633年)に再建された開山堂で重要文化財に指定されており、、堂内には坂上田村麻呂夫妻の像と延鎮、行叡の像が安置されています。
 
 
   
  千体石仏群
京の街中でお祀りされていたお地蔵さんが、明治時代の廃仏毀釈の際に捨てるの忍びないということでこちらに運び込まれたとのこと。
 
 
   
  成就院
清水寺の本坊で、通常は非公開となっています。
 
 
   
 
 



轟門(上の写真)と回廊(右の写真)

「普門閣」と書かれた扁額のある轟門は、本堂の入口となる門で、寛永年間に再建されたもので重要文化財に指定されています。
この門をくぐると本堂に続く回廊となります。
 



回廊からは境内の紅葉がよく見えます(下の写真)。
奥には紅葉に囲まれた子安塔が見えます。(右の写真)

よく見ると葉が少し落ちたり色がくすんできています。訪れるのが少し遅かったようです。
 
 
   
 
 
 
 

 
   


仏足石

本堂近くにある石には大きな足跡が刻まれています。仏足石というようですが、この仏足石を拝むとそれまで犯してきた罪や、これまで積み重ねられてきた穢れが、すべて消えてしまうと伝えられているとのこと。
足跡が誰のものであるのか不明のようですが、「お釈迦さま」、「藤原景清(平景清)」、「武蔵坊弁慶」などいろいろ説があるようです。

 



本堂

国宝に指定されている本堂は、三代将軍徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたもので、寄棟造の檜皮葺で、南側の正面左右に入母屋造の翼廊が突き出しています。
建物の前半分が山の斜面に突き出しており、139本ものケヤキの巨木を用いて造られた「懸造(かけづくり)」の舞台が有名で、「清水の舞台から飛び降りるつもりで」ということわざがここからでています。
実際に飛び降りた人が江戸時代には235件もあったとのことで、うち34名の方が亡くなられたと記録にあるようですが、明治に入って京都府が「舞台飛び落ち禁止」の布令を発布してから影をひそめたとのことです。

本堂から舞台の見える阿弥陀堂の方に回ってみます。(下2枚の写真)
 
 

 
  いつもはここから舞台の下、音羽の滝の方にに降りてしまうのですが、今回は子安塔まで足を延ばしてみました。
 
 
 

 



子安塔

創建年代が不明の子安塔ですが、聖武天皇・光明皇后の祈願所と伝えられており、現在の塔は明応9年(1500年)に建立されたもので、檜皮葺の三重塔の内部には子安観音が祀られていますので、その名の通り安産祈願で信仰を集めているとのこと。(重要文化財)
 
   
  子安塔のある所からは、左から西門、三重塔、開山堂、経堂そして本堂が一望できます。本堂から歩いて10分くらいでこの景色を見ることができます。皆さんも一度足を延ばしてみるといいでよ。
 
 
 

 



音羽の滝

寺の名前の由来となった滝で、「金色水」、あるいは「延命水」とも呼ばれ清めの水として尊ばれています。
 
   
  舞台を下から眺めると紅葉の時期(上の写真)と早春(下の写真)ではずいぶん感じが違います  
   
   
   
   
   
  舞台の下にある阿弓流為(あてるい)・母禮(もれ)之碑のそばは短いですが紅葉のトンネルとなっていました。
 
 
   
  阿弓流為・母禮之碑
碑の右側にある顕彰碑には、
「八世紀末ごろ、日高見国胆沢(岩手県水沢地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弓流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが入れられず、アテルイ、モレ両雄は802年河内国で処刑された。その史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ、モレ顕彰碑を建立す』とあります。

 
 
   
     
 

 



首振り地蔵

仁王門のそばの善光寺堂右にある堂宇にあるお地蔵さんで、参拝者が自由にお地蔵さんの首を左右に動かすことができるとのこと。
思う人が居る方向に、お地蔵さんの首を向けてお祈りすると結ばれるともいわれています。

 
   


境内にある縁結びの神社として名高いる地主神社の境内にある「恋占いの石」は、日本創建以前のものと社伝で伝われており、アメリカの原子物理学者ライル・ベンジャミン・ボルストによる科学的な年代測定で、縄文時代の石であることが判明していて、もう一つの石との間を行き来してたどり着ければ恋が叶うとされています。



おかげ明神

地主神社境内にあり、一願成就の御利益があるとのことで女性の信仰を集めているとのこと。
後ろにある杉の木は「のろい杉」又は「いのり杉」とも呼ばれ、江戸時代には流行った「丑の刻参り」でつかわれたそうで、今でも杉の幹には呪いをかけるときに用いた五寸釘の跡が残っているとのこと。
 
     
     
     
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