ベルリンのホテルからライプツィヒに向かう途中、「SolarValley」と表示され所に、巨大な太陽光発電所がありました。ドイツは「脱原発」を宣言し、再生可能エネルギーの復旧に力を入れており、車窓からでも風力発電基地を多く見ますし、太陽光発電を取り入れている家や工場を日本よりも多く目にします。この発電所はGoogle Earthで見てもはっきり施設全体が写っており巨大であることがわかります。(地図上では縦方向の長さが約1kmあります。) | ||||||||||
ライプツィヒ 人口50万人を超えるザクセン州最大の都市ライプツィヒ、国王の道と皇帝の道と呼ばれた通商街道の交差するところに位置したことから、神聖ローマ帝国有数の商都として発展、「メッセ」と呼ばれる大規模な定期市開催地としてヨーロッパ屈指の商都となっていました。19世紀のはじめにはナポレオン戦争中最大の戦いとなったライプツィヒの戦いの場となりましたが、バッハやメンデルスゾーン達の多くの音楽家が活動し、ウィーン、パリとともにヨーロッパを代表する音楽の都として名を馳せた町です。また、ベルリンの壁の崩壊、東西ドイツ統一のきっかけとなった市民運動発祥の地でもあります。 |
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主祭壇前にあるバッハの墓 | バッハのステンドグラス(左中央)とルターのステンドグラス(右中央) |
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マルクト広場 町の中心の広場では市が開かれており、奥には旧市庁舎(現 ライプツィヒ市歴史博物館)があります。旧市庁舎に向かって左には旧計量所がありますが、市の出店が邪魔をしていい写真が撮れません。 |
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メードラー・パッサージュ 市庁舎の脇を通るグリマイッシェ通りからノイエマルクトへ通り抜けのできるアーケード街です。通りの入口にはファウストの一場面の絵看板が掲げられています。 このメードラー・パッサージュは、当地の商人アントン・メードラーが1912年から2年かけて建てたもので、天井はガラス格子となっていて明るい感じのアーケード街です。 |
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ゲヴァントハウス・コンサートホールとメンデの泉 アウグスト広場を挟んでライプツィヒ歌劇場と反対側にあるのがこのゲヴァントハウス・コンサートホールとその前にあるメンデの泉です。 ゲヴァントハウス・コンサートホールは、1781年にはじめの建物が完成、ゲヴァントハウスとはドイツ語で「織物会館」との意味で、織物の倉庫や取引所として使用されていた建物の中に作られたホールでした。 ホールが手狭になったため1884年に2代目の建物が完成し、純粋なコンサートホールとして使用されていましたが、1944年の空襲で被害を受け、20年以上廃墟のままとなっていましたが、1981年にこの3代目の建物が完成したものです。中には6638本ものパイプを持つあるとのことです。 メンデの泉は1868年に完成したもので、歌劇場、コンサートホールそしてすぐそばにあるライプツィヒ大学と近代的な建物がある広場に唯一残るザクセン王国時代の名残です。 |
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ライプツィヒ大学 ゲヴァントハウス・コンサートホールの横にある近代的な建物で、マイセン辺境伯フリードリヒ4世が、チェコ人優遇策に反対してプラハ大学を去った教員や大学生のために1409年に創設したもので、ドイツではハイデルベルク大学に次ぐ歴史のある大学です。 この大学ではゲーテやニーチェ、シューマンなどが学んでおり、現在のドイツ首相であるメルケルも物理学を専攻していました。また、日本人では森鴎外をはじめ「味の素」の発明者池田菊苗やノーベル賞受賞者朝永振一郎も学んでいます。 |
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ライプツィヒ中央駅 1915年開業したヨーロッパ最大級の面積を持つ駅で、一日の乗降客は約15万人。中にはショッピング街があり140もの店舗が店を並べています。 |
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