ベルリンのホテルからライプツィヒに向かう途中、「SolarValley」と表示され所に、巨大な太陽光発電所がありました。ドイツは「脱原発」を宣言し、再生可能エネルギーの復旧に力を入れており、車窓からでも風力発電基地を多く見ますし、太陽光発電を取り入れている家や工場を日本よりも多く目にします。この発電所はGoogle Earthで見てもはっきり施設全体が写っており巨大であることがわかります。(地図上では縦方向の長さが約1kmあります。)  
   
   
ライプツィヒ
 

人口50万人を超えるザクセン州最大の都市ライプツィヒ、国王の道と皇帝の道と呼ばれた通商街道の交差するところに位置したことから、神聖ローマ帝国有数の商都として発展、「メッセ」と呼ばれる大規模な定期市開催地としてヨーロッパ屈指の商都となっていました。19世紀のはじめにはナポレオン戦争中最大の戦いとなったライプツィヒの戦いの場となりましたが、バッハやメンデルスゾーン達の多くの音楽家が活動し、ウィーン、パリとともにヨーロッパを代表する音楽の都として名を馳せた町です。また、ベルリンの壁の崩壊、東西ドイツ統一のきっかけとなった市民運動発祥の地でもあります。
 
     
トーマス教会
 
1212年に創建されたトーマス修道院が基となるこの教会は、ルター派の教会で、現在の建物は、1496年に献堂式が行われた古い教会です。
この教会は、16世紀にマルティン・ルターがこの教会で信仰を巡る論争をはじめ宗教改革の動きがスタートしたところです。
また、バロック音楽の大家、ヨハン・セバスチャン・バッハが1723年から65歳で亡くなる1750年までの間、合唱団指揮者兼オルガニストとして務めていました。
写真中央はバッハ像、右はメンデルスゾーン像
      
 
     
主祭壇前にあるバッハの墓  
         バッハのステンドグラス(左中央)とルターのステンドグラス(右中央)
 
     
  マルクト広場
町の中心の広場では市が開かれており、奥には旧市庁舎(現 ライプツィヒ市歴史博物館)があります。旧市庁舎に向かって左には旧計量所がありますが、市の出店が邪魔をしていい写真が撮れません。
 
     
若き日のゲーテ像と
旧市庁舎裏手のナッシュ広場にあるゲーテの像は、ゲーテがライプツィヒ大学で法律学を学んでいた頃をモチーフにして造られているようです。
ゲーテ像の後のバロック風の建物(右の写真)は旧交易会館であったところで、商都ライプツィヒの商人の集会や取引の場として使われていました。建物は1943年に火災で焼失したため、その後復元されたものです。
   
 
   
メードラー・パッサージュ

市庁舎の脇を通るグリマイッシェ通りからノイエマルクトへ通り抜けのできるアーケード街です。通りの入口にはファウストの一場面の絵看板が掲げられています。

このメードラー・パッサージュは、当地の商人アントン・メードラーが1912年から2年かけて建てたもので、天井はガラス格子となっていて明るい感じのアーケード街です。
   
     
通りに入るとなんと床には赤じゅうたんが敷かれています。
ここはライプツィヒでは美しいアーケード街といわれており、アーケード街に入ってすぐの両側には黒いブロンズ像があります。
ライプツィヒで勉学中のゲーテが、地下にある居酒屋アウアーバッハス・ケラーを訪れた際に耳にした、黒魔術師ヨハネス・ファウストス博士の伝説から『ファウスト』が生まれたとのことであり、地下に降りる入口のところにある像はファストの一場面を描いているものです。
中央の写真のメフィストとファウスト博士の像では、ファウスト博士の靴に触れると幸せが訪れるといわれていて、左足だけが光って見えます。
ドイツ留学中の森鴎外も1885年12月27日に、この店を訪れ、『ファウスト』の翻訳を決心し、日本に帰国したのちの1913年に翻訳本を出版しています。(店内には鴎外を描いた壁画があります。)

     
 
     
ニコライ教会
 
1165年に創建されたこの教会はライプツィヒで最も古い教会で、バッハが活動した教会のうちのひとつです。
東西に分断されていたドイツにおいて、この教会では毎週月曜日に、平和のあり方を考える「平和の祈り」の集会を開いていましたが、その規模は言論・政治活動・出国の自由を求める人々によって次第に拡大し、教会外へのデモ行進へと発展してゆき、1989年の10月9日に開かれた集会で、参加者たちが起こした大規模なデモが1ヶ月後のベルリンの壁崩壊につながるきっかけとなったので、「東西ドイツ統一革命の出発点」として知られています。
 
 
   
ライプツィヒ歌劇場
この歌劇場の創設は1693年とヴェネツィア、ハンブルクに次ぐヨーロッパ最古の歌劇場のひとつですが、1943年の大空襲で建物は全壊し、現在の建物は1960年に再建されたものです。
歌劇場の裏にある公園にはライプツィヒで生まれたリヒャルト・ワーグナーの像が置かれています。
   
 
   
ゲヴァントハウス・コンサートホールとメンデの泉
アウグスト広場を挟んでライプツィヒ歌劇場と反対側にあるのがこのゲヴァントハウス・コンサートホールとその前にあるメンデの泉です。
ゲヴァントハウス・コンサートホールは、1781年にはじめの建物が完成、ゲヴァントハウスとはドイツ語で「織物会館」との意味で、織物の倉庫や取引所として使用されていた建物の中に作られたホールでした。
ホールが手狭になったため1884年に2代目の建物が完成し、純粋なコンサートホールとして使用されていましたが、1944年の空襲で被害を受け、20年以上廃墟のままとなっていましたが、1981年にこの3代目の建物が完成したものです。中には6638本ものパイプを持つあるとのことです。
メンデの泉は1868年に完成したもので、歌劇場、コンサートホールそしてすぐそばにあるライプツィヒ大学と近代的な建物がある広場に唯一残るザクセン王国時代の名残です。
   
     
ライプツィヒ大学
ゲヴァントハウス・コンサートホールの横にある近代的な建物で、マイセン辺境伯フリードリヒ4世が、チェコ人優遇策に反対してプラハ大学を去った教員や大学生のために1409年に創設したもので、ドイツではハイデルベルク大学に次ぐ歴史のある大学です。
この大学ではゲーテやニーチェ、シューマンなどが学んでおり、現在のドイツ首相であるメルケルも物理学を専攻していました。また、日本人では森鴎外をはじめ「味の素」の発明者池田菊苗やノーベル賞受賞者朝永振一郎も学んでいます。
   
   
ライプツィヒ中央駅
1915年開業したヨーロッパ最大級の面積を持つ駅で、一日の乗降客は約15万人。中にはショッピング街があり140もの店舗が店を並べています。
   
   
 
 
     
     
     
     
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