目黒不動界隈  

目黒不動龍泉寺

 
 
目黒区下目黒にある龍泉寺は、不動明王を本尊としていて、一般的には「目黒不動」と呼ばれ、日本三大不動のひとつであり、「江戸三大不動」、「江戸五色不動」のひとつにあげられています。
寺伝によると、寺は大同3(808)年に円仁(慈覚大師)が下野から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したとのことで、山号の「泰叡」は清和天皇よりの勅額の下賜によるものです。
寺は三代将軍徳川家光の庇護により「目黒御殿」と称されるほど華麗を極める時期があったようで、江戸名所図会にも描かれているところです。
また、落語の「目黒のさんま」は寺近くにあった参詣者の休息のための茶屋が舞台であるとされています。
注: 日本三大不動は、成田不動尊(成田市にある成田山新勝寺)、目黒不動、木原不動尊(熊本市にある雁回山長寿寺)、または中野不動尊(福島市にある中野山大正寺)

江戸三大不動は、目黒不動・目白不動(豊島区目白にある神霊山金乗院慈眼寺)・薬研掘不動院(中央区日本橋にある川崎大師平間寺の東京別院)

江戸五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動(文京区本駒込にある大聖山東朝院南谷寺)、目青不動(世田谷区太子堂にある竹園山最勝寺教学院)、目黄不動(台東区三輪にある永久寺)、但し、目黄不動については諸説あって、江戸川区平井にある最勝寺、または、渋谷区神宮前にある龍巖寺とすることもあるようです。
 
        
 
昭和37(1962)年に再建された仁王門は鉄筋コンクリート造りの三間一戸の朱塗りの楼門となっており、階上には韋駄天が祀られていて、境内側の柱には仁王さんが履くといわれた「わらじ」が下げられています。(上左は境外より、右は境内より)  
    
白井権八と小紫の比翼塚(左)と伏見稲荷
鶴屋南北作の戯曲による歌舞伎の「浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなずま)」の中で「鈴ヶ森」において、幡隨院長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、白井権八が「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞で知られるのが、この白井権八です。
白井権八は江戸時代前期に鳥取藩士として生まれた本名が平井権八で、国元で父の同役本庄助太夫を殺害して江戸に出奔、江戸においては渡徒士奉公をしながら吉原の遊女小紫と昵懇になり、遊興費に窮して辻斬りを繰り返して130人もの人を殺めたといわれており、延宝7(1679)年に鈴ヶ森において刑死(享年25歳)。小紫は権八の刑死の知らせを聞き、権八の墓がある東昌寺の墓前で自害したとされています。その後東勝寺に比翼塚が設けられましたが同寺が廃寺となったため、この地に移設されたものです。
なお、戯曲に書かれた長兵衛との出会いは、長兵衛と権八の生年にずれがあるため戯曲上のものとされています。
   
 
     
山手七福神 恵比須神
七福神の信仰は室町時代から始まったとされており、江戸時代には庶民の間に定着しており、江戸城の裏鬼門守護のために、将軍が鷹狩の際に参詣した目黒の不動堂の参詣道筋に設けられた七福神めぐりで、江戸で初めてのものといわれています。
   
 
     
甘藷先生碑
甘藷先生とはサツマイモで知られる青木昆陽のことです。
青木昆陽は、元禄11(1698)年に江戸の魚屋の一人息子として生まれ、八代将軍徳川吉宗より、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を命じられ、小石川植物園などで栽培を行い、江戸四大飢饉のひとつで知られ、数万人が亡くなったといわれる天明の大飢饉で、多くの人を救ったと評される人物です。
    北一輝顕彰碑
北一輝、本名を北輝次郎といい、戦前の思想家で、国家主義を唱えて陸軍の青年将校を刺激して、ニ・二六事件を惹起した理論的指導者として逮捕され、軍法会議により、事件に直接関与していないにもかかわらず、死刑判決を受けて銃殺刑に処せられました。
碑文は北一輝と親交のあった思想家の大川周明氏によります。
 
 
     
勢至堂
江戸時代の中期に建立された宝形造の小堂で、勢至菩薩像が安置されており、建立後幾たびか改修されているものの、外観は建立当時の姿を残しており、目黒区の文化財に指定されています。
   
     
本居長世の碑
国学者本居信長の子孫である本居長世は、日本の童謡の先駆者で大正時代後期から昭和の初めにかけて作曲家として多くの童謡を世に残した人です。
本居長世が作曲した童謡には『七つの子』、『青い目の人形』、『赤い靴』、『十五夜お月さん』、『たんぽぽ』、『めえめえ児山羊』、『汽車ポッポ』など古い年代の人なら誰でも歌ったことがある曲があります。
   
     
腰立不動
別名を「山不動」ともいい、立身出世のお不動様といわれています。
お堂にはその由来として、
『妙なる力におこされて 二度世に立 不動尊
かめの祝いの末広く 朝日ののぼるみごとさで
東都の集い善男女 すくいとらすぞ 妙なる力』
とあります。
    三界萬霊供養塔
この世のあらゆる生命あるものの霊を宿らせ供養することが目的で建立されているもので、
欲界、色界、無色界の三つを三界といい、欲界は、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界欲望が無くなった世界無色界形のあるものから離れた純粋な世界を指すようです。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指しています
 
 
   
前不動堂
独鈷の滝の左側に建てられているこの不動堂は、江戸時代中期ころの建築で、江戸名所図会にもその姿が描かれています。「前不動」の扁額は江戸時代中期の書家であった佐々木玄龍の筆によるものです。
この前不動堂は東京都の有形文化財に指定されています。
   
     
独鈷の滝(左)と垢離堂(右) 
本堂に通じる男坂の左側にあり、龍の口から水が吐き出されています。寺の伝承によると円仁が投げた独鈷(仏具の一種)の落ちた場所から湧水が出たとのことで、以来1200年もの間枯れずに湧き出ているとのことで、右の垢離場は僧たちが水垢離を行う際の脱衣所として、また祈念所として用いていたところです。
この独鈷の滝では、薩摩藩主島津斉彬公の病気平癒を願って、西郷南洲(隆盛)が水垢離を行っています。
   
 
     

独鈷の滝が落ちる池の中には、大願成就のために身代わりとなって水を浴びてくれる「水かけ不動明王」が建てられており、水垢離をせずに願いがかけられるとあって、そばに置かれた柄杓で不動明王に水をかけて願う人の姿もあります。

水かけ不動明王の右には男坂があります。この坂を上ると本堂です。
     
 
     
大本堂
男坂を登りきった正面にある大本堂は、昭和56(1981)年に再建された入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂です。
   
     

意志不動尊
 
微笑観世音菩薩
 
愛染明王
 
虚空蔵菩薩
 
     
   
地蔵堂   観音堂  
     
たこ薬師成就院

目黒不動尊から東へ3分ほど歩いたところにある成就院は、天安2(858)年に慈覚大師により開山されたお寺で、慈覚大師が自身の眼病平癒のために作ったものに由来するとされており、大師作といわれる本尊の薬師如来像が三匹の蛸に支えられています。
たこ薬師の信仰は各地にあり、身の危険を感じると墨を吐く習性のある蛸は暗闇でも見える目を持つ生き物とされ、これにあやかって眼病を治すと言われたり、吸盤によって吹き出物や疣を取り払う効能があるとされたりしています。
 
     
   
   
五百羅漢寺

目黒不動の北側にある五百羅漢寺は、元禄8(1695)年に本所五ツ目(現在の江東区大島三丁目)に、松雲元慶禅師の開基、鉄眼道光禅師の開山により創建されたお寺で、正式なお寺の名前は「天恩山 羅漢寺」といいますが、境内に300体以上(当初安置されていた羅漢像は536体)の羅漢像が祀られていることから通称「五百羅漢寺」あるいは「目黒のらかんさん」とも呼ばれています。寺は創建後に五代将軍徳川綱吉、八代将軍徳川吉宗の庇護を受けて繁栄していましたが、洪水や安政の大地震等による被害もあり、明治時代にこの地に移転、一時期は無住寺ともなりましたが現在は昭和56(1981)年に再建された近代的なビル形式となっています。
 
   
    本堂(左)と羅漢堂(右)
羅漢堂内は撮影禁止となっているので、失礼して外側からパチリと一枚
 
 
     

子育て地蔵
 
再起地蔵尊
 
平山蘆江の歌碑
歌碑には「このあたり いつも二人で歩いていたところ 思ひ出しては まはりみち」と刻まれています
 
   
  お鯉観音
「お鯉」さんとは、無住となっていた寺に、昭和13(1938)年時の総理大臣桂太郎の愛妾であった芸者「お鯉」がその後仏門に入り、安藤妙照尼として入寺して第二次世界大戦前後の寺の維持を行った人物で、「お鯉観音」として慕われ、「縁結び」、「芸能大成」を願う人が詣でるようです。
     高浜虚子の句碑
安藤妙照尼と親交のあった高浜虚子が、妙照尼の七回忌に贈った句「盂蘭盆会 遠きゆかりと 伏し拝む」が刻まれています。
 
       
  お腰掛け石
八代将軍徳川吉宗公が当寺を鷹狩の際の御膳所として度々訪れたとのことで、この石は享保20(1735)年に本堂横に造られたものです。
 
   
  原爆殉難碑
昭和20(1945)年8月6日に広島に原子爆弾が投下された際に、当時この地を訪れて巡業中であった丸山定夫率いる移動劇団さくら隊が被爆し、団員9名が亡くなられたとのことで、この碑は昭和27(1952)年に徳川夢声により建立されたものです。
    興安友愛の碑
第二次世界大戦末期に中国東北部の興安、蒙古で戦乱に巻き込まれ亡くなられた多くの人の霊を慰めるために設けられたもので、碑の中心部に二千余柱の遺骨、遺髪及び遺品等が納められています。
 
 
海福寺

 
五百羅漢寺の隣にある海福寺は黄檗宗のお寺で、隠元禅師により元治元(1658)年の創建で、創建当時は江戸深川にありましたが、明治43(1910)年に廃寺となった上落合の泰雲寺を合寺してこの地に移転したものです。
写真の四脚門は、泰雲寺にあったものを移築したもので、江戸時代中期の特質を備えた門として目黒区の有形文化財に指定されています。
   
鐘楼
都の指定文化財であるこの鐘楼は、天和3(1683)年に武州江戸中村喜兵衛藤原正次の鋳造によるもので、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品となっています。(目黒区教育委員会掲示より)
 
   
  永代橋崩落横死者供養塔
文化4(1807)年に、12年ぶりに再開された開催された深川八幡宮の大祭の際、隅田川に架かる永代橋の下を将軍世子達が乗った御座船が通るため一時的に橋の通行を禁止。
その後通行が再開されたときに大勢の人たちが橋を渡りはじめため橋の中央付近で崩落が起こり死者、不明者1400名以上といわれる史上最悪の落橋事故がありました。
この供養塔は、当時永代橋そばにあった海福時に安政3(1856)年に建立されたもので、寺の移転に伴いこの地に移設されたものです。
    九層の塔
武田信玄の屋形にあったと伝えられるもので、廃寺となった泰雲寺から移されたもののようで、泰雲寺の住職であった了然尼が武田信玄の曾孫葛山長爾の娘であったことから、屋形から泰雲寺、そしてこの地に移築されたのでしょうか。
 
        
行人坂

行人坂は、目黒川に架かる目黒新橋から目黒駅に至る道の途中にある坂で、坂の長さは150mほどですが、平均勾配が約15.6%という急峻な坂で、上りは結構きつい坂道です。
坂の名前の由来は、寛永のころに出羽の湯殿山(山形県)の行人(行者)が、この近辺で修業を行いはじめ住み着くようになったことからこう呼ばれるようになったとのことです。
坂の途中には大円寺や目黒雅叙園などがあります。
また、大円寺よりちょっと上には、目黒区の指定文化財に登録されている「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」があります。像の脇にある説明板では、江戸時代中期の宝永元(1704)年に、西雲という僧が浅草観音と目黒不動を毎日参詣する際に、途中で受けた報謝を基に、目黒川に護岸を設けて雁歯橋という名の石橋をかけたことからこの像が造られたとあります。。
   
 
        
大円寺
   
 目黒駅に近いところにある行人坂の途中にあるこのお寺は、寛永年間(1622~1644年)に湯殿山の修験道の行者大海が創建したと伝えられており、明和9(1772)年に起きた「行人坂火事」と呼ばれる明和の大火の火元となった寺で、幕府より再建の許可がなかなか得られず、幕末の嘉永元(1848)年に薩摩藩主島津斎興の帰依により再建されたもので、通称「大黒寺」と呼ばれています。

明和の大火は明暦3(1657)年に発生した振袖火事(明暦の大火)、文化3(1806)年に発生した車町火事と並ぶ江戸三大火事と呼ばれています。
       
   
本堂   六地蔵  
        
  大円寺石仏群
境内には釈迦三尊像をはじめとし、五百羅漢像491躯をあわせて520躯の石仏が安置されており、行人坂の火事で亡くなられた人々を供養するために建立されたものです。
 
   
 
紅葉の目黒川  
   
   
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