三島街歩き(2019.04.06撮影)  
  
  
   
 



めぐみの子

「めぐみの子」と名付けられた井戸で、白滝公園の一角に置かれており、井戸の前に立つと「ヨイショヨイショ」と掛け声をかけながら男の子と女の子二人で水を汲み上げてくれます。着ている衣装はボランティアの市民により季節ごとに着せ替えてくれます。
市内には「町の水の仕掛け」と名付けられたこのような施設がいくつも設置されており、街歩きを楽しくさせてくれます。
 
        
 



白瀧観音堂

白瀧公園の一角にあるこの観音堂は、年月こそ明確ではないものの平安時代からこの地にあり、当初は現在地より少し北側で滝のそばにあったことからその名がついたと伝えられている観音堂です。
 
       
 



水辺の文学碑

市内を流れる桜川沿いを通る水上通りの歩道に三嶋にゆかりのある12名の文学者たちの句碑、歌碑そして小説の一節を記した碑が置かれています。
   



正岡子規の句碑

碑には昭和25年(1950年)に三島を訪れた際に詠んだ、「三島の町に入れば 小川に菜を洗う女のさまも やや なまめきて見ゆ」の短歌と「面白や どの橋からも 秋の不二」の句が刻まれています。
 
 




十返舎一句の文学碑

土時代後期の戯作者、絵師であった十返舎一句は、日本で初めて文筆活動で自活した人で、駿河国府中(現在の静岡市葵区)に町奉行同心の子として生まれ、武家奉公したのちに浪人となり浄瑠璃作者となりました。
その後江戸に出て、黄表紙や浮世絵の版元の蔦谷重三郎のもとで挿絵描きなどを手伝ながら、黄表紙や挿絵、版下の制作を行い、享和2年(1802年)に出版した矢次さん、喜多さんを主人公とする「東海道中膝栗毛」が大ヒットしました。
文学碑には「東海道中膝栗毛」の一節が刻まれています。
 
        




大岡信の文学碑

大岡信(おおおかまこと)は、三島で生まれた詩人、評論家であった人で、読売新聞の記者を務めた後に明治大学の教授を務めていました。昭和54年(1979年)から朝日新聞に書き始めた『折々のうた』は平成19年(2007年)まで連載が続き、この間に菊池寛賞、読売文学賞などを受賞しており、日本ペンクラブ会長を務め、平成15年(2003年)には文化勲章を受章してています。
文学碑には平成元年(1989年)に出版した『故郷の水へのメッセージ』の一節が刻まれています。
 
        
 



松尾芭蕉の句碑

文学碑には、俳聖松尾芭蕉が貞享元年(1684年)に門人の千里とともに故郷の伊賀に旅した際に記した俳諧紀行文の『野ざらし』の中で読まれている句が刻まれています。
「関こゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり」
「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」
   



窪田空穂

窪田空穂は、松本市生まれの歌人、国文学者であった人で、歌集『まひる野』、『さざれ水』など多くの歌集を記しています。
文学碑には、歌集『卓上の灯』の中にある「水底にしづく園葉の青き藻を 差し射る光のさやかに照らす」の歌が刻まれています。
 
   
 
太宰治の文学碑

太宰治は、自殺未遂や薬物中毒を克服し、戦前から戦後にかけて『走れメロス』、『津軽』、『お伽草紙』、『人間失格』など 多くの作品を発表した小説家で、文学碑には、三島を題材にして昭和15年(1940年)に発表した『老(アルト) ハイデルベルヒ』の一節が刻まれています。
小出正吾の文学碑

小出正吾は、明治30年(1897年)にこの三島の地で生まれた児童文学者で、『白い雀』、『雨と太陽』など数多くの著書を発表しています。代表作は昭和41年(1966年)に発表した『ジンタの音』で、この作品は野間児童文芸賞受賞を受章しています。
文学碑に刻まれているのは『ジンタの音』の一節です。
 
   
 
若山牧水の文学碑

沼津に移り住んだ若山牧水が、大正9年(1920年)に三嶋大社にお詣りしたのちに、東海道を箱根に向けて出発した時紀行文を発表したのが『静かなる旅をゆきつつ』で、碑文はこの中の上編の『箱根と富士』の一節が刻まれています。


 
司馬遼太郎の文学碑

昭和31年(1956年)に短編小説「ペルシャの幻術師」を発表して第8回講談倶楽部賞を受賞して文壇にデビューした司馬遼太郎は、その後昭和35年(1960年)には『梟の城』で直木賞を受賞、更には昭和41年(1966年)に『竜馬がゆく』、『国盗り物語』で菊池寛賞を受賞するなど多くの作品を残した小説家です。
文学碑には、昭和61年(1966年)に小説新潮に発表した『裾野の水、三島一泊の記』の一節が刻まれています。
 
    




井上靖の文学碑

北海道旭川市に生まれた井上靖は、学生時代から詩作活動をはじめ、昭和11年には『流転』で、第1回千葉亀雄賞を受賞。戦後間もない昭和25年(1940年)に発表した『闘牛』が第22回芥川賞を受賞、勤めていた毎日新聞を退社し、執筆活動に専念することとなり、その後多くの短・長編小説、随筆などを発表し、菊池寛賞、野間文学賞など多数受賞したほか文化勲章も受賞しています。
文学碑には昭和29年(1954年)に発表した『少年』の一節が刻まれています。
 
   
 



「つるべっ子」
三島市が行っている「町の水の仕掛け」のひとつで、井戸の前に立つと男の子と女の子が綱を引っ張って水を汲み上げてくれます。

右の写真は、三嶋大社から続く下田街道で、反対側が下田方向となります。
(所在地:三島市大社町5-10)
 
 
   




祐泉寺

寺伝によると、奈良時代の初めに建立され、代用国分尼寺となった大興寺(だいこうじ)の伽藍跡に永禄11年(1568年)に開山されたお寺です。
(所在地:三島市大社町5-13)
 
   
 



市ケ原廃寺塔心礎

境内に入ってすぐ右側にあるこの石は、直径が2mほどある大きな石で、発掘調査したところ、白鳳時代に建てられた薬師寺式伽藍配置を持った国分尼寺と思われる寺の塔心礎(塔の中心柱の礎石)であることが判明したとのことです。石の中央には直径が30cm以上ある穴があけられています。

 
 
   




北条新三郎の墓

境内奥にあるこの墓は、北条早雲の第三子である長綱(幻庵(げんあん))の子北条綱重(氏信又は新三郎)の墓で、兄が夭折したため家督を得て、永禄6年(1563年)に小机城(現在の横浜市小机)の城主となりました。
新三郎は、永禄12年(1569年)に第5次川中島の戦いから戻った武田勝頼を総大将とする武田勢に襲来され、討ち死にしています。
 
   




隆泉苑表門

隆泉苑は、大正・昭和期の実業家であった佐野隆一によって造られたもので、同氏没後は佐野美術館に寄贈され、同氏の名の一字と庭園内に湧き出る泉からこの名がつけられました。園内は湧き出る泉を利用した回遊式庭園となっています。
園内にある建物および右の写真の表門は、国の登録有形文化財となっています。
(所在地:三島市中田町1-55)
 
 
 
枝垂れ桜は訪れた時には少し遅く葉桜状態となっていました。  
 




雷井戸

かつては田町水道といわれていた井戸で、地域住民の飲料水として利用されていた井戸でした。しかしながら湧出する水量と衛生面、管理面の問題から飲料水は水道水を利用することになり、現在では生活水として利用されています。
井戸の大きさは直径3mもある巨大な井戸ですが、水深はわずか1.5mしかありません。
井戸のそばを四ノ宮川が流れ、川面には静岡県の天然記念物である三島梅花藻が見えます。三島梅花藻は水温が16℃前後の冷たい清流の中で育つ多年生の植物で、毎年5月から9月にかけて花を咲かせます。
この井戸には、昔、雷が落ちて井戸が湧き出したという伝説が残っており、そこからこの名がついたといわれているようですが、文献も残っていないので、その名の由来は定かではないようです。

(所在地:三島市南本町5-33)
 
   
 



時の鐘(左)と三石神社(右)
傍を源兵衛川が流れるところにある三石神社(「三ツ石」朋表示されます)は、昔川沿いに三石(みついし)と呼ばれた大きな石があり、その上に稲荷社を建てたことから三石神社と名付けられました。神社は文久年間(1861~1864年)に焼失していますが、慶応元年(1865年)に再建されており、境内は三石公園となって市民の憩いの場となっています。
境内にある時の鐘は、江戸時代から旅人や町の人たちに時を知らせており、「三島八景」の一つに数えられていました。鐘は太平洋戦争時に「金属類回収令」により供出されており、現在の鐘は市民有志によって鋳造されたもので、現在でも毎日夕方6時に鳴らされており、誰でも鐘を打つことができるようです。
(所在地:三島市広小路町12-3)
 
          
 



世古本陣跡(左)と樋口本陣跡(右)

三島は、江戸時代に東海道五十三次の11番目の宿場町で、旧東海道(現 県道145号線)を挟んで北側に世古本陣、南側に樋口本陣がありました。現在は写真のように本陣跡を示す石碑が置かれています。
三嶋は当時天領となっていて、代官所が置かれており、本陣以外には脇本陣が3軒、旅籠が47軒あって、箱根越え前または箱根を越えてきた旅人たちの宿場となっていました。
(所在地:三島市広小路町12-3)
 
 
   
 


円明寺(圓明寺)

円明寺は、文明11年(1479)の開山となる日蓮宗の寺院で、明治10年火事により焼失して再建されていますが、再建の際には樋口本陣の表門をここに移築して、山門(左の写真)としています。
(所在地:三島市芝本町1-7)
 
 
   




孝行犬の墓

円明寺の境内にあるこの墓は、幕末のころに本堂の縁の下に住み着いた母犬と5匹の子犬がおり、寺の上人が名前を付けてかわいがり、犬たちは番犬として仕えていました。子犬のうち1匹が病で死亡したところ、母犬が気落ちしたのか病気となり、子犬たちが餌を求めて町中に出かけたり看病していましたが、看病のかいもなく母犬は亡くなり、その後残った子犬たちも亡くなったとのことで、上人がお墓を建てたと伝えられています。
 
   




伊豆国分寺

正式な寺の名前は最勝山伊豆国分寺といいます。
寺は奈良時代の天平13年(741年)に、聖武天皇の命によって日本全国に建立された国分寺のうち、伊豆国国分寺の後継寺院であり、蓮光寺という名でしたが、伊豆国分寺跡に比定されたことから昭和38年(1963年)に現在の伊豆国分寺に名称を変更しています。
昭和31年(1956年)に寺域を発掘調査したところ、僧坊・講堂・金堂・中門・南門の遺構が確認されましたが、伽藍の詳細は明らかとはなっていません。現在は、塔跡の基壇・礎石8個が現国分寺の境内に遺構として保存されています。
(所在地:三島市泉町12-31)
   
 
   




千貫樋

三島市と清水町の境を流れる狩野川水系の境川に架かるコンクリート構造の樋で、三嶋駅そばにある楽寿園の小浜池で湧き出る水を灌漑用水として清水町に送水するために、境川の上に設けられたもので、設置された時期は諸説あるようですが、天文24年(1555年)に、今川、武田、北条の三家が和睦(甲相駿三国同盟)した際に駿河の今川領に送水させたというのが一般的な説のようです。

千貫樋の名の由来は、「造る技術が千貫に匹敵する」、「建設費が千貫要した」、「この樋を造ることによって収穫される米が千貫に相当する」という説があります。
(所在地:三島市加屋町3)
 
   
少し足を延ばして清水町を歩いてみることに。  
   




常夜燈

旧東海道を三島から清水町に入って約200mのところにあるこの常夜燈は、江戸時代末期の弘化3年(1846年)に中内村の人たちが、火難除けのために建立したもので、両側に「秋葉大権現」と「富士浅間宮」と火除けの神様の名が刻まれています。
(所在地:駿東郡清水町新宿)
 
   
 



宝池寺一里塚(左)と玉井寺一里塚(右)

日本橋から29里(13.9km)目となるところにあるのがこの一里塚で、設けられたのは慶長9年(1604年)のことです。
二つの一里塚は、旧東海道に向かい合うように設けられており、両方を合わせて「伏見一里塚」といいます。
でも、普通は一基だけしか設けられていないのに、ここはなぜ二つもあるんでしょうね。
(所在地:駿東郡清水町伏見)
 
 
   




八幡神社

志水町の中を流れる黄瀬川の手前ある神社で、創建年は不明ですが、治承4年(1180年)に、源頼朝が富士川の合戦の際に、この地に陣を敷いて勧請したと伝えられています。
(所在地:駿東郡清水町八幡39)
   
 
   




対面石

神社境内の北側の隅に、頼朝が奥州平泉から駆けつけた弟の源義経と対面する際に腰かけた、対面石が残されています。
 
 
 



柿田川公園

清水町の中を流れる柿田川はかつては泉河とも呼ばれており、川の長さは全長で1.2kmと日本で最も短い一級河川ですが、大量な湧水を水源としており、長良川、四万十川とともに日本三大清流に数えられていて「柿田川湧水群」として名水百選に選ばれており、日本の秘境100選にも選定されています。
川は富士山からの雪解け水や雨水が溶岩流を通って湧き出ているもので、その湧水量は1日に100万ℓにも上り、水道水にも利用されています。水温は年間を通して15℃前後と一定しており、湧水量もあまり変化がありません。
(所在地:駿東郡清水町)
 
 
   




柿田川賛歌の歌碑

大分県出身で若山牧水の高弟で、沼津市の若山牧水記念館の初代館長を務めた詩人、大悟法利雄(だいごぼう としお)による「柿田川賛歌」の歌碑です。
右側の歌碑には「天地(あまつち)のゆたけき 心ここにあり この富士の山 この柿田川」と刻まれており、左側の歌碑には「太古よりこの豊けさに ここに湧く泉頭に今日も息呑む」、「若鮎とあまごの群か影なしては湧水の釜に近づく」、「日日に湧く百二十万トン この水を護りて永久に傳へさらめや」の三首が刻まれています。
 
   
 
   
 
   
   
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