大津街歩き

滋賀県の県庁所在地である大津市、琵琶湖の南西端から南岸にかけて位置しており、琵琶湖線のホームには琵琶湖線開業100周年を記念して設けられた北緯35度線のモニュメントがあります。

大津市には、比叡山延暦寺をはじめ石山寺や三井寺などい有名なお寺が何ヶ所もありますが、今回は街歩きだけでお寺には寄らずの街歩きです。















まずは、瀬田の唐橋まで行って見ることに。
 
      
 
 
 


JR石山駅、京阪石山駅の改札口を出たところには松尾芭蕉の像があります。
三重県の伊賀上野に生まれた俳聖松尾芭蕉は貞享2年(1685年)、野ざらし紀行の旅の途中に大津を訪れたのが初めてで、以来大津が気に入った芭蕉は、 『おくの細道』の旅のあとの元禄2年(1689年)の12月には義仲寺の草庵に仮住まいしていました。
元禄7年(1694年)10月12日(陰暦ですので新暦では11月28日となります。)、旅先の大阪で51歳の生涯を閉じ、遺言により遺体は義仲寺まで運ばれて葬られました。
     
 
   
  唐橋前駅
石山駅で京阪電鉄の石山坂本線に乗り換え一つ目の駅が唐橋前駅です。唐橋はここから歩いて200m、ほんの2分で到着です。
 
 
 
 


瀬田の唐橋
近江八景で『瀬田の夕照』として知られ、瀬田川に架かる瀬田の唐橋は、古代から架けられており、正確な年代は不明なるも天智天皇の時代の667年ごろに架橋されたと推測されています。
昭和63年(1988年)に瀬田川を浚渫した際に、橋脚の基礎が発見され、舟形の長六角形基礎構造をの調べた結果、朝鮮の慶州で発掘された月精橋と酷似していることから、朝鮮の技術を取り入れて架橋されたと見られています。
本格的な唐橋は、天正5年(1575年)織田信長の時代に、旅人のために長さ約324 m(180間)余り、幅約7.2 m(4間)、両側に欄干を備えたと『信長公記』に記されています。
橋は、日本三大大橋(日本三名橋、日本三古橋)のひとつとされており、日本の道100選にも選定されており、瀬田唐橋、瀬田橋、勢多橋、勢多大橋、勢多唐橋、瀬田の長橋とも呼ばれています。
          
 
   
      
   
  瀬田川の写真を撮ろうとしたらボートが。、漕ぎ手が8人と舵手が1人いますので、エイト(8+)と呼ばれるボートの練習でしょうか。
 
 
   
  唐橋中之島にある西沢十七星の句碑
句碑には、『瀬田蜆 藤咲しかば うまからむ』と刻まれています。
 
 
 
 


膳所城跡公園

唐橋前駅に戻り電車で膳所本町に。
駅から東に「膳所城跡の道」を15分ほど歩くと、膳所城跡公園に着きます。
膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後の慶長6年(1601年)に、東海道の抑えとして、それまであった大津城を廃して、築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。
城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀や櫓が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。
城は、島根の松江城、長野県諏訪市の高島城と並んで日本三大湖城の一つに数えられ、琵琶湖の周辺にあった大津城、坂本城、瀬田城と並んで「琵琶湖の浮城」の一つでした。
残念なことに明治に入ってすぐの明治3年(1870年)に天守以下の建物が解体されたとのことで、現存しているのは石垣の一部と、移築された本丸大手門、北大手門、南大手門だけとなっています。

この「膳所城址」の碑のあるところは、かつて本丸があったところでした。
      
 
   
   
模擬再建された城門(上の写真は膳所城跡の道から撮影、下の写真は膳所城跡公園内から撮影)
 
 
      
   
  城門の両側にはわずかに残された石垣があります。
 
 
   
  飯田棹水歌碑
琵琶湖の湖岸に近いところにあるこの歌碑は、飯田棹水(本名 菅次郎)が詠んだ歌碑で、碑には「琵琶の水 みづうみながら 流れをり 膳所の浜辺を ゆるく洗ひつ」と刻まれています。
 
 
   
  芭蕉歌碑
元禄7年(1694年)に、膳所義仲寺の無名案に滞在していた際に読んだ句の歌碑で、碑には「湖や暑さを惜しむ 雲の峰」と刻まれています。
 
 
 
 


天守閣跡の碑

琵琶湖の湖岸に近い本丸の西南に、天守閣跡の碑があります。
膳所城には、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎が築いた四重四層の天守閣が築かれましたが、明治3年(1870年)に解体されこの碑が残るだけとなっています。
      
 


三等三角点「膳所」

三角点や水準点は時々見かけます。三等三角点は全国に約32,000箇所あるとのことですが、ここ膳所の三等三角点は明治36年(1903年)に測量して標石が埋められたとあります。
調べると日本で最初に三角点が設置されたのは、明治3年(1872年)に、皇居富士見櫓下他に設置したとありますので、すでに140年経っているのですね。

古いものですが、十字が刻まれた柱石などの破壊など機能を損ねる行為をした者は、測量法の規定により2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられるようです。
      
 
   
  公園からは近江大橋が一望できます。昭和49年(1974年)に片側1車線で架けられた橋はその後4車線に拡幅され、橋の長さは1,290mあって、湖面からは最高点で約12mとなっており、大津市の丸の内と草津市を結んでいます。橋は当初雄流となっていましたが、平成25年の暮れから無料となっています。
 
 
   
  膳所城本丸大手門
門は膳所城解体の際に膳所神社に移築されており、大正13年(1924年)に重要文化財に指定されています。
 
 
   
  公園から見えるところに城の遺構風な建物がありましたが、城とは全く関係なく、大津市の膳所浄水場の建物のようでした。
 
 
 
 


大津駅の北口を出たところにある山吹地蔵は、木曽義仲の愛妾であった山吹御前を弔うために建てられた地蔵尊で、祠の前にある碑には「木曽どのを したひ山吹 ちりにけり」と刻まれています。
      
 
   
  大津宿本陣跡
大津宿は東海道五十三次で、京都を出立して最初となる宿場町で、当然のことながら、江戸を出立してから最後となる53番目の宿場弟子もありました。
宿場にはここ大坂屋嘉右衛門本陣(大塚本陣)と、肥前屋九左衛門本陣の2軒の本陣と脇本陣1軒がありました。
大津宿は、東海道と北国街道の合流点であり、琵琶湖との湖上交通の拠点となっていましたので、繁栄を極めていたといわれています。
この本陣では明治元年9月に、改元後初めての江戸への行幸の際に宿泊されており、その石碑(明治天王聖跡碑)が右側に建てられています。
 
所在地:大津市御幸町6-13
 
 
 
   


大津市道路元標

道路元標のある地点は、旧東海道と北国街道の分岐点で、高札場があったことから札の辻と呼ばれており、現在の地名の下ともなっています。

所在地:大津市札の辻6-22
 
   
 
大津事件跡の碑と旧東海道(右)

明治24年(1891年)5月11日に、ロシア帝国海軍の艦隊を率いて日本を訪問中の、ロシア帝国のニコライ皇太子(後の皇帝ニコライ2世)が、宿泊先の京都から琵琶湖の日帰り観光をした後に、旧東海道を人力車で帰途の途中で、警備にあたっていた滋賀県警の警察官に切りつけられるという暗殺未遂事件があった場所で、大津事件とも湖南事件とも呼ばれています。

所在地:大津市御京町2-2-11  
 
 
 
 
北国海道と三井寺観音道の道標
西近江から越前に通じる北国海道は北国脇往還、北国往還、北国脇道とも呼ばれていた街道で、札の辻から福井県の敦賀迄の街道でした。
三井寺観音道の道標は、琵琶湖疎水のそばにある道しるべで「右 三井寺観音道」、「左 山王唐崎道」と刻まれています。
 
 
   
 
     



琵琶湖疏水(「疎水」とも書きます。)
 
琵琶湖の水を京都へ流すために造られた水路で、明治23(1890年)年に第一疏水が、大正元年(1912年)に第二疏水が造られています。
大津市の三保ヶ崎で取水された琵琶湖の水は、約20km離れた京都市の伏見区まで送られます。途中には4ヶ所ものトンネルがあり、現在のように工作機械が十分でなかった時代での工事を考えるとその努力に頭が下がる思いです。
疏水は単に水を送るだけでなく、大津からは米・砂利・薪炭・木材・煉瓦などを、京都からは薪炭などの運送を
昭和10年(1935年)まで続け、明治24年(1891年)からは旅客の運航も行われ、最盛期には年間13万人もの人が利用したとのことですが、鉄道の普及により大正4年(1915年)に運航が停止されました。
現在では、平成元年(2018年)から観光船が大津と蹴上の間で運行されています。

上の写真は全長2,436mある第一トンネルの入口で、右の写真は北国橋から見る第一疏水と京阪石山坂本線の電車で、下の写真は大津閘門です。
 
      
 
   
     
   
  「琵琶湖周航の歌」の歌碑
観音寺の信号から琵琶湖に突き出している突堤の途中にあるこの歌碑は、「われは湖(うみ)の子 さすらいの」で始まる歌の歌碑で、大正6年(1917年)に、当時の第三高等学校(現 京都大学)のボート部員が琵琶湖周航の途中に創られたました。
昭和8年(1933年)のレコーディング以来多くの歌手によって歌われた曲です。私が知っているのは昭和46年(1971年)に加藤登紀子さんが歌い大ヒットしたときです。

 
 
 
  
 
 



大津城跡の碑
大津城は、安土桃山時代の天正14年に、豊臣秀吉の命により、浅野長政が築城した琵琶湖に面した水城で、現在の大津駅付近一帯にありました。
城は関ケ原の戦いで豊臣勢が敗れたために廃城となり、城の建築物の一部は膳所城や彦根城に移築されました。


  
      
 
   
  大津絵橋
大津絵橋は琵琶湖第一疏水にかかる橋で、大津絵絵の道にありますが、元はこの道は、浜大津と近江今津の間を走っていた江若(こうじゃく)鉄道の線路であったようで、昭和44年(1969年)に廃線となったのちに歩行者専用道路としたものだといいます。
大津絵とは、江戸時代から続く民族絵画ということで、東海道を旅する人たちの護符として知られていたとのことです。下の写真は大津駅で撮影したものですが、左の絵は「鬼の寒念仏」、右の絵は「藤娘」とのことです。
 
 
   
     
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