赤穂浪士が眠る泉岳寺

東京高輪にある満松山泉岳寺、忠臣蔵で知られた赤穂浪士が眠る寺です。
寺は慶長17年(1612年)に徳川家康が今川義元の菩提を弔うために外桜田に門庵宗関禅師を招いて創建したもので、寛永18年(1641年)に発生した寛永の大火で焼失し、徳川家光の命で毛利、浅野他3大名により現在の地で再建されました。
寺には元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で高家筆頭の吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日芝愛宕下にある一関藩の田村右京太夫邸にて切腹となった赤穂藩主浅野内匠頭長矩公と元禄15年(1702年)12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入ってその首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓があります。
 
中門(港区文化財)
創建時には総門、中門、山門と2つの門がありましたが現在はこの中門と山門の2つだけとなっています。この門は天保7年(1836年)に再建されたものです。
 
山門(港区文化財)
天保3年(1832年)に再建されたものです。
 
 
      大石内蔵助良雄銅像
山門に向かって右側に置かれたこの像は浪曲師桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、大正10年12月14日に除幕されています。
 
   
本堂
旧本堂は第二次世界大戦の空襲で焼失、現本堂は昭和28年に鎌倉様式で再建されたものです。
 
   
義士墓所の入口  
        
血染めの石と梅
この石と梅(右端)は内匠頭が切腹した田村邸の庭に置かれていて、切腹の際に飛び散った血がかかったと伝えられており、田村邸の移転の際にここ泉岳寺に移されたとのこと。

 
   
      首洗井戸
左側の石碑には「元禄15年12月15日朝義士当寺へ引揚げの際この井戸にて吉良上野介義央の首を洗い以って主君の墓前に供う」とあります。
石柵の右側に「川上音二郎建立」と彫られていますが、川上音二郎は筑前黒田藩(福岡藩)出身で明治中期に「オッペケペー節」で世情を風刺した興業師で、その後書生芝居、壮士芝居を立ち上げ「新派劇の父」と称されています。
 
   
義士墓所門(港区文化財)
この門をくぐると墓所です。門はもともと鉄砲洲(現聖路加病院)にあった赤穂藩上屋敷の裏門で明治初期に屋敷が取り払われる際に移築されたものです。

墓所内には内匠頭と奥方瑤泉院、大石内蔵助以下45人の義士の墓と寺坂吉右衛門、萱野三平重実の供養墓があります。
寺坂吉右衛門は討ち入り後泉岳寺に入ることなく広島浅野本家に討ち入りの報告をしたとされていますが敵前逃亡説もあり、真相は不明のままです。(唯一天命を全う)
又、萱野三平は同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになり元禄15年(1702年)1月14日主君の月命日に自刃しています。
 
   
 
   

浅野内匠頭長矩公の墓

奥方瑤泉院の墓

大石内蔵助良雄(筆頭家老)の墓
 
   
左から間瀬久太夫正明(大目付)、片岡源五右衛門高房(側用人)、原惣衛門元辰(足軽頭)、吉田忠左衛門兼亮(足軽頭)の墓  
       
    左から磯貝十郎左衛門正久(物頭側用人、間喜兵衛光延(勝手方吟味役)、小野寺十内秀和(勝手方吟味役)の墓  
    
左から富森助右衛門正因江戸詰馬廻兼使番、近松勘六行重(馬廻役)、堀部彌兵衛金丸(前江戸留守居役)の墓  
       
  左から潮田又之丞高教(郡奉行兼絵図奉行)、早水藤左衛門満尭(馬廻役)、赤埴源蔵重賢馬廻役)、奥田孫太夫重森(武具奉行)、矢田五郎右衛門助武(江戸詰馬廻役)、大石瀬左衛門信清(馬廻役)の墓   
   
大石主税良金の墓
大石内蔵助良雄の嫡男、切腹時は最年少の16歳
 
 
左より不破数右衛門正種(馬廻役兼浜辺奉行)、菅谷半之丞正和(馬廻役兼郡代)、中村勘助正辰(祐筆兼馬廻役)、堀部安兵衛武庸(御使番、馬廻役)の墓  
 
左より岡野金右衛門包秀(番使岡野包住の嫡男)、千馬三郎兵衛光忠(馬廻役兼宗門改役)、木村岡右衛門貞行(馬廻役兼絵図奉行)の墓  
   
左より間新六光風(間喜兵衛の次男)、倉橋伝助武幸(中小姓)、武林唯七隆重(中小姓)、吉田沢右衛門兼貞(近習兼蔵奉行)、岡島八十右衛門常樹(札座奉行)の墓
        
左より小野寺幸右衛門秀富(大高源五忠雄の弟)、前原伊助宗房(金奉行)、勝田新左衛門武尭(札座横目兼中小姓)、杉野十平次次房(札座横目)、村松喜兵衛秀直(江戸詰扶持奉行兼宗門改)の墓
 
   
左より、萱野和助常成(横目)、横川勘平宗利(徒目付)、三村次郎左衛門包常(台所役)、神崎与五郎則体(徒目付)の墓  
   
左より矢頭右衛門七教兼(勘定方である父矢頭教照長助の遺志を継いで参加し、18歳で切腹)、村松三太夫高直(村松喜兵衛秀直の嫡男)間瀬孫九郎正辰(間瀬久太夫正明の嫡男)の墓  
   
左より奥田貞右衛門行高(奥田孫太夫重森の婿養子)、間十次郎光興(間喜兵衛の嫡男)の墓と寺坂吉右衛門の供養墓  
   
右より貝賀弥左衛門友信(吉田忠左衛門兼亮の実弟)、大高源吾忠雄(金奉行・膳番元方・腰物方)の墓と萱野三平重実(中小姓)の供養墓  
   
鐘楼
梵鐘は大正2年に造られたもので、江戸から明治まで使われていた梵鐘は現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されている。
 
 

水琴窟
 
    
    
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