田平天主堂と生月島・平戸島(2015.8.27~8.28撮影)
 
長崎県平戸市田平町の丘の上にある赤煉瓦造りの教会、正式にはカトリック田平教会といい、建てられている所在地に因んで瀬戸山天主堂とも呼ばれています。教会は、パリ外国宣教会のラゲ神父、ド・ロ神父たちがこの地に移り1879年(明治12年)に仮聖堂を造ったのがはじまりとされ、1918年(大正7年)に数多くの教会建築を手がけた鉄川与助氏によって設計・施工されたもので、正面に会堂から飛び出した三層の長方形の塔が建ち、上部に8角形のドーム型の鐘塔を持つ形式となっており、煉瓦はイギリス積み(注)の工法となっています。聖堂内側壁のステンドグラスは、ドイツ人マキシミリアノ・バルトズによって制作されましたが、あいにくと内部は撮影禁止となっています。
教会は戦時中陸軍の兵舎として用いられていたことから米軍機の機銃掃射を浴びたとのことですが見事に修復されており、2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定され、2007年(平成19年)には、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一つとして世界遺産暫定リストに追加されています。

注:煉瓦積みの工法はフランス積みとイギリス積みの二種類が多く用いられていて、フランス積みは正面から見たときに、一つの列に長手と小口が交互に並んで見える積み方で、イギリス積みは一つの列は長手、その上の列は小口、その上の列は長手と重ねてゆく積み方です。明治半ばまではフランス積みの建物が殆どでしたが、次第にイギリス積みが多用されています。
因みにフランス積みの代表的なものは長崎造船所、富岡製糸所、銀座煉瓦街(明治5年(1872年)の銀座の大火後に不燃化を目指して建設されましたが関東大震災で壊滅しました。)、猿島砲台などで、イギリス積みの代表的なものは東京駅、横浜赤煉瓦倉庫、今村教会堂(福岡県)、江田島旧海軍兵学校など数多くあります。(函館の赤煉瓦倉庫は金森倉庫がイギリス積みで、BAYはこだてはフランス積みです。)
 
    
 
 
        
  教会の正面には「ルルドの聖母像」が置かれています。
ルルドとは、フランスのスペインとの国境に近いピレネー山脈のふもとにある人口15000人ほどの小さな町で、聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっており、世界各地から多くの信者が訪れています。
弊ホームページの「聖地ルルド」を参照してください。
 
     
貝殻焼き場
教会を建てるときに煉瓦の目づめに用いたのはコンクリートではなくアマカワと呼ばれる石灰と赤土を混ぜたものが使用されていました。
石灰は信者たちが食べた貝の貝殻から作られており、この窯で日夜火の番をしながら作られたとのことです。
   
      
聖堂からちょっと下がったところにはルルドの泉を模した泉とマリア像が置かれています。     
 
     
    
聖堂の横には信者たちのお墓がありますが、このお墓は珍しい和洋折衷のお墓です。和式のお墓は縦型の墓石ですが、ここのお墓はその上に十字架があります。  
   
   
     
田平天主堂の観光を終えて生月島に向かいます。  
     
  中江ノ島
平戸島と生月島から2㎞ほど沖合にあるこの島は長さ400m、幅50m位の無人島で、キリスト教が禁止された17世紀前半に平戸藩によってキリシタンの処刑が行われたことから、いわゆる隠れキリシタンの聖地となった島です。
2017年に世界遺産登録審査予定である長崎の教会群とキリスト教関連遺産の構成資産「平戸島の聖地と集落」の対象となっています。
中江ノ島の後ろに見えるのは的山大島に2007年(平成19年)に設けられた九州電力の的山大島風力発電所で、総発電量は32MWあります。
 
     
  生月大橋
平戸島と生月島を隔てる「辰の瀬戸」に1991年(平成3年)に架けられたトラス橋で、架けられた当初は生月大橋有料道路となっていましたが、橋の設置による生月島への観光客増大で通過する車両が設置時の予想を大幅に上回り、建設費用を回収できたようで2010年(平成22年)4月より無料化されています。
 
     
  生月魚籃観音像
生月島の舘浦漁港を見下ろす高台にあるこの観音像は、世界の平和と海難者および魚介類の霊を追悼し、漁船の航海の安全を祈念して1980年(昭和55年)に建立されたブロンズ像で、像の高さは15m、重さは150tあり、内部には観音像など70体が祀られています。
 
     
塩俵断崖
生月島の北西部にある玄界灘に面したこの断崖は長崎県の天然記念物に「塩俵断崖の柱状節理」として指定されており、玄武岩が創りだす柱状節理が1㎞ほど続いています。
   
 
     
平戸島
平戸島は古くは遣隋使、遣唐使の寄港地として利用され、海外との重要な交通拠点となっていた島で、平安期以降は松浦(まつら)党の本拠地となり、鎌倉時代にはモンゴル軍により陣地が構築されたこともあり、室町時代にはポルトガル船が来航して南蛮貿易の拠点となり、フランシスコ・ザビエルらによってキリスト教が布教され、その後弾圧の舞台にもなったという歴史のある島です。
 
     
   平戸大橋
平戸の瀬戸に架かるこの橋は橋全体が鮮やかな朱色に塗られており、昭和52年(1977年)に開通した橋で全長は665mあります。開通後の平成8年(1996年)から平成22年(2010年)までは平戸大橋有料道路となっていました。
 
        
平戸港と常燈の鼻
平戸港は島の東側の入り江にあり、かつては東アジアやポルトガル、オランダ、イギリスなどとの交易公として栄え、近年では平戸市内へのフェリー乗り場となっていましたが、平戸大橋の開通によりその役目を終え現在では的山大島や度島へのフェリーが運行しています。
右の常夜燈は寛永20年(1643年)にこの地にあったオランダ商館が長崎に移転した後に、平戸の瀬戸を夜間航行する船の安全のために灯台として造られたもので、現在も夜間点灯されています。常夜燈の置かれている場所の石垣は当時の護岸工事の名残です。
     
 
     
オランダ商館跡の碑
徳川幕府時代の慶長14年(1609年)にオランダとの国交が交わされたのちに、オランダ東インド会社によって平戸港に面して建てられたもので、寛永5年(1628年)に発生したタイオワン事件で一時期閉鎖されたものの5年後に再開。しかしながら寛永17年(1640年)に商館の建物の破風にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が記されていたことが発覚、禁教令の最中であったことから幕府が取り壊しを命じ、以後商館は長崎の出島に移転。以後、この地はオランダ商船の発着だけにとどまりました。
   
     
  復元されたオランダ商館
オランダ商館跡は大正11年(1922年)に「平戸和蘭商館跡」として国史跡の指定を受けてその遺構が保存されていましたが、平戸市では文献等から寛永16年(1639年)に建設された倉庫の復元を計画し平成23年(2011年)に完成したものです。
復元された建物の中には当時の資料や日用品などが展示されています。
 
     
  オランダ井戸
オランダ商館跡のそばにあるこの井戸は深さが8mほどあって、大小二つの井戸で構成されており、大きい井戸は屋外用として、小さい井戸は屋内用での調理用として使われていたとのことですが、海のそばにあるこの井戸は塩分が含まれている水だったのではないでしょうか。
 
     
  オランダ塀
オランダ商館があった当時に造られたこの塀は商館を外から覗かれないため、また、火災の延焼から守る目的で築塀されたもので、当時の塀の高さは約2m、長さが30mほどありました。
 
     
  オランダ街道の碑
江戸時代に幕府は全国に街道を整備しましたが、平戸の瀬戸を渡って平戸市田平から長崎市東彼杵までの約58kmが平戸往還と名付けられた街道でした。
平成12年(2000年)の日蘭交流400年を記念して平戸から長崎までを「平戸往還」と命名したものです。
 
     
  平戸の町並み
海岸線の道路から一本北側の道は古い町並みが整備されています。
 
     
  平戸城
平戸の瀬戸を見下ろす小高い丘の上に建てられたこの城は、平戸藩松浦氏の居城で、亀岡城、亀甲城、日之嶽城とも呼ばれていました。
築城は慶長4年(1599年)で、山鹿流の縄張りで構築されており、三方を海に囲まれ天然の濠としていますが、天守閣は構築されておらず三重の乾櫓が代用されていました。建物は廃城例により解体され、昭和37年(1962年)に模擬天守及び見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓などが再建されており、日本百名城(90番)に指定されています。
お城大好き人間としては中まで行きたいのですがツアーでの訪問とあって平戸港から写真を撮るだけにとどまりました。
 
     
じゃがたら娘像
平戸にオランダ商館、イギリス商館が開設されウイリアム・アダムスをはじめ多くの外国人が往来していた寛永16年(1639年)、幕府は鎖国令を強化し英蘭両国に関係する日本人婦女子32名をオランダ船でバタビア(現在のジャカルタ)に送るよう命じ国外追放となり、送られた婦女子は以後日本に戻ることなく過ごしたとのことです。
また、追放された婦女子の中でキリシタン信仰とは関係のない手紙等の交信は許されていたとのことで、送られてきた手紙は「じゃがたら文」として知られており、昭和13年(1928年)に発売された『 赤い花なら 曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る濡れて泣いてるじゃがたらお春』で知られる歌謡曲「長崎物語」のじゃがたらお春は実在の人物で、ポルトガル人との間に生まれ母妹ともにジャカルタに送られており、望郷の思いを込めた手紙を故郷へ送っていたようです。
      ポルトガル船入港記念
天文19年(1550年)から永禄7年(1564年)までの間この前の港に毎年のように来航していました。
碑には松浦氏の後裔が建立の由緒書を行っています。
また、この地では永禄4年(1561年)に平戸の住民とポルトガル船員の間に言葉の行き違いから喧嘩が発生、死傷者だすという「宮の前事件」が発生しています。
  
 
     
幸橋(国重要文化財)
市内を流れる鏡川に架かる石造りのアーチ橋で、寛文9年(1669年)に時の松浦藩第4代藩主松浦重信によって木造の橋が架けられ、その後元禄15年(1702年)にその子松浦棟によって現在の橋にかけ替えられたもので、オランダ商館の建設にあたった石工から伝授された技法を用いて架けられたことから「オランダ橋」とも呼ばれています。
   
       
英国商館遺趾之碑
慶長5年(1600年)、豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)が慶長16年(1611年)に本国イギリスに送った書簡からイギリス東インド会社が日本との交易を計画。時の国王ジェームス1世の国書を捧呈して徳川家康、秀忠に謁見して交易が許可されイギリス商館を立ち上げ、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行っていました。
しかしながら先行していたオランダとの対立やウィリアム・アダムスの死もあってわずか10年後の元和9年(1623年)に閉館されてしまい、オランダ商館の長崎移転後もイギリス商館の復活はできなかったようです。
商館のあった場所はオランダ商館に近いところではいわれていますが詳しい場所は不明とのことで、この石碑は幸橋のそばに建てられています。
      オランダ船の錨
平戸港にオランダ船が寄港していた時のものです。
  
 
     
生月島、平戸島両島合わせてわずか2時間ちょっとのツアーでの滞在で写真を撮って回るのはこれが精いっぱい。平戸城内、平戸ザビエル記念教会、大バエ灯台など見どころはいっぱいありますが、機会があればまた訪れてみたいと思います。
   
 
 
     
                
   
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