東京歴史さんぽ その20  
 
 
 
太宗寺

正式には霞関山本覚院太宗寺という浄土宗のお寺で、寺伝によると慶長元年(1596)ごろ僧・太宗が開いた「太宗庵」が前身とのことで、寛永6(1629)年に安房勝山藩二代藩主内藤正勝の葬儀を行ったことから、内藤氏の寄進を受けて寛文8(1668)年に創建されたものです。

(所在地:新宿区新宿2-9-2)
 
     
   
閻王殿

閻魔堂とも呼ばれており、江戸三大閻魔に数えられ像の高さが約5.5mあって都内最大の閻魔大王像が安置されていて、「内藤新宿のお閻魔さん」と親しまれています。
  不動堂

堂内には額の上に銀製の三日月をもち、像の高さが約2mあり通称三日月不動と呼ばれる不動明王が安置されています。この不動明王像は、寺伝によると本来高尾山薬王院に運ばれる予定であったものが、休息に立ち寄った太宗寺の境内で動かすことができなくなったため不動堂を建立して安置したものと伝えられています。
また堂内には新宿山手七福神のひとつである布袋尊も祀られています。
 
     
 

銅造地蔵菩薩坐像

境内に入ってすぐの右側にあるこの地蔵菩薩像は、正徳2(1712)年に造られたもので、江戸六地蔵の三番目として甲州街道沿いのこの地に造立されたものです。
   

塩かけ地蔵

不動堂の左側にあり、おできにご利益があるとのことで、この地蔵に架けられた塩をもらって帰って、患部に塗るとおできが治ると信じられているようです。
 
        
 

内藤家墓所
太宗寺は内藤家の菩提寺で、二代藩主内藤正勝、七代藩主清枚をはじめ歴代の藩主の墓となってます。

甲州街道が整備された時の最初の宿場は、慶長7(1602)年に設けられた高井戸宿となっていましたが、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道(奥州街道)千住宿が日本橋から2里であったのに対し、高井戸宿は4里ほど離れてました。
内藤新宿は、江戸市中が発展するにつれて、街道を利用する公用通行に不便であると新しい宿場開設の願いが出されて元禄12(1699)年に設けられたもので、内藤家の屋敷が近くにあった場所であり、これを幕府に返上させて宿場が設けられたもので、現在の新宿の地名の起こりとなっています。
 
     


三遊亭園朝旧居跡
 
初代三遊亭圓朝(天保10(1839)年~明治33(1900)年)は江戸時代末期から明治にかけて活躍した落語家で、江戸の落語家の大名跡であり、三遊派の宗家で、落語中興の祖として有名な人です。
圓朝の落語は、滑稽噺よりも人情噺や怪談噺が多く、その上手さに他の落語家より嫉妬され妨害を受けたこともあると伝えられています。
代表作には「塩原太助一代記」、「怪談牡丹灯籠」、「真景累ヶ淵」や、現在でも古典落語の名作として口演される「文七元結」、「芝浜】などがあります。
旧居跡は、現在花園公園となっており、圓朝は明治21(1888)年から明治28(1895)年までこの地に住んでいました。

(所在地:新宿区新宿1-21)
   
     


玉川上水

江戸市中への水の供給は、徳川家康の命により設けられた神田上水が最初のものですが、その後承応2(1653)年に、多摩の羽村から四谷まで、玉川庄右衛門、清右衛門兄弟に工事を請け負わせて完成したのがこの玉川上水です。
上水は、取水場所の羽村に設けた堰(堰は現在も羽村取水堰として都の管理のもと運用されています。【弊HP 羽村堰の桜を参照してください】)から四谷までの約43kmは掘割を構築して水を通し、四谷水番所からは地下に石碑、木樋で通水していました。

(所在地:新宿区内藤町の内藤新宿分水散歩道)
   
       
四谷大木戸跡

四谷大木戸は、現在石碑があるところより東にある四谷四丁目交差点付近手に、甲州街道から江戸への入口となる木戸として幕府により元和2(1616)年に設けられたもので、幕府の命によりほかの木戸同様に夜は木戸が閉められていましたが、寛政4(1792)年に撤去されています。
また木戸に設けられた石垣や石畳は明治時代まで残っていましたが、今は全て取り払われていて、わずかにすぐそばにある新宿御苑の大木戸門の名が、その名残となっています。
木戸の近くには玉川上水の水番所が設けられ、ここから石樋や木樋を用いて、江戸の街々に水が配水されていました。

水道碑(いしぶみ)記

この石碑は、玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ4.6m、幅2.3mあり、最上部の篆字は徳川宗家16代当主の徳川家達によるもので明治28(1895)年に建てられました。

(所在地:新宿区内藤町87)
     
 
     

小泉八雲旧居跡

ラフカディオ・ハーンはギリシャの生まれですが、日本に魅入られて明治23(1890)年に来日し、島根県の松江で教鞭をとり、小泉セツと結婚して小泉八雲と改名して日本に帰化しました。
その後、明治29(1896)年に帝国大学(現 東京大学)の講師に招かれて上京してこの地に居を構えました。しかしながら周辺の環境が開発で変化していったため、明治35(1902)年に大久保の地に転居しています。

(所在地:新宿区富久町7-30)
   
        


津の守弁財天と策の池

荒木町の一帯は、高低差のある町で策の池のあるこの付近がすり鉢状の地形の底になるような感じとなっています。
江戸時代には徳川家康が鷹狩で訪れた際に乗馬用の策(むち)を洗ったことから「策の池(むちのいけ)」と呼ばれるようになっていましたが、その後美濃国高須藩々主松平摂津守が上屋敷を拝領したことにより、庶民は立ち入ることができませんでした。
池は明治時代になって解放され、住民たちが摂津の守の名から「津の守(つのかみ)」と呼ぶようになり、池のほとりに古来よりあった弁天祠をこの地に遷座して、「津の守弁財天」の名で町の守り神として崇めています。

(所在地:新宿区荒木町10)
     
 
   


金丸稲荷神社

津の守弁財天の傍にあるこの稲荷神社は、この地一帯が高須藩の上屋敷として拝領された際に、守護神として天和3(1683)年に創建されたと伝えられています。
明治時代に入って解放されてからは、周辺一帯は津の守三業地として繁栄し、「火伏の神」として崇められ、度重なる災禍も免れたといわれています。

(所在地:新宿区荒木町10)
   

長谷川平蔵宣以供養之碑

池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」で知られる江戸時代の旗本であり、火付け盗賊改め方の長を務めた長谷川平蔵の供養塔です。
この供養塔は、文禄4(1595)年に創建された日蓮宗の妙天山戒行寺の境内にあり、ここは長谷川家の菩提寺であるようで、境内奥には長谷川家のお墓もあります。

(所在地:新宿区須賀町9-3)
 
 
   


四谷見附跡
見附とは警護のための城門のことで、寛永13(1636)年に江戸城の外堀が完成したのに伴って設けられた36か所の見附のうちのひとつで、四谷見附跡の石垣は、中央線四ツ谷駅を出てすぐのところを通る新宿通りの両側に残されています。

(所在地:千代田区麹町)
   
     

浄瑠璃坂
 
坂の名前の由来は、昔この坂にてあやつり浄瑠璃が行われていたとか、かつてこの近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるためなど諸説あるようです。
この坂の周辺は江戸時代においては武家地で、寛文8(1668)年に宇都宮で起きた宇都宮興禅寺刃傷事件に端を発した、江戸三大仇討のひとつと呼ばれる浄瑠璃坂の仇討が、寛文12(1672)年に行われたところです。
宇都宮藩の前藩主奥平忠正の法要の場で、藩の重臣の奥平内蔵允と奥平隼人が些細な口論から刃傷事件となり、内蔵允は切腹してその子息源八と従兄弟達は家禄没収の上追放、一方の隼人は改易と、喧嘩両成敗にしてはその処分に差があったため、源八たちに不満が残り仇討を決意しました。
藩士の内にもこの処分に対し同情して40数名の藩士が助太刀をかってでて、浄瑠璃坂に屋敷のある旗本の鷹匠頭戸田七之助の屋敷に潜む隼人を討ち取るため討入り、牛込御門のところで討ち取ったものです。
仇討ちは、寛永11(1634)年に発生した「伊賀越の仇討(鍵屋の辻の決闘)」と並ぶ仇討と評判になり、「武士道の範」として世間に感銘を与え、後に歌舞伎や講談の題材として取り上げられました。
この討入りの際の装束が火事装束に身を包んで、明け方に火事を装って討ち入ったとのことで、元禄15(1703)年に赤穂浪士が吉良邸に討ち入る際に参考にしたといわれています。

(所在地:新宿区市谷砂土原町1-2)
   
 
     


筑土神社と堀兼の井戸

「逢坂」という坂の傍にあるこの神社は、千代田区九段にある築土神社の飛地社で、平将門が祭神となっており、もとは平河町付近にありましたが、江戸城築城の際に町が移転したのに伴い、この地に神社も移転したものです。
堀兼の井戸とは、「堀かねる」の意味からきており、掘っても掘っても水がです、苦労して皆で掘った井戸という意味だそうです。
ここでは妻に先立たれた男が息子と住んでいましたが、後妻を迎えたのちにその後妻と男が息子を虐待し、いたずらをしないようにと井戸を掘らせましたが、掘っても掘っても水は出ず息子は精根尽き果て、死んでしまったという伝説があます。

(所在地:新宿区市谷船河原町8)
   

庾礼(ゆれい)坂

江戸時代初期にこの付近に梅の木が多くあったことから、二代将軍徳川秀忠が中国の梅の名所からとって名付けたといわれていますが、その由来は諸説あり、「幽霊坂」、「行人坂」、「若宮坂」、「唯念坂」、「ゆう玄坂」の別名があります。

(所在地:新宿区若宮町)
 
 
     

近代科学資料館

明治18(1885)年に設立された東京物理学校がその前身となる東京理科大学の付属施設で、副称は二村記念館といいます。
建物は明治39(1906)年に建てられた木造二階建ての校舎の外観を復元して、平成3(1991)年に建築されており、副称は、私財を投じて当時の校舎を建設した二村富久氏の名からきています。
内部には東京物理学校から引き継がれ、保存された資料や寄贈資料が展示されており、江戸時代の和算書から、算木、そろばん、機械式計算機そして現在の電子計算機に至るまでの『計算機の歴史』の展示が行わています。
館内にはこのほかにも明治期の蓄音機や炭素電球なども展示されており、体験コーナーも併設されているので、子供を連れて見学するのもいいのではないでしょうか。

そういえば、昭和40年代前半の会社には、手でぐるぐる回して計算する機械式計算機があり、よく利用していたのを思い出します。

(所在地:新宿区神楽坂1-3)
   
       


若宮公園

近代科学資料館の北側にある公園で、江戸時代においては大名屋敷をはじめとする武家地であったとのことで、公園には珍しく和風の公園となっており、『手作り郷土賞』を受賞しています。

(所在地:新宿区神楽坂2-20)
   
          


牛込揚場跡
飯田橋駅を降りてすぐの外堀通りに面して設置されているこの石碑は、江戸時代の荷揚げ場があったことを記念して設けられているものです。
当時、全国各地から船で運ばれた木材、酒、米等が、江戸城の外濠である飯田濠があったこの場所で荷揚げされていました。
町名の「揚場町」もこの揚げ場からきています。

(所在地:新宿区揚場町1)
   
         


牛込見附跡と牛込橋

飯田橋駅の西口を出て早稲田通りの両側にある牛込見附は、四谷見附と同じ寛永13(1636)年に設けられたもので、江戸城の外堀に設けられた外郭門36か所の見附のうちのひとつで、「牛込御門」とも呼ばれ、阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)の普請により完成したものです。
牛込橋は、牛込見附の一部をなすもので、最初の橋は牛込見附と同じく寛永13(1636)年に架けられました。ここは当時「牛込口」とも呼ばれ、上州道に通じる交通の要所となっていました。

(所在地:千代田区富士見2-9)
   
 
         
神楽坂
 
神楽坂は、早稲田通りにおける大久保通り交差点から外堀通り交差点までの坂でにつけられた名前です。
名前の由来は坂の途中に高田穴八幡宮の旅所(御旅所ともいい、祭礼の際に神輿が休息するところ)があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したからとも、若宮八幡神社の神楽の音が聞こえていたからともいわれています。
また、「改撰江戸志」には、津久土明神が牛込に移転する際に、神輿が重たく坂を上がることができなかったが、神楽を奏すると容易に上がることができたので「神楽坂」と名付けたと記されているようです。
神楽坂の周辺は、大正時代に隆盛を誇った花街特有の路地が今も残されています。
坂は、全国でも珍しい逆転式一方通行となっていて、午前中は「坂上から坂下に」、午後は「坂下から坂上」となっています。
早稲田通の両側にはいくつもの路地があり、住宅街やレストラン、そして昔ながらの料亭などが多く見受けられます。(下の写真)
   
 
     
     
本多横丁   神楽小路   かくれんぼ横丁   見番横丁
 
        


善国寺

安土桃山時代の文禄4(1595)年に徳川家康の開基、池上本門寺の第12代貫主である日惺上人によって、馬喰町に創建されたお寺ですが、創建後度々火災に遭い、麹町に移転した後に、寛政5(1793)年にこの地に移ったものです。
本尊の毘沙門天は、新宿山ノ手七福神のひとつに数えられていますが、江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として多くの人の信仰を集めており、芝の正伝寺、浅草の正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれていました。

(所在地:新宿区神楽坂5-36)
   
        


泉鏡花・北原白秋旧居跡

小説家の泉鏡花が尾崎紅葉の書生をしながら執筆活動をしていた明治32(1899)年、神楽坂の芸者桃太郎(本名 伊東すず)と親しくなって、友人に借金をして明治36(1903)年の3月に同女と同棲するも、師の紅葉に知られて一時は別に暮らすようになりました。その後紅葉が急逝した同年10月にはすずを妻とし明治39(1906)年7月までこの地で暮らしていました。この時の体験が「婦系図」として発表されています。
鏡花が転居した後の明治41(1908)年の10月には、詩人作家として活躍した北原白秋が移り住み、翌年10月に本郷動坂に転居するまで活動を続けていました。

(所在地:新宿区神楽坂2-22)
   
        


赤城神社

鎌倉時代の正安2(1300)年に、上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝えられ、寛正元(1460)年に、江戸城を築城した太田道灌によって牛込台に移され、更に、弘治元(1555)年に大胡宮内少輔によって現在地に移され、現在に至っています。
江戸時代には天和3(1683)年に徳川幕府より、江戸大社のひとつとされて、牛込の鎮守として信仰を集めていました。
:現在の社殿は戦災で焼失した後に再建されたものです。

(所在地:千代田区赤城元町1-10)
 
           大鳥居
 
                             拝殿
 
       
 
八耳神社(右側)
戦災で焼失した太子堂で、聖徳太子をご祭神にしており、悩み事があるときは、「八耳様、八耳様、八耳様」と三回唱えてからお参りすると、良い考えが浮かぶといわれて信仰を集めています。また、耳の神様としても信仰を集めており、全国各地から訪れているとのこと。

赤城出世稲荷神社(中央)
創建は明らかではないものの、当神社がこの地に移る以前より地主の守として鎮座しており、大名、武家より出世の神として信仰されていたとのことで、現在はサラリーマンたちが詣でているようです。

葵神社(左側)
徳川家康を祭神としており、「神楽坂の東照宮」として、学問と産業の祈願成就で訪れる人が多いとのこと。
   
巻阿(かんあ)の碑

巻阿は、加藤巻阿といい、江戸時代中期に幕府の家人であった人で、佐久間柳居に師事して俳人となった人です。
碑には
「梅か香や 水は東より 行くちがひ」

「遠眼鏡には 家もあり かんこ鳥」
「名月や 何くらからぬ 一とつ家」
「あるうちは あるにまかせて 落葉哉」
の四句が刻まれていますが、戦災で被害を受けたのでしょうか、途中で切断された形跡があります。
 
       


小浜藩邸跡と杉田玄白生誕の地碑

碑があるところは新宿区の矢来公園の中で、ここは、江戸時代には若狭小浜藩の下屋敷があったところです。
屋敷は周囲に竹矢来(竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い)を巡らせていたことから、矢来町の名がついたといわれています。
この下屋敷は、オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を、中川淳庵、前野良沢らとともに和訳して、『解体新書』を発刊した杉田玄白が生まれたところです。


(所在地:新宿区矢来町38)
   
     


光照寺

樹王山正覚院光照寺が正式名称あるこのお寺は、慶長8(1603)年に戦国時代の武将であった松平次郎左衛門信貞(松平昌安)の開基、清誉上人光照の開山により神田元誓願寺町に創建されました。
寺がこの地に移ったのは正保2(1645)年のことで、それまでこの地は、戦国時代の大永年間(1521~1527年)に、上野の豪族大胡氏が北条氏よりこの地をあてがわれ、牛込氏と改姓して、牛込城の居館を築いたといわれているところです。
居館は北条氏が滅亡した後に江戸に入った徳川家康により廃却され現在はその遺構は残っていません。

(所在地:新宿区袋町15)
   
     


神楽坂若宮八幡神社

神社の由緒では、源頼朝が、文治5(1189)年に奥州藤原氏征伐の際に当地で宿願し、奥州平定後に鎌倉の若宮八幡宮を遷して創祀したといわれており、その後、文明年間(1469~1487)には太田道灌が、江戸城鎮護のため、江戸城に相対させた形で再興させたといわれています。
社殿は太平洋戦争時に焼失しましたが、昭和22(1947)年仮殿を造営、昭和34(1959)年に再建されており、現在の社殿は平成11(1999)年に造営されたものです。

(所在地:新宿区若宮町18)
   
     


宮城道雄記念館

箏曲の演奏家であり、『春の海』をはじめ多くの名曲を作曲し、『雨の念仏』、『騒音』などを執筆した宮城道雄が、昭和5(1930)年から20(1945)年まで住んでいたところです。
宮城道雄は昭和31(1956)年が事故死した後に、その偉業を記念し、筝曲を中心とする日本音楽の研究と普及を図るため、昭和53(1978)年に有志によって建てられたもので、日本で最初の音楽家の記念館です。

記念館オフィシャルサイト



(所在地:新宿区若宮町18)
   
        


芸術倶楽部跡・島村抱月終焉の地

文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人と多彩な活動を行い、新劇運動の先駆者のひとりであある島村抱月が、女優の松井須磨子と近代演劇の発展のための場として、大正2(1913)年に創設した芸術座の拠点となった「芸術倶楽部」があったところです。
島村抱月は大正7(1917)年の11月にスペイン風邪から肺炎を併発して、47歳でこの一室で急逝しました。
また、その2か月後には、松井須磨子も道具部屋で自死して抱月の後を追っています。


(所在地:新宿区横寺町9・10・11)
   
        
        
        
        
               
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