東京歴史さんぽ その26
 
   
     
  三鷹電車庫跨線橋
中央線三鷹駅の武蔵境寄りに設けられている三鷹車両センターに架かる長さ90mの跨線橋ですが、造られたのは昭和4年(1929年)のことで、昭和14年(1939年)に三鷹に居を構えた太宰治が
、友人を案内して訪れていたと案内板にあります。
(所在地:三鷹市上連雀2-20-28)
   
       
 
 
   
       
 
 



中鉢家跡

太平洋戦争中に三鷹の街が空襲を受けたことから、妻の実家がある甲府に疎開した太宰治は、甲府も空襲を受けて実家が全焼したため、生家がある津軽に避難していました。
終戦後の昭和21年(1946年)11月に疎開から戻った際に、執筆活動のためにこの地にあった中鉢家の一室を借り受け、この部屋を舞台にして「朝」を発表したほか、「ヴィヨンの妻」などを執筆しています。

(所在地:三鷹市下連雀3-43-32)
      
 




田辺肉店離れ跡

太宰治は、「斜陽」を執筆するために田辺肉店のアパートを借り受けていました。

(所在地:三鷹市下連雀3-43-32)
      
   



小料理屋『千草』跡

太宰治は、昭和22年(1947年)の7月に、仕事部屋として2階を借り受けていました。

(所在地:三鷹市下連雀3-24-3)
   
       
     
  太宰治文学サロン

三鷹に住んでいた太宰治の一家が利用していた伊勢元酒店があったところで、婦人公論の昭和17年(1942年)2月号で発表された短編小説「十二月八日」にも登場する酒店でした。酒店の跡は文学サロンとして平成20年(2008年)に開設されており、直筆原稿の複製など太宰治に関係する貴重な資料が展示されています。
(所在地:三鷹市下連雀3-16-14)
   
       
 
 
風の散歩道

三鷹駅の南口から玉川上水沿いに井の頭公園まで「風の散歩道」と名付けられ道が約800m続いています。太宰治が執筆した『乞食学生』にもこの道が出てきます。
   
       
     
  太宰碑
「風の散歩道」の中ほどには、『乞食学生』(1940年初出)の一節が記された碑が置かれています。
(所在地:三鷹市下連雀3-6-52)
   
       
 
 



玉鹿石(ぎょっかせき)

玉鹿石は、青森県特産のいわゆる錦石の一種で、ここに置かれている石は、太宰治が生まれた津軽郡金木町産の石です。
風の散歩道の中ほど、玉川上水とは反対側に置かれていますが、太宰治がちょうどこの付近で、昭和23年(1948年)の6月13日に、愛人の山崎富栄と入水自殺したこともあって、彼を偲ぶ意味で置かれているものです。

(所在地:三鷹市下連雀3-6-54)
   
       
     
  山本有三記念館
「風の散歩道」の井の頭公園寄りにあるこの記念館は、昭和11年(1936年)から昭和21年(1946年)まで作家の山本有三が住んでいた大正時代の末期に建てられた洋館で、戦後は進駐軍に接収され、昭和31年(1956年)に接収が解除されたのちもここに戻ることはできなかったようです。建物は、現在山本有三の生涯と作品を紹介する施設の山本有三記念館として一般に公開されています。
ここで山本有三は『路傍の石』や「米百俵」などを執筆しているようですが、門の前に置かれている大きな石は、『路傍の石』執筆当時に、中野にあった中野旧陸軍電信隊(現在の中野四季の森公園付近)のそばで見つけて、庭まで運び込んだと伝えられ、『路傍の石』と名付けられています。

(所在地:三鷹市下連雀2-12-27)
   
 
 
記念館正面(左)と前庭にある山本有三のレリーフ(右)
   
   
駅前に戻り中央通りを太宰治のお墓がある禅林寺に向かって中央通りを歩きます。歩道には三木露風、武者小路実篤、太宰治と亀井勝一郎、山本有三の文学碑が置かれています。
 
   
 
   



三木露風の「赤とんぼ」の碑

兵庫県のたつの市(旧龍野市)に生まれた作詞家の三木露風は、昭和3年(1928年)に三鷹に移り住み、昭和39年(1964年)に75歳で交通事故で亡くなるまで36年間住んでいました。
「赤とんぼ」の詩は、露風が子供時代を過ごしたたつのの頃を思い出して1921年に作詞したもので、昭和2年(1927年)に山田耕作の作曲により童謡として発表されており、幼いころにはよく口ずさんだ歌です。
この歌は、「あなたが選ぶ日本のうた・ふるさとのうた」で第1位となり、「日本の歌百選」にも選ばれています。
とはいっても、最近の子供たちはほとんど歌わないのでしょうね。
      
 



武者小路実篤の「地球を支える手と人間萬歳」の文学碑

府中市に生まれ、『おめでたき人々』、『人間萬歳』などで知られる小説家の武者小路実篤は、昭和2年(1927年)から昭和30年(1955年)まで三鷹市に住み、この間には『牟礼随筆』、『愛と死』、『真理先生』などを発表しており、三鷹市の名誉市民にもなっています。碑には『人間萬歳』の一節が刻まれていますが、設置されてからかなり年月を経ているようで刻まれた文字が読み難くなっています。
      
 



太宰治と亀井勝一郎の文学碑

小説家であり、文芸評論家であった亀井勝一郎は、1934年から約2年間三鷹市の下連雀に住み太宰治と親交があったとのことで、二人の文学碑なっており、碑の上段は、太宰治の『斜陽』の一節が、下段には亀井勝一郎の『三鷹下連雀』の一節が刻まれています。
      
   



山本有三の文学碑

「未来を見つめる二少年像」と名付けられており、下の碑には山本有三が昭和元年(1926年)に発表した『生きとし生けるもの』の一節が刻まれています。
      
   



禅林寺

黄檗宗の寺院である禅林寺は、明暦の大火で移住してきた神田連雀町(現在の神田須田町付近)の町民たちが創建したお寺で、その後現在の名称に改名されています。境内には森鴎外、太宰治のお墓があります。
(所在地:三鷹市下連雀4-18-20)
     
 



森鴎外の墓

島根県の津和野に生まれ、陸軍軍医として日清、日露戦争に従軍する傍ら執筆活動を行い、、小説家として『舞姫』、『ヰタ・セクスアリス』、『山椒大夫』、『高瀬舟』など多くの作品を残した森鴎外の墓は、生前暮らしていたことのある向島の弘福寺に設けられましたが、関東大震災で寺が被災したため、この地に改葬されたもので、墓石には本人が遺言として「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と残したこともあり、本名の「森林太郎墓」としか刻まれておりません。
墓石は森鴎外とはなっていないため、「もりばやしたろう」てどんな人などと聞いている若い女性もいました。
      
   



太宰治の墓

太宰治の墓は、森鴎外の墓に向かうあうように設けられていますが、森鴎外を尊敬していた太宰治の希望によりこの地に設けられてもので、墓石に刻まれた「太宰治」の文字は作家の井伏鱒二の筆によるものです。
ここでは、玉川上水に入水自殺した太宰治の遺体が上がった6月19日に、大勢の人が集まり「桜桃忌」が催されています。
   
       
     
  森林太郎遺言碑
境内の大イチョウのそばにあるこの遺言碑は、森鴎外が死に際して親族と親友の賀古鶴所が付き添う中遺言として残したものであり、碑には下記の文章が刻まれています。

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ
コゝニ死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一余ハ石見人森林太郎トシテ切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官権(憲)威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス
墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サズ
                             大正十一年七月六日 
                                           森林太郎 言 
                                           賀古鶴所 書

 
   
  少し遠いけれどバスに乗って近藤勇の墓がある龍源寺に行くことにします。
 
   
     
  龍源寺前のバス停で降りると、信号を渡ったところが龍源寺です。
正式には大澤山龍源寺という曹洞宗系の単立寺院で、戦国武将で三鷹の大沢村近辺を開いた箕輪将監の開基で、承応元年(1652年)の創建と伝えられています。
(所在地:三鷹市大沢6-3-11)

   
 
 
山門の横には「近藤勇墓所」と刻まれた石碑と三鷹市剣道連盟による「近藤勇と天然理心流」の石碑、横には近藤勇の胸像が置かれています。
 
   
 
 



近藤勇の墓(右)と近藤勇五郎の墓(左)

近藤家の墓所内にあり5基の墓うちの二つで、近藤勇の墓は向かって右から2番目ですが、刻まれて文字が歳月を経て薄くなっており、判読しにくくなっています。
近藤勇五郎は、近藤勇の養子となった人で、すぐ近くにある近藤勇の生家の向かい側に天然理心流の剣道場撥雲館を開いていました。
      
   



墓所内には、漢詩で詠まれた近藤勇の辞世の句が刻まれた石碑があります。
   
       
     
  近藤勇の生家跡
龍源寺から人見街道を西に約300m歩いたところに、新撰組の局長として知られる近藤勇の生家があります。近藤勇は天保5年(1834年)に、龍源寺の檀家であった宮川家の三男勝五郎として生まれ、15歳の時に天然理心流三代目宗家の近藤周助の養子となり、近藤姓を名乗っています。生家は当時敷地が約7000㎡ある富農でしたが、現在は産湯を使った井戸(下左の写真)と昭和の初期に建立された近藤神社(下右の写真)が残されています。
(所在地:調布市野水1-6-25)
   
       
 
 
     
 



近藤道場撥雲館
撥雲館は近藤勇の生家の向かい側にあり、近藤勇の養子となり、天然理心流五代目宗家となった近藤勇五郎が開いた、天然理心流道場撥雲館がありました。
「撥雲館」の名は、ここを訪れた山岡鉄舟が命名したと伝えられています。
道場は最盛期には門人3000人を抱えており、昭和50年代まで稽古が続けられたということです。
(所在地:調布市野水1-7)
   
     
  おまけ

撥雲館の南側には武蔵野の森公園があり、そこには掩体壕が残されているので、行ってみることに。
武蔵野の森公園は調布飛行場と隣接していて、太平洋戦争中は日本陸軍の戦闘機隊の基地となっていました。戦争末期には米軍の空襲も多くなっていたため、配備された戦闘機を空襲から守るため掩体壕に格納していました。
戦後70年を過ぎて全国各地にあった掩体壕は姿を消しており、調布飛行場に作られた30基の掩体壕のうち残されているのは2基だけとなっています。
掩体壕という言葉を知らない人のほうがおおかもしれませんが、昔、といっても60年位前ですが、旧立川基地の近辺でもよく見かけましたが、どうやら今は1機も残っていないようです。
   
       
     
  大沢1号掩体壕    
     
     
  掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」の模型
飛燕は、1943年(昭和18年)に採用された川崎航空機製の戦闘機で、正式には「キ-61 三式戦闘機」といい、円寺出力は1100馬力、最高速度590km/hの性能を持ち陸軍の主力戦闘機でした。
   
   
 
 
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