東京歴史さんぽ その27 (武蔵国分尼寺跡と武蔵国分寺跡)
 
国分寺市にある「武蔵国分寺跡」は、奈良時代に日本各地に建立された国分寺のうちの「武蔵国国分寺」と「国分尼寺」の跡です。
武蔵国分寺は、現在の国分寺市の名のもととなっており、お寺が建立されたのは天平13年(741年)のことでした。寺は鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)に行われた分倍河原の戦いで焼失しており、残されておりません。
  
 
 
史跡通り
 
中央線の西国分寺駅で電車を降り、南に歩きだしますと「史跡通り」があります。
この史跡通りは、武蔵国分寺があった所に設けられた史跡公園に通じる道で、極力車両の通行を少なくするとともに生活環境の向上に努めるよう努力されていて、通りのイメージとして縄文時代の土器の文様や武蔵国分寺の瓦の文様があちこちに取り入れられています。
 
   
      
 
   
     
   
  武蔵台遺跡公園
 
遺跡通りから武蔵国分尼寺に向かって歩くと武蔵台席公園に着きます。
公園といっても小さな広場ですが、武蔵台東遺跡で発掘された4000年ほど前の縄文時代の敷石住居跡が発掘当時の姿に復元されています。直径5mほどの住協の中央には炉が設けられ、その周りを平らな面を上にした川原の石が敷かれています。
こういう遺跡を見ると今から60年以上も前の中学生時代に、考古学の研究会に入って発掘に熱を上げていたのを思い出します。(所在地:府中市武蔵台2-29)
 
 
 
    
 
武蔵台遺跡公園からさらに南に歩きますと武蔵野線の線路沿いの道となり、「伝鎌倉街道」の道標が見えてきます。道標には「尼寺北方の塚」があると矢印が左の方向を指しています。
この道は武蔵国分尼寺(現 市立歴史公園)の北側にあって切り通しのところを通りますが、鎌倉時代において、幕府があった鎌倉と各地を結ぶ主要な街道の一つで、「鎌倉上道」の名残となっています。
  
写真中央の木の後ろの盛り上がっているところが「塚」で、中世において種々の祈願の成就を得るために築かれた修法壇跡といわれ、ここで祈祷を行っていたとのことです。
 
 
  武蔵国分尼寺跡
 
国の史跡として指定されていて、国分寺市の歴史公園となっているこの場所は、奈良時代に聖武天皇の詔によって建立された国分尼寺の跡で、発掘調査によって尼寺の伽藍の様子が判明しています。
(所在地:国分寺市西元町4-1)
 
 
 
 
      
 
   
  尼寺の中枢部とされる地域
ここには尼寺の伽藍の中でも金堂、講堂、鐘楼などの修ような建物があったとのことですが、建物跡の全てが発見されたものではなく、尼僧の居住する尼坊(写真手前)や金堂(写真奥の少し高くなったところ)などが発見されているだけです。

 
 
   
  尼坊跡
尼坊は桁行15間(約44.5m)、梁行4間(約8.9m)で、東西に長い構造で建てられていました。内部は5房に分かれていたと推測されており、尼僧たちはここを勉学、居住そして寝室の場として使用していたようです。
 
 
   
  尼坊のそばにあるこの建物跡は、尼坊の付属施設と考えられていて2間四方の建物でした。そばにある説明板では「掘立柱建物跡」とされています。
 
 
   
  幢竿(どうかん)跡
幢竿とはあまり聞かない言葉ですが、調べると旗竿を建てる支柱で、境内にはいくつもの幢竿跡があります。
何ヶ所かある幢竿跡のうちなぜかここだけは斜めに設けられています。その角度も地表から54度と傾斜しており、直径30cm程の木材を地中1.2mほど埋め込んでいたようですが、なぜこのように斜めに置かれたのか理由は判っていないようです。
 
 
   
  金堂跡と金堂前の撞竿跡
小高くなったところが本尊を安置する金堂跡で、その手前にある4本の棒が撞竿跡となります。
金堂は1mほど高くなった基壇上に建てられていましたが、その大きさは間口が90尺(約20.76m)、南北42尺(約12.56m)あったとされています。
幢竿の遺構は、儀式を行う際に幟旗を掲げるために用いられていたとのことで、金堂前が儀式の場であったことを表すものとされています。
なお写真中央の舗装された部分は、尼坊との間にあったと推測されている講堂との間に設けられた参道です。

 
 
 
金堂跡
 
     
   
  中門跡
中門は金堂の中心から約50m南にありましたが、基壇の一部がかろうじて残っているだけで、大半は現在道路及び人家となっています。

 
 
 




武蔵国分寺跡

国の史跡として指定されている武蔵国分寺跡は、武蔵国分尼寺の東側にあり、その創建は8世紀半ばの西暦750年から760年にかけてと推測されています。
寺域は東西8町(約870m)、南北5町半(約600m)と推測されており、諸国に建てられた国分寺の中でも大きいほうの部類でした。

(所在地:国分寺市西元1丁目から4丁目)
 
       
 
   
  武蔵国分寺跡と武蔵国分尼寺跡のマップ
 
 
   
  中門跡
中門は国分寺の南側に設けれた門で、発掘調査の結果、柱跡などから八脚門であったことが判明しています。丸く写っているのは柱跡で、写真手前の色の濃い部分は参道でした。
 
 
   
  金堂跡
残されている礎石から、金堂の大きさは桁行き7間(約36m)、梁行き4間(約17m)の礎石建物であったと推測され、諸国に設けられた国分寺の中でも最大級でした。

 
 
   
  講堂跡
経典の講義が行われていた講堂は、桁行5間、梁行4間の大きさで8世紀の中ころに創建されましたが、9世紀の終わりごろの改築で建て替えられ、桁行7間で四面庇の大きさとなりました。
 
 
   
  講堂の基壇の縁の外装は瓦積みとなっています。
 
 
   
  鐘楼跡
鐘楼は、礎石の痕跡から桁行3間、梁行2間と南北に長い形で建てられていたと推測されていますが、残っている礎石は一つしかありません。(写真上中央左寄りの黒っぽい部分)
 
 
   
  七重塔跡
七重塔は、金堂跡と講堂跡のある所から200mほど東のところと離れて建てられていました。塔は8世紀半ばの聖武天皇の詔により、国ごとに七重塔を1基作り、「金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)」を安置するよう示されていて伽藍の中でも重要視されていたとのことです。
ここ武蔵国分寺の七重塔は、聖和2年(835年)に雷火で焼失し、9世紀の後半に再建が行われたと記録に残されています。また、ここには2基の塔があったことが判明していますが、礎石は残っておらずその解明は今後の調査にゆだねられるようです。
説明板左後ろにある石は礎石です。
 
 
 




お鷹の道遊歩道

環境庁が選定した名水百選で、「お鷹の道・真姿の池湧水群」として登録されているこの湧水群があるところは、
徳川時代に将軍家のお鷹場として指定されていたところで、『お鷹の道』と呼ばれていたようです。
 
      
 
   
  旧本多家住宅長屋門
国分寺市の重要有形文化財に指定されているこの長屋門は、代々国分寺村の名主を務めていた本多家の表門と先代当主の隠居所として江戸時代の末期の弘化5年(1848年)に建てられたものです。現在は、国分寺市の資料館として利用されています。
所在地:国分寺市西元町1-13-10)
 
 
   
  東山道(とうざんどう)武蔵路遺構再生展示施設
東山道は、都(みやこ = この時代の都は平城京のある奈良でした。)と国府を結ぶ古代の交通路の一つで、武蔵路(むさしみち)は現在の群馬県である上野国(こうずけのくに)国府から、南下して武蔵国府に至る往還路でした。発掘調査で幅12m設けられていたことがわかっています。
(所在地:国分寺市泉町2-10)
 
 
   
  中央の凹凸のある窪んだ所は波板状圧痕といい、道路を強化するため突き固めた痕跡と思われています。  
   
 
 
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