東京歴史さんぽ その4
西ヶ原の一里塚
一里塚とは道路の脇に一里(約3.927㎞)ごとに旅行者の目印として設置した塚のことをいい、そばには榎の木が植えられていました。
一里塚は平安時代末期に奥州藤原氏が白河の関から陸奥まで里程標を造ったのが最初といわれており、江戸時代に入った慶長9年(1604年)に幕府が日本橋を起点として全国に一里塚を置くよう指令したとのことで、約10年で全国に一里塚が設けられたようです。
ここ西ヶ原の一里塚は地下鉄西ヶ原駅を降りてすぐそばにある滝野川警察署の前にあります。この道は日本橋から日光へと続く「日光御成道」の二里目(一里目は本郷追分(現在の国道17号線と本郷通りの分岐点))の一里塚で、当時からこの地に置かれていました。
塚の後ろにあるのは二本の榎の大木で、大正時代の道路整備事業で撤去の危機にさらされましたが渋沢栄一氏他の努力により保存が決まり、現在では国の史跡となっています。(ツツジの後ろの石碑は「二本榎保存の碑」ですが、古くなり彫られた字が読みにくくなっています。)

注:都内に残っている一里塚はここ西ヶ原と板橋区志村にある一里塚の二ヶ所です。ちなみに志村の一里塚は地下鉄志村坂上駅のすぐそばにあります。
 
駒込妙義坂子育地蔵
西ヶ原から本郷通りを歩いて駒込駅の近くまできたところにあるこのお地蔵様、寛文8年(1688年)に土地の今井家が子孫繁栄のため建立したもので、現在の堂宇は戦後再建されたものです。
堂宇内にはセーラー服の少女二人の像がありますが、この地で交通事故によりなくなられた二人の供養のため建てられたものです。
 
 
小石川植物園
文京区の白山にあり一般に「小石川植物園」と呼ばれているこの植物園は、正式名称が「東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園」といい、前身は徳川幕府の五代将軍徳川綱吉の時代に造られた「小石川御薬園」で、八代将軍吉宗の時代の享保7年(1722年)にはここに「小石川養生所」が設けられ、幕末までの140年間近くに亙って貧民救済施設として機能していました。
左下の建物は慶応4年(1868年)明治政府が幕府の医学所を接収して「医学校」と改称し設立された創設された学校で、その後旧東京医学校と改称された当時の本館(現 東京大学総合研究博物館小石川分館)で、現在の東京大学医学部の前身に当ります。建物は明治9年(19876年)に本郷キャンパス内に建てられ、関東大震災の被害も軽微で澄んだとのことであり、国の重要文化財に指定されています。
右下は旧小石川養生所の井戸で、関東大震災の際には飲み水として使用されていました。
 
東京大学赤門と安田講堂・三四郎池
 
東京大学のある文京区本郷は、江戸時代加賀藩前田家の上屋敷があったところで、東京大学の象徴となっている「赤門」(赤門は東大正門ではありません。)は、十一代将軍徳川家斉の21女(家斉は正室のほかに側室が15人以上、その子供がなんと53人、ただし成人した子供は半分しかいなかったようです。)である溶姫が、前田家十三代藩主前田斉泰に嫁ぐ際に建造された御守殿門で(建造は文政10年(1827年))、建築様式は切妻造りの薬医門となっており、国の重要文化財となっています。
 
 

本郷通り側(国道17号線)から撮影
 
校内側から撮影
 
 
安田講堂
正式名称は「東京大学講堂」といいますが、安田財閥の安田善次郎が匿名を条件に寄付を行って大正14年(1925年)建設されましたが、同氏の死後に後寄付を行っていたことが知れ、同氏を忍ぶ意味から「安田講堂」と呼ばれるようになりました。
昭和43年(1968年)に発生した「東大紛争」では全学共闘会議によって占拠され、これを排除するために機動隊が導入され激しい争いの状況がテレビで放映されたことは年配の方には記憶があるのではないでしょうか。
講堂は紛争解決後も荒廃したまま閉鎖されていましたが、旧安田財閥の企業等からの寄付等により改築され平成2年(1990年)から使用が再開されています。
この建物は国の登録有形文化財に指定されています。
なおこの写真は平成25年の11月に撮影したものですが、建物の下部は改築を行うため仕切りが行われており、先日訪れたときは全面的に覆われており、その姿は見ることができませんでした。(工事は平成28年(2016年)3月までの予定)
 
三四郎池
夏目漱石の著による「三四郎」の作中で、主人公の三四郎(小川三四郎)と美禰子(里見美禰子)が出会ったとされていることからこう呼ばれるようになった池です。
正式には「育徳園心字池」という名であり、寛永6年(1625年)加賀藩前田家の三代藩主前田利常のときに、三代将軍徳川家光の御成り(訪問)があるということで、それに先立ち庭園(育徳園)と池(「心字池)を整備したとのことです。
将軍の御成りでは、たった一度の御なりであっても迎える側は莫大な費用を投じて接待しなければならず、御守殿門やこのような庭園を造ったりと、藩の財政に深刻な影響を与えたといわれており、一説にはそれが目的ともいわれています。
 
湯島聖堂
湯島聖堂は御茶ノ水駅を下りて線路を渡ったすぐのところにあり、五代将軍徳川綱吉の時代の元禄4年(1691年)に建てられた「孔子廟」で、もともとは林羅山が上野に設けた孔子廟(先聖殿)をこの湯島に移築拡大し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになったものです。十一代将軍家斉の寛政9年(1797年)に幕府教学機関としての「昌平坂学問所」として開設、昌平校とも呼ばれていました。
学問所には多くの人材が集まりましたが、明治維新後にはその教育内容を巡って儒学派・国学派の主導権争いから明治3年(1870年)には休校となり、そのまま閉校となりました。
建物は関東大震災により入徳門・水屋以外の殆どを焼失、昭和10年(1935年)に再建されています。
 
  仰高門
見学者の聖堂への入口となる門で、元禄時代に移築されたときに設けられており、現在の門は昭和10年に鉄筋コンクリート切妻造りで建られています。
     
  入徳門
木造平屋造りのこの門は宝永元年(1704年)に建造されたもので、聖堂内で唯一の木造建造物です。
     
  杏壇門
「杏壇」とは、中国山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のことで、周りに杏を植えており、後に門を設けたことからこの名がついたとのこと。
     
  大成殿
「大成」とは孔子廟の正殿の名称で、聖堂内最大の建造物で間口20mあり、入母屋告ぐとなっています。
 
   
   鬼犾頭(きぎんとう)鬼龍子(きりゅうし)
大成殿の屋根を見上げると不思議な形のものがあります。
鬼犾頭(上)は魚の体に竜の顔、二本の脚と角をもっているふしぎな生き物で、頭から勢いよく水を吹き出すことも出来るため、火災よけのおまじないとして屋根に設けられています。
また鬼龍子(下)は形が猫に似ているが、
すう虞(すうぐ)を象ったものといわれています。
すう虞は虎に似た霊獣で、聖人の徳に感じて現れる一種の儀獣(人間や機械などを獣人や四足のケモノなどの動物にすること)といわれています。
      孔子像
台湾より寄贈されたこの銅像は高さ4.57m、重さ1.5tあり世界最大の孔子像です。
 
   
旧万世橋駅
神田川に面した万世橋界隈は江戸時代においても繁栄を極め、神田川の水運を利用して青物商が多く店を連ねていたところであり後の神田市場の母体となったところです。
万世橋駅は明治時代の半ばに営業を開始した甲武鉄道が新宿から都心部への延伸により明治45年(1912年)に開業した駅で、一時期中央本線の起終点駅となっていたところです。その後中央本線は東京駅まで延伸し神田駅が開業、関東大震災で駅舎が焼失、簡易駅舎が再建されるも神田駅に乗客が移行して減少し昭和18年(1943年)に休止となりそのまま廃止となりました。
駅舎の一部は交通博物館に転用されましたがこれも平成18年(2006年)に閉鎖となり、現在はその遺構はマーチエキュート神田万世橋という商業施設として利用されています。
 

万世橋より見る旧万世橋駅の遺構(奥の橋は昌平橋)

昌平橋より見る旧万世橋駅の遺構(奥の橋は万世橋)
 
 
 
マーチエキュート神田万世橋  
 
  万世橋
万世橋は延宝6年に神田川に架けられた筋違橋(すじかいばし)が起源で、現在の昌平橋と万世橋の中間あたりに架けられていました。橋のすぐそばには筋違見附があり、橋は見附(江戸時代交通の要所に設けられた見張り所)の付属物でした。
明治5年(1872年)に筋違見附が撤去されたときにその石材を利用して翌年に現在の場所に造られ、完成した当時は萬世橋(よろずばし)と命名されましたが、次第に音読みの「まんせいばし」が一般化したとのことで、「眼鏡橋」の別名がありました。
現在の橋は昭和5年(1930年)に完成したもので、この親柱も当時のままです。
    昌平橋
昌平橋がはじめて架けられたのは寛永年間(1620-1645年)といわれており、当時は「一口橋」とも「芋洗橋」とも呼ばれていました。
又寛文年間では「あたらし橋(新し橋)、元禄時代の初期では「相生橋」と称されていました。
元禄4年(1691年)に湯島聖堂が完成したときに「昌平橋」に改められその名が現在に至っています。
現在の橋は大正12年(1923年)に架け替えられたもので親柱は当時のままです。
なお、明治11年()1878年に日本最初のアスファルト工事が行われています。
 
   
出世稲荷神社
神田須田町(旧 連雀町)のビルの谷間に建つこの稲荷神社、伏見稲荷代謝から分祀したと伝えられており、第2次世界大戦の戦火を免れたことから火伏のほか、商売繁盛、学業成就の利益があるとされて遠方からの参拝者も少なくないようです。
 
 
ニコライ堂
神田駿河台にある「ニコライ堂」、正式名称は「東京復活大聖堂」といい、ロシア正教会の司祭である聖ニコライに因んでこう呼ばれています。
明治24年(1891年)に日本で初めてにして最大級の本格的なビザンチン様式で建てられ緑青を纏ったドーム屋根が特徴です。
第2次世界大戦末期の関東大震災で発生した火災により焼失するも、昭和4年(1929年)に再建され、昭和20年(1945年)3月の東京大空襲では被害を免れており、昭和37年(1962年)国の重要文化財に指定され現在に至っています。(クリックすると大きな画像が表示されます。)
 
 
 
   
柳森神社
秋葉原駅を降り、神田川に架かる神田ふれあい橋を渡ってすぐのところにある柳森神社は、室町時代の長禄2年(1458年)に太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして現在の佐久間町付近植樹した柳の森を鎮守として祀られたのがはじまりとされており、徳川幕府の時代の万治2年(1659年)に現在の地に移りました。
境内にある福寿社は「お狸さん」とよばれ、五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像が祀られており、勝負事や立身出世、金運向上にご利益があると信奉されています。また、富士山信仰の富士塚や力自慢が技を競い合ったといわれる13個の力石も保存されています。(クリックすると大きな画像が表示されます。)
 
   

入口
 

拝殿

福寿神
 
おタヌキ様
 

力石群
 

百度石
富士塚
 
   
   
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