上野公園散策 その  
    
旧寛永寺五重塔
 
重要文化財に指定されているこの五重塔は、寛永8年(1631年)に佐倉城主土井利勝の寄進により初代の塔が建てられましたが、寛永16年(1639年)の火災で焼失しすぐに再建されたもので高さは宝珠の先端まで約36mあり、1層から4層は瓦葺き、5層目が銅板葺きとなっており、1層には釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が安置されていましたが、現在は国立博物館に寄託されています。
塔は寛永寺の旧境内地を用いて造られた上野動物園の敷地内にあり、寛永寺が東京都に寄付したため名称に「旧寛永寺」とついています。
写真は東照宮側から撮影したものです。
   
 
   
国立西洋美術館
 
上野駅の公園口から上野公園に入ってすぐのところにある国立西洋美術館は、昭和34年(1959年)に開館した西洋の美術作品を専門とする美術館で、19世紀から20世紀にかけての印象派などの絵画・彫刻を基としています。
美術館の中心となるのが川崎造船所(現 川崎重工)の社長を務めた実業家松方幸次郎氏が収集した美術品、松方コレクションです。
松方氏が収集した美術品は、国内だけでなくロンドン、パリの倉庫に数多く預けられていましたが、ロンドンの倉庫は火災で焼失、パリにあった400点は第二次世界大戦後に敵国資産としてフランス政府に接収されていました。この接収された松方コレクションを日本に返還する条件が国立西洋美術館の建設だったのです。
収蔵されている美術品は本館及び新館に絵画、素描、彫刻、工芸品等で約4600点あります。
本館の建物は、平成19年(2007年)に国の重要文化財に指定され、また前庭・園地は平成21年(2009年)に「国立西洋美術館園地」として国の登録記念物に登録されています。
建物の基本設計はフランスの建築家ル・コルビジエが行ったものですが、2016年ユネスコの世界文化遺産に「ル・コルビジエの建築作品」として海外7ヶ国にある16資産とともに登録されました。
   
     
旧東京音楽学校奏楽堂

明治23年(1890年)に現東京系術大学音楽部の前身である東京音楽学校の本館として建設された日本で最初の本格的な音楽ホールで、奏楽堂は二階にある講堂兼音楽ホールのことですが、現在の建物の名前となっていて、国の重要文化財に指定されています。
木造建築の建物は老朽化のため犬山市にある明治村に移設の話もあったようですが、建築学会、音楽関係者、市民の反対もあり撤回され台東区に譲渡され現在に至っています。
現在は修復のため内部の公開されていませんが、フェンス越しにここを巣立った滝廉太郎の銅像が見えます。
     
 
       
東京国立博物館
 
上野公園の北側に位置する東京国立博物館は明治5年(1872年)に創設された日本最古の博物館で、本館のほかに表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館があり、国宝87件、重要文化財634件を含む収蔵品は11万6千件を超えており、このほかに国宝、重要文化財を含む寄託品が収蔵されています。
明治4年(1871年)に日本最初の博覧会が湯島聖堂の大成殿で開催されたのが博物館創設のきっかけとなり、明治14年(1881年)に寛永寺本坊跡に煉瓦造りの本館が建設されましたが大正12年(1923年)の関東大震災で損壊、昭和13年(1938年)に現在の形の本館が再建さるまでは明治42年(1909年)に開館した表慶館を用いて展示が行われていました。この本館は「旧東京帝室博物館本館」という名称で国の重要文化財に指定されています。
博物館内の敷地内に入るのは有料ですが、70歳以上ですと年齢の確認できるものを示せば無料となります。(展示物のある建物の中には入れません。)
 
 

大噴水(竹の台噴水)と東京国立博物館本館
 
本館
 
   
因州池田家屋敷表門
旧因幡鳥取藩池田家の江戸屋敷の表門であったもので、江戸時代には大名小路(現在の丸の内3丁目近辺)に建てられていたものですが、明治25年(1892年)に芝高輪の常宮(つねのみや 明治天皇の第6皇女)御殿の表門として移築、更に高輪東宮御所の正門として使用され、昭和26年に博物館に移築されたものです。門は、入母屋造りで左右に唐破風の番所が設けられていて、加賀藩上屋敷の御守殿門(現 東京大学本郷キャンパス)が「赤門」と呼ばれるのに対し「黒門」と呼ばれており、国の重要文外に指定されています。
左は道路側から、右は博物館内側から撮影
 
   
     
黒田記念館
博物館外の西側にあるこの建物は洋画家黒田清輝の遺言により、その遺産を活用して昭和3年(1928年)に建てられたもので、館内には黒田清輝の作品が収蔵展示されています。国立博物館の一施設です。
     
 
   
表慶館
博物館を入って左側にあり、中央と南北両端にドーム屋根を持つネオ・バロック様式のこの建物は、明治42年(1909年)に東宮皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)のご成婚を祝って建てられたもので、正面入り口の左右にはライオン像が置かれています。
 
   
     
本館の裏側には中央に旧寛永寺の庭園の名残をとどめる池が配された日本庭園があります。庭園には茶室が5軒移築されており、有料で利用できるようになっています。  
     
九条館
京都御所内の九条邸にあったものを東京赤坂の九条邸に移築し当主の居室として使用していましたが、昭和9年(1934年)に寄贈されたものです。
右の写真は室内にある江戸時代前期の狩野派の画家による山水画です。
   
 
     
  応挙館
愛知県海部郡大治町にある明眼院という日本最古の眼科専門の医療施設の書院として寛保2年(1742年)に建てられたもので、その小田原三茶人の一人として知られ、三井物産の設立にかかわり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した益田孝氏の邸宅として移築され、昭和8年(1933年)に寄贈されたものです。
 
     
  六窓庵(ろくそうあん)
江戸時代の慶安年間(1648-1651年)に奈良の興福寺慈眼院に建てられた茶室で、六つの窓があることからこの名がついようで、明治10年(1877年)に移築されたものです。
 
     
  転合庵
小堀遠州が八条宮から茶入れ「於大名(耳付きの茶入れで)」を賜った時に、その披露のために京都伏見の六地蔵に建てたもので、昭和38年(1963年)に移築されたものです。
 
     
  春草盧(しゅんそうろ)
江戸時代の政商河村瑞賢が天和年間に摂津淀川の治水工事を任されたときに休憩所として建てたもので、その後、大阪、横浜の三渓園等数度の移築が繰り返されて昭和34年(1959年)に移築されたものです。
 
     
   
    
    明治8~9年ごろに輸入された種子を植えたといわれ樹齢推定120年以上のユリノキの巨木は博物館前にあり、待ち合わせのポイントとなっているようです。         五重塔
銅製で高さ5.7mあるこの塔は、基壇部分に五代将軍徳川綱吉が法隆寺に奉納した旨の銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が刻まれています。
 
     
寛永寺

徳川将軍家の菩提寺である天台宗関東総本山の東叡山寛永寺、開基は三代将軍徳川家光、初代住職は天海で、徳川歴代将軍のうち4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人が眠っています。
徳川家の菩提寺としては明徳4年(1393年)に創建された芝増上寺がありましたが、寛永寺は徳川家により新たに建立された寺院で、天海の発願により2代将軍秀忠が当時この地にあった伊勢津藩藤堂家、弘前藩津軽家、越後村上藩堀家の下屋敷を収公して広大な敷地を天海に与えて建立されたもので、創建の年の年号である「寛永寺」、東の比叡山という意味で「東叡山」と名付けたようです。寛永寺の伽藍は江戸時代の末期には30万坪あったといわれ、今の上野公園の2倍もの面積が寛永寺の境内となっていました。
寺の伽藍は幕末の上野戦争の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇が焼失し、壊滅的な打撃を受けました。明治維新後には境内地が没収され、公園用地に指定されるなどして廃寺状態となりましたが明治8年(1875年)にさいほっそくし、川越喜多院の本堂を移築して本堂として復興しました。
 
    
根本中堂
元禄11年(1698年)に建てられた根本中堂は国立博物館前の噴水あたりにありましたが上野戦争で焼失、現在の根本中堂は寛永15年(1638年)に建てられたという川越喜多院の本地堂を明治12年(1879年)に移築したもので、東京芸術大学音楽部の裏手にあります。
     
 
     
  鐘楼堂
延宝9年(1681年)に厳有院殿霊廟にあった鐘で、明治維新後に根本中堂の鐘として移築され、現在では除夜の鐘や重要な法要の際に使用されています。
 
   
   
旧本坊の鬼瓦  
        
厳雄院殿霊廟勅額門(下左)と常憲院殿霊廟勅額門(下右)
勅額門とは天皇が国内の寺院に特に与える直筆の書で記された寺社額のある門のことをいい、この勅額門はともに四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺で造られています。
左の厳雄院殿霊廟勅額門はわずか10歳で第4代将軍の座に就いた徳川家綱の霊廟で延宝9年(1681年)に建てられたものでり、右の常憲院殿霊廟勅額門は前半の治政が「天和の治」と讃えられた善政でしたが、後半には「生類憐みの令」で知られる悪政を行ったことで有名な5代将軍徳川綱吉の霊廟で宝永6年(1709年)に建てられたものですが、霊廟は明治維新後に解体されたり太平洋戦争で焼失するなどしてその多くが無くなりましたが、この勅額門は難を逃れた貴重な遺構で、ともに国の重要文化財に指定されています。
 
        
   
 
 
輪王寺
一般には通称の「両大師」で知られており、この通称は天海(慈眼大師)と良源(慈恵大師、元三大師)を祀ることに由来しています。輪王寺はもとは寛永寺の伽藍の一部で、開山堂または慈眼堂と称されていて正保元年(1644年)の創建です。
 
     
  開山堂山門  
   
  阿弥陀堂
山門をくぐって右側には阿弥陀堂があり、堂内には阿弥陀如来像のほかに左側に地蔵菩薩立像、右側に虚空蔵菩薩坐像が安置されています。
 
        
  開山堂
開山堂(本堂)は正保元年(1644年)に輪王寺のこの地に創建され、上野戦争では災禍を免れましたが、平成元年(1989年)に火災に遭い、天明元年(1781年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂が焼失し、平成5年(1993年)に再建されたものです。
 
        
  幸田露伴旧宅の門
開山堂から輪王殿に抜ける所にあるこの腕木門は、明治時代の文豪幸田露伴の下谷にあった旧宅にの門で、明治期の仕舞屋の風情を残しているもんです。
幸田露伴(1867~1949)は明治時代から昭和にかけての作家で、尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築き、代表作に「五重塔」、「運命」などがあり、第1回文化勲章を受章しています。
 
     
  寛永寺旧本坊表門
輪王殿の表門となるこの門は、切妻造り本瓦葺、潜門付きの薬医門で、黒門とも呼ばれています。もとは寛永寺本坊の正面にあった門で、明治15年(1882年)東京国立博物館の前身である博物館が上野公園に移転・開館した際にその正門として使用されていました。
上野戦争では激しい戦闘が行われ多くの堂宇が焼失しましたがこの門はその戦火を逃れたもので、門扉には当時の弾痕がそのまま残されています。
 
     
     
     
     
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