ウィーン その2

オーストリアの観光も最終日、空港への出発は午後2時半とのことで、昨日購入した『ヴィエナ・シティ・カード』を使用して旅友のSさんと街歩きです。
 
        



ハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)

街歩きはSさんの希望で、ベートーヴェンが住んでいた家のあるハイリゲンシュタットからスタートです。
ここハイリゲンシュタットは、5000年以上も前に人が住んでいたされ。古代ローマ人の住居跡も発見されているという歴史のある町ですが、1892年にウィーン市に統合されるまでは独立した基礎自治体となっていました。
ハイリゲンシュタット・バーンホフ駅(Heiligenstadt Bahnhof)で電車を降り、ベートーヴェンが住んでいた駅を目指します。
   
 
       



ベートーヴェンが住んでいた家

近くに温泉のあったことから保養地となっていたここハイリゲンシュタットに、ベートーヴェンは耳の治療もかねて温泉保養に訪れ、1802年には移り住んでいました。ベートーヴェンは、ここハイリゲンシュタットで何回か転居しており、町の中にその足跡が残されています。
エルオイガッセと(Eroicagasse)プロブスガッセ(Probusgasse)が交差するT字路のところにある現在この家は、マイヤー・アム・プファールプラッツ(Mayer am Pfarrplatz)という名の居酒屋(ホイリゲ)となっています。
 
   


遺書の家(Beethoven testament house in Heiligenstadt)

プロブスガッセ(Probusgasse 6)の中ほどにあり現在博物館(Wien Museum beethoven museum)となっているこの家は、ベートーヴェンが遺書を書いたとされている家です。
20歳代の後半から持病の難聴が徐々に悪化したベートーヴェンは、28歳のときには高度難聴者となり、音楽家としての将来を失われるに等しい状態となったことから、1802年10月6日にこの家で、甥のカール・ヴァン・ベートーヴェン(Karl van Beethoven)と弟のニコラウス・ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(Nikolaus Johann van Beethoven)に手紙を書きました。後に『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれる手紙です。)
手紙はベートーヴェンの死後の1827年に発見されており、日ごとに悪化する難聴への絶望と、芸術家としての運命を全うするために肉体および精神的な病気を克服したい願いが書かれているとのことです。
   
 
    



田園の家

グリンツィンガー通り(Grinzinger Straße 64)沿いにあり、オーストリア国旗の下に「Beethoven-Grillparzer-Haus」と刻まれた銘板のあるこの家は、1808年にベートーヴェンは詩人のフランツ・グリルパツアー(Franz Grillparzer)とともに住んでいた家で、近くにある小川を散歩しながら構想を練って交響曲『田園』を作曲したところです。手前に停まっている車がチョイ邪魔ですけど

   
 
   
 


ミヒャエル教会(左)とベートーヴェン像(右)

グリンツィンガー通りとホーエ・ヴァルテ(Hohe Warte)の交差する交差点の角にあるミヒャエル教会(Heiligenstadt Parish Church Saint Michael ミハエル教会或はミカエル教会ともいいます)は、ハイリゲンシュタットの教区教会で、13世紀の半ばにはその記録が残されていますが、オスマントルコの攻撃を受けて破壊され、18世紀のはじめにバロック様式で再建されましたが、その後19世紀の終わりころには荒廃してゴシック様式で建て直されたものです。ベートーヴェンの遺書の家にはこの教会を描いた素描が残されているとのことです。
右のベートーヴェン像は、グリンツィンガー通りにあるハイリゲンシュタット公園内に置かれているベートーヴェン像です。
   
 
   
 


ベートーヴェンガングとシュライバー川

ホイリゲのマイヤー・アム・プファールプラッツがあるところから、エロオイカガッセを北へ500mほど歩くとシュライバー川(Schreiberbach)があり、それに沿うようにベートーヴェンガング(Beethovengang)があります。
シュライバー川は細い小川ですが、小川沿いの道はベートーヴェンが日課のように散歩を行って、交響曲『田園』の構想を練っていたとかとのことで、1864年に市によって"Beethovengang"と名付けられたものです。
   
 
        
 


こちらはカーレンベルガー通り(Kahlenberger Str. 26)にあるベートーヴェンが住んでいた家、googleマップでは「Greinerhaus, Beethoven-Wohnhaus」と表されていて、家の壁にある銘板には1817年夏と刻まれていますが、「夏の家」と呼ばれているものでしょうか。
ベートーヴェンは引っ越し魔といわれるほど引っ越しを行ったようで、ここハイリゲンシュタットだけでなくウィーンの中心部を含めて、ウィーン滞在中の35年間で79回も引っ越ししたとの記録があるようです。
   
 
   



シュピッテラウ焼却場(Müllverbrennungsanlage Spittelau)

ハイリゲンシュタットに行く途中、電車の窓からちょっと変わった形の塔があるので、旧市街に戻る途中電車を降りてみました。
シュピッテラウ駅のそばにあるこの建物、なんとゴミ焼却場でシュピッテラウ焼却場といいます。
焼却場の煙突だけでなく建物壁面も変わった模様が描かれており、環境保護に情熱を傾けた画家フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーのデザインによるものとかで、日本の大阪環境局舞洲工場のデザインを手がけた人によるものとか。
無機質な建物のデザインよりもいいかもしれませんね。
   
 
   
シュピッテラウ駅から地下鉄U4でカールツプラッツ駅に戻り、街歩きです。  
   



ブルクガルデンの銅像

王宮庭園(Burggarten)とも呼ばれている新王宮(Neue Burg)j庭園にはいくつもの銅像が置かれています。
左側はフランツ・ヨーゼフ1世、中央はフランツ1世シュテファン、そして右側はゲーテの像です。
フランツ・ヨーゼフ1世とフランツ1世の像は、オーストリアゆかりの人物ですのでここに置かれているのは問題ないのですが、なぜここにゲーテの像が置かれているのか調べてみたところ、ゲーテの作品からシューマンやシューベルトが曲にしているところからのようです。
     
 
   
 


モーツァルト記念像

王宮庭園で一番目立つのがこのモーツァルト記念像です。この記念像はオペラ座のそばにあるアルベルティーナ広場に設置されていましたが、第二次世界大戦時に被害を受けていて、それを修復してこちらに移設したとのことです。
像の前にはベゴニアで造られたト音記号の花壇があり、像の下段には大理石で造られたモーツァルトのオペラのシーンのレリーフが刻まれており、その上にはピアノの鍵盤がデザインされていて、更にその上にが楽器があるのがわかります。
     
 
   
 


新王宮(Neue Burg)

こちらは新王宮の裏側になりますが、生憎と修復中のため全景を撮ることはできず、やむを得ず中央部の上に置かれた双頭の鷲の像の部分だけの撮影です。
王宮としての建設は19世紀末に計画され、建設がスタートしたものの、第一次世界大戦でオーストリアの属した中央同盟国側が敗戦となり、ハプスブルク家によるオーストリアの支配が終焉となって王宮としての建設は途中までとなりました。
現在は、世界博物館として世界各地から集められた多くのコレクションが展示される博物館となっています。
   
 
   
新王宮の正面側に回って写真を撮ろうとしたら、ブルク門(Äußeres Burgtor)のところに大勢の警官が出ていて、英雄広場(Heldenplatz)、ホーフブルク王宮(Hofburg Wien)、ヘルデン広場(Heldenplatz)などが全面立ち入りできません。誰かお偉いさんが来るのでしょうか。やむを得ず塀の隙間から写真を撮る始末です(下の3枚の写真)。  
    

ブルク門
 
新王宮(世界博物館)
 
カール・フォン・エスターライヒ大公
 
   



マリア・テレジア像

英雄広場の南側にあるマリア・テレジア広場(Maria Theresien Platz) の中央には、マリア・テレジア(Maria Theresie)の像があります。
神聖ローマ帝国のカール六世の娘として1717年に生まれたマリア・テレジアは、後に神聖ローマ皇后となり(在位1745~1765)、ハンガリー女王、オーストリア大公となり、40年間(在位1740~1780)にわたりハプスブルク家の領袖として君臨した女帝でありました。
マリア・テレジアは、自身が王位継承問題で戦争まで発展したこともあり、できるだけ子を残そうとして何と男の子5人女の子10人、合計16人の子を産んでいます。

   
 
   
ウィーン自然史博物館(下左)と美術史博物館(下右)

マリア・テリジアの像の両側にある二つの博物館はネオ・ルネサンス様式で建てられていて、ほとんど外観が同じような構造となっており、よく覚えていないとどちらの写真がウィーン自然史博物館なのか美術史博物館なのか判らなくなるくらいです。
左の写真のウィーン自然史博物館(Naturhistorisches Museum Wien 愛称「NHMW」)、神聖ローマ皇帝フランツ一世が1748年に、フィレンツェのジャン・ドゥ・バイユウ(Johann Ritter von Baillou)が所蔵していた化石や鉱物などを購入し皇室で管理していたものを、フランツ・ヨーゼフ一世が1876年に帝国自然史博物館を設立して1889年に公開を始めたものです。内部には約3000万点もの所蔵物があり、世界でも主要な博物館のひとつとなっています。
右側の美術史博物館(Kunsthistorisches Museum)は、フランツ・ヨーゼフ一世の命で建設がはじめられ自然史博物館より2年遅い1891年の会館で、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世がコレクションしたものが起源といわれ、古代から19世紀までのヨーロッパ各地から歴代君主が集めたコレクションを展示しています。中でも16世紀のオランダの画家ピーテル・ブリューゲルの作品数は世界最大となっています。

 
 
 
   



オーストリア国会議事堂(Parlament)

フォルクスガルテン(Volksgarten)の西側にあるこの議事堂、オーストリア=ハンガリー帝国の帝国議会議事堂として、デンマーク出身の建築家テオフィル・フォン・ハンセンの設計により1883年に完成したもので、古代ギリシャの神殿のような外観となっており、建物の正面には「アテネの泉」と呼ばれる噴水があり中央には知恵の女神アテナ像(左側の写真)があります。建物の正面上部にはギリシャやローマの政治家や学者たちの像があり、最上部には4頭立ての戦闘馬車チャリオット(Chariot)(右側の写真)があります。
残念なことに昨年より大規模な改修工事がスタートしており、建物全体を見ることができません。工事は2020年まで続くようです。
   
 
   
 


フォルクスガルテン(Volksgarten)

フォルクスガルテン(市民庭園)は、ホフブルク宮殿の庭園として、1809年にナポレオンによった破壊された要塞の跡地に設けられたもので、1823年の開園です。
園内には、アテネの神殿を模した建物や噴水、そして花壇があり、散策するにはもってこいの場所ですが、ブルク門からの閉鎖がここにも及んでいて門扉が閉じられており中に立ち入ることができません。
右の写真は庭園の塀に沿っておかれている体重計ですが、1€コインを投入して体重を図るようになっています。ヨーロッパを訪れると、所々の町でこの体重計を見かけますが、そんなに気にする人がいるのでしょうか。
   
 
   



ブルク劇場(Burgtheater)

マリア・テレジアが 1741年に宮廷劇場として創設,初めはフランスやドイツの劇団を招いて上演させていました。その後、ヨーゼフ二世によってオーストリア演劇の拠点とすべく、国立劇場として再編成されて自国の作品だけでなく、ゲーテやシラーの作品を上演し、19世紀のヨーロッパ演劇界に大きな影響を与えていました。建物は第二次世界大戦によって破壊されましたが、1955年に再建されています。
 
   
 
   
 


ウィーン市庁舎

ゴシック・リヴィヴァル様式で建てられているこの市庁舎は、幅127m、奥行き152m、総面積113,000㎡あるとても大きな建物で、当時練兵場として用いられていたこの地に1883年に建てられました。
訪れたときは、市庁舎前広場でウィーン音楽映画フェスティバルが開かれており、広場一帯は出店のテントが建ち並んでいたり、映画上映用の幕が置かれていて建物全体を撮ることができません。
   
 
     
もう少し街歩きしたいのですが、時間はすでに12時を過ぎており、お昼も食べていません。集合時間のこともあるので残念ながらホテルに戻ることに。  
        
   
 
 
     
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