横浜街歩き
 
 
横浜中心部の街歩きです。
 
 
     

掃部山公園

みなとみらい21を見下ろす高台にあるこの公園は、江戸時代には海に面した高台となっていた「不動山」と呼ばれていたところです。
明治時代になってから、新橋-横浜(現 桜木町)間に鉄道が開通したころは、鉄道開通に携わった英国人技師たちの官舎が建てられ、その後も鉄道用地として利用されたことから「鉄道山」とも呼ばれていたようです。
明治17年には井伊家の所有となり、開港50年目の明治42(1909)年に井伊掃部頭の像が建立されましたが、この時には開国の恩人としての建立趣旨に対して反発した、明治の元勲とも呼ばれる山縣有朋、伊藤博文、井上馨たちが欠席したとのことです。
銅像建立後の大正3(1914)年に横浜市に寄付されて「掃部山公園として整備されました。
銅像は太平洋戦争時に金属回収令により供出されており、現在のものは二代目となります。

(所在地:西区紅葉ケ丘57)
 
 
     


鉄道湧水

掃部山公園の東側、住宅地に面したところで、二ヶ所ほど太いパイプから水が流れ出ています。掃部山からの湧水です。
この湧水は、鉄道開通後に蒸気機関車の動力源用として用いられていたとのことで、ここからトンネルにより初代横浜駅まで運ばれていたとのことです。
因みに飲料水には用いられていません。

(所在地:西区花咲町4-132)
   

神奈川奉行所跡

安政6(1859)年、横浜開港に伴い、幕府が設けた奉行所で、開港準備にあたっていた外国奉行の酒井忠行・水野忠徳・村垣範正・堀利煕・加藤則著の5名が、神奈川奉行を兼務するよう命ぜられ、輪番で職務に当たっていました。
奉行所は「戸部役所」とも呼ばれ、内国司法、行政事務の取り扱いを行っていいました。
奉行所及び運上所は、明治元(1868)年に神奈川裁判所が設けられたことによって、その任を引き継いで廃止されました。

(所在地:西区紅葉ケ丘9-1)
 
              


佐久間象山顕彰碑

佐久間象山は、江戸時代後期の松代藩士で、藩主の真田幸貫が海防係となったのに伴い、顧問に抜擢され、その任の必要性から海外情勢を研究し、韮山代官江川英龍のもとで兵学を学びました。
その後西洋砲術家として名を馳せた象山は、江戸で「五月塾」を開き、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らに砲術・兵学を教えていました。
浦賀にペリーが来航した以降開国を唱え、横浜での開港は、象山が幕府に対し主張したことが影響しているとのことです。
しかしながら、当時の日本は、公武合体論と開国論で揺れ動いており、明治維新を見ることなく元治元(1864)年に、尊王攘夷派の河上彦斎らによって、京都で暗殺され亡くなりました。
この碑は、開国100年記念として、昭和29(1954)年に野毛山公園の一角に建立されたものです。

(所在地:西区老松町)
   

中村汀女の句碑

熊本県生まれの中村汀女(本名 破魔子)は、熊本県立高等女学校を卒業後から「ホトトギス」に投句を始めた人で、大蔵官僚であった夫の転勤に伴い各地を移り住み、横浜には昭和5(1930)年から、西戸部町にある官舎で暮らしていました。
句碑には早春の野辺を詠んだ「蕗のたう おもひおもひの 夕汽笛」の句が刻まれています。

(所在地:西区老松町)
 
 
     


日本近代水道最古の水道管

明治20(1887)年に、イギリス人で陸軍工兵大佐であったパーマー(ヘンリー・スペンサー・パーマー)の指導のもとに、相模川の支流である道志川を水源として、野毛山配水池に至る総延長48kmの横浜水道建設が行われ、日本初の近代水道が完成しました。
当時の水道管は現在も一部現役で利用されているとのことですが、公園に展示されているのは当時利用した水道管です、中央にはパーマーのレリーフがあります。


(所在地:中区野毛3丁目 野毛三丁目公園)
   
 
     


鉄道発祥の地碑

明治5(1872)年に新橋ー横浜間に日本最初の鉄道が開通しましたが、当時の横浜駅は現在の桜木町駅付近にありました。
碑は桜木町駅東側の広場に建てられています。碑には記念碑設立の説明文、背面には当寺の横浜駅の姿が刻まれています。
碑の設置されたのが昭和42(1977)年とのことで、設置後50年近く経過しているためか、全面に錆が出ているのがちょっと残念です。

(所在地:中区桜木町1丁目)
   
 
     


旧横浜船渠第2ドック

明治22(1889)年に、パーマーが港湾の発展には船渠(ドック)や倉庫などの付帯設備の充実が不可欠であることを説き、これを受けて渋沢栄一や地元財界人が設立したのが横浜船渠です。設立後3基の船舶修理用ドックが建設され、当初は艦船の修理を行っていましたが、その後艦船の建造も行い、氷川丸や秩父丸(後に鎌倉丸と改名)などを建造しました。
会社はその後三菱重工業と合併し、昭和18(1943)年には横浜船渠の会社名は消失しました。戦後船舶の大型が進むにつれてここでの対応ができなくなり、中小船舶の修繕も中小造船所に移行したこともあって、昭和58(1983)年にはその業務を停止し、閉鎖されました。
ドツクのあったこの地区はみなとみらい21として再開発されることとなりましたが、1号ドックとその周辺は、日本丸メモリアルパークとして日本丸を浮体展示、2号ドックはランドマークタワーの隣接地にドックヤードガーデンとして保存されることとなりました。
写真はドックヤードガーデンですが、「旧横浜船渠株式会社第二号船渠」として国の重要文化財に指定されています。

(所在地:西区みなとみらい2-3-1)
   
     


横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサー

旧横浜船渠が造船事業を行うにあたり、大正7(1918)年にアメリカから購入したエアー・コンプレッサーで、昭和58(1983)年に造船所の機能を停止するまで、造船所内のリベット・ハンマーをはじめ様々な機械の動力となる圧縮空気を送り続けていました。

(所在地:中区桜木町1-1-8-2)
   
   


長谷川伸文学碑

明治17(1884)年横浜の日ノ出町付近で生まれた長谷川伸(本名 長谷川伸二郎)は、家庭の事情もあり小学校を3年で中退し、第2号ドックの建設現場雑用係として働き、あるいは品川遊郭で使い走りや水まき人足をして。落ちている新聞のルビを読んでは漢字を覚えたとのことです。
その後新聞社の雑用係として入社、記者としての生活を送りながら小説を発表、代表作の『関の弥太っぺ』、『瞼の母』など多くの小説、劇作を発表しています。
碑は生誕100周年を記念して建立されたものです。

(所在地:西区みなとみらい2-1-1 日本丸メモリアルパーク内)
   
 
     

汽車道

桜木町駅前から新港地区を結ぶプロムナードで、明治44(1911)年に開通した旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称税関線ともいいます)が、昭和35(1960)年に廃線となり、その支線であった貨物線も昭和61(1986)年に廃線となりましたが、この廃線跡を利用して、一部レールを残して整備したものです。
汽車道には明治39(1906)年から42(1908)年に架けて架設されたに設けられ、港1号橋梁、2号橋そして3号橋梁と3本のトラス橋が残されています。
この3本の橋は、「旧臨港線港一号橋」、「旧臨港線港二号橋」、「旧臨港線港三号橋」として、経産省の「近代化産業遺産群」のひとつに認定されており、横浜港の歴史を証する遺産となっています。
右の写真はいずれも港1号橋梁です。

(所在地:西区みなとみらい2丁目、中区新港2丁目)
 
 
     


旧横浜港駅プラットホーム

赤レンガパーク内にあるこのプラットホームは、東海道本線貨物支線(通称横浜臨港線)の鉄道駅であった旧横浜港駅のプラットホームで、横浜税関構内の荷扱所として明治44(1911)年に設けられ、大正9(1920)年には横浜港駅となって、東京駅からは汽船連絡列車(ボート・トレイン)が乗り入れていました。
駅は、太平洋戦争勃発により、対米航路は中止となり、海軍関連専門の駅として使用。戦後は米軍に一時接収されていましたが、昭和31年に日本側の使用が再開され、新港埠頭の返還により横浜港駅へのボート・トレインの運行も行われましたが、昭和62(1987)年にすべての機能を停止して廃止となり、みなとみらいの整備後の平成8(1996)年に旧旅客ホームが復元・保存されています。

(所在地:中区新港2-2-1)
   
 
     


旧税関事務所遺構

旧横浜港駅プラットホームのすぐそばにあるこの遺構は、大正3(1914)年に建てられた税関事務所のもので、船舶の係留、貨物の取扱い等の事務を行うため新港埠頭に建てられていましたが、大正12(1923)年に発生した関東大震災で焼失し、再建されないまま埋められていましたが、赤レンガパーク工事の際に発見されたもので、現在は花壇として利用されています。

(所在地:中区新港2-2-1)
 
     


横浜三塔

横浜街歩きで忘れてならないのが、横浜三塔です。横浜市のシンボルとして市民に親しまれており、観光客も一度は訪れるところで、「横浜三塔物語」と呼ばれています。
この愛称は、昭和の初期に横浜を訪れた外国船の船員がトランプのカード見立てて呼んだことが由来と言われており、写真の左端にある神奈川県庁舎を「キング」、右端のイスラム寺院のミナレット風の塔が特徴の横浜税関を「クイーン」、中央に見える赤レンガ造りで時計塔のある開港記念館を「ジャック」と呼んでいます。
三塔をいっぺんに見ることができるスポットはここ赤レンガパークの他にもあり、スポットには右の写真の目印が埋め込まれています。

横浜三塔は、弊ページ「横浜三塔と銀杏並木」で紹介していますので割愛いたします。

(所在地:中区新港1-1)
   
    

キングの塔 

ジャックの塔

クイーンの塔
   
          


象の鼻防波堤

安政6(1859)年に横浜港が開港した際に設けられた西波止場(税関波止場)は並行した二本の形状であったようです。(右の写真)
波止場は慶応2(1866)年に、火災で焼失したため再築する際に、弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになったものです。
後には明治2(1896)9年に設けられた大桟橋があり、豪華客船が横付けされています。

(所在地:中区海岸通1-1)
   
 
       


鉄軌道と転車台跡

象の鼻テラスにはガラスで覆われた明治時代に設けられた転車台(ターンテーブル)です。明治の半ばに税関の敷地内に設けられた手押し式の転車台でした。
象の鼻パークの整備中に発見されたものですが、見落とす人も多いようです。

(所在地:中区海岸通1丁目)
   
        
 


山下公園通りのタイル画

山下公園沿いにある山下公園通り、日本の道百選にも選ばれた道で、秋には黄葉したイチョウ並木が見どころとなるところですが、通りの歩道にはいくつものタイル画が埋め込まれています。
往時の横浜を偲ばせるものです。
 
 
      


旧英国七番館

山下公園に面した赤煉瓦造りの建物、大正11(1922)年にイギリスの貿易会社の横浜支店として建てられたもので、翌年9月に発生した関東大震災の際には内部は焼失したものの、外装は被害を免れた唯一の建物です。現在は宗教団体の建物となっています。

(所在地:中区山下町7)
   
 
     


リカルテ将軍記念碑

山下公園のお祭り広場近くに建てられたこの記念碑は、フィリピン諸島イロコスノルテ地方で生まれた、フィリピン陸軍の父といわれるリカルテ(アルテミオ・リカルテ)将軍の記念碑です。
リカルテは、1896年(明治29年)にフィリピン独立のため挙兵し、1899年(明治32年)に発生した米比戦争では捕虜となって収監され、第一次世界大戦時にも再度収監されましたが、脱獄して1915年(大正4年)に日本に亡命。山下町に住まいを構えました。
第二次世界大戦時に帰国し、1943(昭和18)年の祖国独立をみることができましたが、大戦末期の1945(昭和20)年6月に、ルソン島の山奥で赤痢に罹り78歳で亡くなりました。

(所在地:中区山下町12-1)
   

日米友好ガールスカウトの像

山下公園内、氷川丸の前に建てられたこの像は、アメリカガールスカウト発足50周年とガールスカウト日本連盟の連盟加入を記念したもので、昭和37(962)年に建てられました。

(所在地:中区山下町10)
 
 
        


氷川丸

山下公園前に係留されているこの船は、昭和5(1930)年に建造された総トン数11622tの貨客船で、北太平洋航路で運行され、第二次世界大戦時は病院船として利用され、昭和35年まで運行が続けられました。
運行終了後はこの地に係留され、戦前から現存する唯一の貨客船として、その内部も貴重な資料となっていて、博物館船として一般公開されており、国の重要文化財に指定されています。

船の前の公園内には、童謡「かもめの水兵さん」の歌碑があります。
歌は、武内俊子の作詞、河村光陽の作曲により、昭和12(1937)年に発表されたもので、子供の頃にはラジオから流れるこの歌を口ずさんだりしたものですが、最近の子供たちはこの歌の存在すら知らないのではないでしょうか。
   
 
     


水の守護神像とミッションベル

公園の中ほどにある噴水の中央に建つこの像は、横浜市と姉妹都市の提携をしている、アメリカはサンディエゴ市から、昭和30(1955)年に噴水とともに寄贈されたもので、守護神像を囲むように4基の「ミッションベル」と『美しのサンディエゴ』の歌碑があります。
『美しのサンディエゴ』の歌は、作詞佐伯孝夫、 作曲吉田正、歌渡辺はま子で発表されています。
ミッションベルは、1769年から1832年にかけて、聖フランシス派の修道士たちがサンディエゴから、北はサンフランシスコに至る600マイルの道のりに21に及ぶ伝導所を設けました。その後、この道筋(エル・カミーノレアール)を確認し設けたのがミッションベルで、これはその複製です。
   
 
     


赤い靴はいていた女の子の像

野口雨情作詞、本居長世の作曲で知られる童謡『赤い靴』の女の子は、公園の中央付近にあるこの像は実在していた少女がモデルとのことで、両親が生活難から、アメリカ人宣教師に養育を委託することとなりましたが、結核に冒されアメリカに渡ることができず麻布の孤女院に預けられ9歳で亡くなったとされています。(説には諸説あって正確なところは不明です。)
   

西洋理髪発祥の地碑

公園内の赤い靴はいていた女の子の像より山下通り側にあるこの碑は、元治元(1864)年に外国人居留地内のこの地に日本で初めての西洋理髪店がヨーロッパ人理容師、H.P.ファーガスンによって開店したところです。
因みに日本人初の理髪店は明治2(1869)年頃に小倉虎吉が同じ居留地内に開店したのがはじめです。
その後の明治4(1871)年、明治政府が断髪令(散髪脱刀令)を出したことにより、男子は髷(まげ) を結わずに散髪にする風潮が広がりはじめました。
散髪された頭は「散切り頭(ザンギリあたま)」と呼ばれ、文明開化の象徴として、『ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする』という言葉まで流行りました。
 
              


インド水塔

公園の一角にあるこの水飲み場は「インド水塔」と名付けられています。
関東大震災では多くの人が被災しましたが、横浜に在住していて被災した在日インド人救済のため、横浜市民が被災インド人への住宅の手当てなどに力を貸したとのことで、山下公園が開園した後の昭和14(1939)年に、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために、在日インド人協会が、山下公園内に建立したのがこのインド水塔です。
   

山下公園通りには馬車で観光する人もいます。ノンビリ観光するにはいいかもしれませんね。
 
 
      


横浜開港資料館

昭和6(1931)年に建てられ、昭和47(1972)年まで英国領事館として使用されていましたが、領事館閉館後の昭和56(1981)年に横浜開港資料館として開館しました。
資料館の内部には、幕末から昭和初期にかけての横浜の歴史、文化などに関する資料約25万点を所蔵、展示されています。

(所在地:中区日本大通3)
   
        
 

開港広場公園

横浜開港資料館と接しており、開港記念広場とも呼ばれています。
この地は、安政元(1854)年にアメリカ代表のペリー提督と日本側の全権委員との間で日米和親条約が締結されたところで、その記念碑(右の写真)が建てられています。
公園が開園したのは昭和57(1982)年ですが、整備中には明治10年代に敷設された下水道のマンホールと下水管が発見されており、これを保存してガラスで覆って上から見学ができるようになっています。(下左の写真)
また、開港資料館の塀脇には居留地90番にあったスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会が取り扱っていた大砲が、同社屋工事中に発見され、横浜市に寄贈されて展示されています。(下右の写真)

(所在地:中区山下町13)
   
 
     
   
     


英一番館跡

英一番館は、横浜開港後の安政6(1859)年に、イギリスのジャーディン・マセソン商会が開設した横浜支店で、外資系企業の日本進出第一号といわれています。
建物は、現在シルクセンターがあるところに、鹿島建設の創業者である鹿嶋岩吉によって建てられていましたが、横浜大火や関東大震災で焼失し、昭和7(1932)年にはその拠点を神戸に移して横浜を去りました。

(所在地:中区山下町1)
   
 
     


外国郵便創業の局(横浜港郵便局)

明治4(1871)年に日本の近代郵便制度が創設されたときに横浜郵便取扱所として開設され、明治8年に横浜郵便局となって、この時より外国郵便の取り扱いが開始されました。

(所在地:中区日本大通り5-3)
   
 
     


和蘭式野戦砲

大砲の傍にある説明板では、ペリーが横浜に来航した際、幕府が松代藩と小倉藩に会見の場の警衛を命じした。松代藩の軍議役であった佐久間象山は、和蘭式野戦砲二門、牛角砲二門、元込銃に、槍や刀で装備した兵で出陣、幕府を驚愕させましたが、しましたが、使用されることはなくこの地に埋没することとなったと記されています。
大砲は社屋建設の際に発掘されて保存展示されています。

(所在地:中区山下町90-1)
   
     


消防救急発祥の地

この地には明治4(1871)年から明治32(1889)年まで、ここを本拠地とした居留地消防隊の防火貯水槽(右の写真)が埋設されていました。貯水槽は設置状況が良かったことから留地時代から100年以上たった昭和47(1972)年までその役目を果たしました。
居留地消防隊がその役目を終えたのちの大正4(1914)年には消防自動車が、昭和8(1933)年には救急車が、日本で初めて配置された近代消防ゆかりの地となっています。

(所在地:中区日本大通り12)
   
 
   


ホテル発祥の地

この場所は、横浜開港直後の万延元(1860)年に、オランダ人の元船長C・J・フフナーゲルによって、日本で初めての近代化ホテル「ヨコハマ・ホテル」が建てられたところで、ホテル内には食堂、バー、ビリヤード場などが設けられていました。
シーボルト親子や、幕末時に記者として訪れ、当時の日本のさまざまな様子・事件・風俗を描き残残したといわれるチャールズ・ワーグ゙マンたちも一時滞在したとのことです。

(所在地:中区山下町70)
   

神奈川運上所跡

安政6(1859)年の横浜開港に伴って、神奈川奉行所の支配下として、現在の神奈川県庁舎がある場所に設けられた運上所は、税関業務や外交業務等の重要な業務を取り扱っていましたが、明治元(1868)年には明治政府に移管され、同5(1872)年に横浜税関と名を変えました。

(碑は神奈川県庁舎の日本大通り交差点角に建てられていますが、植え込みの中にあるので少し見つけ難くなっています。)

(所在地:中区日本大通り)
 
 
     


電信創業の地

碑は横浜検察庁の玄関わきに設置されており、碑文には、明治2(1869)年にこの地にあった横浜電信局と東京電信局の間で、日本で初めての電報の取り扱いが始まったと刻まれています。

(所在地:中区日本大通り)
   
     


岡倉天心生誕の地碑と横浜町会所跡の碑

横浜開港記念館のあるこの場所は、、福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」があったところで、岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしており、天心は文久2(1863)年に生まれました。
その後明治7(1874)年には石造り2階建てで時計台のある建物が建てられ、横浜の町政を取り扱う町会所となっていました。
町会所は、明治22年に市制が敷かれたのちの翌年に、横浜貿易商組合会館と改称、更に横浜会館と名を改めましたが、明治39年の火災で焼失。大正2(1909)年に横浜開港50周年を記念して、現在の横浜開港記念会館が建てられました。

(所在地:中区本町1-1-6)
   
 
     


馬車道

関内駅そばの吉田橋から万国橋に向かう通りの通称で、横浜開港後に関内に外国人居留地が置かれたこともあり、居留地に住む外国人達が、この道を馬車で往来し、その姿が当時の人々には非常に珍しく、「異人馬車」などと呼んでいたことから、この道は「馬車道」と呼ばれるようになったとのことです。
   
 
     
  横浜開港資料館に所蔵されている明治末期の馬車道を描いた絵ハガキから転写したレリーフで、馬車道に飾られています。
 
     
 

日本最初のガス灯

明治3(1870)年に実業家であり易断家であった高島嘉右衛門は、伊勢山下石炭蔵跡(現在の横浜市花咲町・本町小学校付近)横浜瓦斯会社を設立し、フランス人の技師プレグランを招聘して工場の建設を行い、ガス灯を造り日本でのガス利用の先駆けとなりました。
ガス灯は、明治5年に本町通りから馬車道にかけて街灯として十数基設置されています。
写真左は馬車道にある復元されたガス灯で、写真右は本町小学校前にある当時のガス灯で、日本ガス事業発祥の地として保存されています。


(左の写真の所在地:中区相生町4-76)
(右の写真の所在地:中区中区花咲町2-83)
   
 
       


牛馬飲水槽

明治から大正にかけての陸上交通は、牛馬が主力で、道路わきには牛馬のための飲水槽が設けられていました。

(所在地:中区常盤町567)
   

下岡蓮杖顕彰碑

伊豆は下田に文政6(1823)年に生まれた下岡蓮杖は、下田奉行所の臨時下田御台場附の足軽
年て奉公していましたが、年少の頃からの絵師になりたいと夢を捨てがたく、江戸に出て狩野仲信門下に入門。
師の用事で出かけた旗本屋敷で見たダゲレオタイプ(銀板写真の一種)により写真術を学ぶことを決心。下田にてハリスの通訳であったヒュースケンより写真術の原理や基本概要を学びました。
その後蓮杖は横浜に出て、文久2(1862)年に野毛、馬車道で写真館を開業し、門人からは著名な写真家を輩出しました。
写真は馬車道通りにある、日本写真の開祖である蓮杖を顕彰するために設けられたもので、当時のカメラをモニュメント化した顕彰碑です。

(所在地:中区弁天通4-67)
 
 
     


吉田橋関門跡と吉田橋
現在は首都高速神奈川1号横羽線が地下を通っており、伊勢佐木町の入口にある吉田橋には、江戸時代には派大岡川が流れており、横浜開港の際に橋が架けられ、外国人居留地との間に関門番所が置かれました。
当初橋は木造で、馬車が通るには難点が多いと、居留地の外国人より苦情が寄せられ、明治2(1869)年にスコットランドより来日していた技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンの手を借りて日本初の無橋脚トラス橋が架けられました。
橋が架けられた当初は、人力車や馬車に橋税(通行料)が課せられたので、鉄」と「金銭」をかけて「かね(鉄)の橋」と呼ばれており、歌川貞秀や三代歌川広重の浮世絵に描かれるに描かれるほどの評判となりました。

(所在地:中区伊勢佐木町1-2)
 
吉田橋たもとの石碑
 
歌川貞秀作の『横浜鉄橋之図』
 
現在の吉田橋
 
     


リチャード・ヘンリー・ブラントンの胸像

慶応4(1868)年に妻子と助手を伴って来日したスコットランド生まれの英国人ブラントンは、技師として滞在していた8年間の間に、江戸条約で建設を約束した和歌山県串本町の樫野崎灯台、三浦半島の観音埼灯台など8か所の条約灯台の他合計26か所の灯台の設計を行い、「日本の灯台の」と讃えられている人で、灯台以外にも電信架設や日本大通りの舗装技術導入による街路の整備、大阪港や新潟港の築港計画にも意見書を提出、横浜公園の設計をするなど日本の近代的な街造りに大きく貢献した人です。

(所在地:中区横浜公園内)
   
     


彼我庭園

関内駅の北側にある横浜公園は、横浜開港当時は遊郭があったところで、火災で遊郭が焼失した後の明治8(1875)年に、ブラントンの設計のもとに造られた公園で、市内にある山手公園に次いで古い西洋式公園で、日本人にも公開されていた公園としては、日本最古のものとなります。
当時、公園は巨領地の外国人と日本人が利用していたことから「彼我公園」と呼ばれていました。
現在は、公園内に横浜スタジアムがあり、春先は「チューリップの咲く公園」としても有名で、この彼我庭園は池泉式の日本庭園となっています。

(所在地:中区日本大通り34 横浜公園内)
   
     
     
        
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