湯島天満宮

旧称を湯島神社といい、湯島天神とも呼ばれているこの神社は、雄略天皇2年(458年)に創建されたと伝えられており、南北朝時代の正平10年(1355年)に住民の請願により菅原道真を勧請して合祀、江戸時代には徳川家の崇敬を受けて多くの学者や文人が訪れ、8代将軍吉宗の時代であった享保期には江戸三富のひとつである富籤の興業が行われたところです。
毎年2月には梅まつりが行われ、併せて受験シーズンとあって多くの学生たちが合格祈願に訪れて賑わっています。
 
   
表鳥居
寛文7年(1677年)に創建されたこの鳥居は神明鳥居といわれる様式で銅で造られており、都の指定有形文化財に指定されています。
左側の柱の台座には明治時代に彫られた几号水準点の標があります。(左の写真)
    
 
     
    
表鳥居から唐門の間は透塀(「透かし塀」ともいいます)が設けられています。  
     
唐門
唐門の門扉には神紋である「加賀梅鉢門」と天神信仰で神徒とされている「牛」が刻まれています。
   
 
     
男坂、女坂、夫婦坂
天満宮への入口は表鳥居、唐門のほかに男坂、女坂、夫婦坂の3ヶ所があります。
上野広小路側から上るのが天神男坂(左)といい、38段の急な石段となっており、切通坂のほうから横道に入って途中に踊り場のあるのが天神女坂(中央)、切通坂から上るのが天神夫婦坂(右)といい、坂の中ほどに登竜門があります。
     
 
     
  車祓い所から見る登竜門  
        
  女坂の石垣にある奉納の印
石垣を構築する際に寄進した人たちの名前と寄進した坪数が刻まれたものがあります。
 
     
   
本殿(正面から全体を撮ろうと思ってもお参りする人が多くやむをえず上部だけとなりました。)   
     
   
      
   
 
        
撫で牛
菅原道真は遺言で、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」としていたようで、牛と切っても切れない縁があるとのことでどこの天神さまに行っても撫で牛が置かれていますが、ここ湯島天神では二体の撫で牛が置かれています。
左の撫で牛は手水舎の右に、右の撫で牛は手水舎の左にあって左の牛より少し小ぶりです。
左の撫で牛は訪れる人が撫でるためか鼻から頭にかけて光っています。
   
 
  泉鏡花の筆塚
この塚は明治から昭和にかけて活躍した作家泉鏡花の筆塚で、作家の久保田万太郎、里見惇らによって昭和17年に建立されたものです。
泉鏡花が明治40年(1907年)に「やまと新聞(現在の東京スポーツの前身)」に連載した「婦系図(おんなけいず)」は一世を風靡した国民的通俗小説のひとつで、ここ湯島天神の境内が舞台となっており、『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。・・・・・私にゃ死ねと云って下さい』という芸者お蔦の
セリフが有名です。
小説はその後新派の舞台の代表作となり、映画でも田中絹代や山田五十鈴、山本富士子などがお蔦役、長谷川一夫、鶴田浩二、市川雷蔵などが主税役となって幾たびが上映され、テレビでも数度にわたって放映されたほどです。
また昭和17年には作詩 佐伯孝夫、作曲 清水保雄で「湯島の白梅」がレコード化されて「湯島通れば想い出すお蔦 主税の 心意気 知るや白梅 ・・・」が街中に流れていました。
 
   
奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)
嘉永3年(1850年)に建てられた「迷子知らせ石標」で、石柱の右側には「たすぬるかた」、左側には「をしふるかた」と刻まれていて、迷子が出たときにその子の名前を書いた紙を「たすぬるかた」に貼り、迷子がいたときにその子の特徴を書いた紙を「おしふるかた」に貼って知らせていました。
この「迷子知らせ石標」は中央区八重洲にある一石橋のたもとにもあります。
   
 
     
新派の碑
男坂の石段を上った左側にあり、新派創立90周年を記念して新橋演舞場脇に建立された碑を、新橋演舞場改築にあたってここ湯島天神に移築したと書かれています。
   
 
     

講談高座発祥の地碑
講談の起源は戦国時代まで遡ることができるようですが、江戸時代初期には町の辻々に立って行う辻講釈や粗末な小屋の中で聴衆と同じ目線の高さで行っていました。
高座は、文化4年(1807年)にこの地で活動していた講談師伊東燕晋が高さ三尺の高座を設けたのが始まりとされており、この碑は平成17年に、人間国宝の講談師一龍齋貞水さんの揮毫による由来書を以て建立されたものです。
    努力の碑
昭和52年(1977年)9月3日に後楽園球場において前人未到となる通算756本目の本塁打を放った王貞治さんの偉業をたたえて建立されたもので、碑の上に見える梅の花は王さんの献木によるものです。
  
 
     
湯島聖天

   
男坂の手前右側にあり、正式には「柳井堂心城院」という天台宗のお寺です。
もともとは湯島天神の別当寺で「宝珠弁財天堂」と称していましたが、元禄7年(1694年)に菅原道真と縁の深い歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安したのが開基とされていいて、江戸三十三観音の第七番札所となっています。
「柳井堂」の名は境内には江戸名水のひとつである「柳の井戸」(写真右端)があることからきているようです。
     

境内の庭園
 
 
       
妻恋神社
湯島天満宮の表鳥居から清水坂を神田明神方向へ歩いてゆくと蔵前通りに出る手前に妻恋坂があります。
この妻恋坂の途中にあるのが妻恋神社です。
妻恋神社の創建年代は不明とのことですが、日本武尊が東征のおり、三浦半島から房総に渡るとき暴風雨に遭い、お妃の音橘姫がミズから海に身を投げて身を鎮め一行を救ったといわれています。その後尊が湯島の地に滞在した際に、郷に住む人たちが尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝えられています。
境内には「妻恋稲荷」が合祀されています。
  
妻恋坂
 
妻恋神社
 
妻恋稲荷
 
 
   
     
     
     
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