五稜郭

日本百名城のひとつである五稜郭は、江戸時代末期の1866年(慶応2年)に蝦夷地の箱館(函館)に築城された稜堡式城郭です。稜堡式城郭は15世紀半ば以降にイタリアで行われ始めた星形要塞で、従来の築城方式が火砲への対応が脆弱であるのに対し多くの稜堡(三角形の突端部)を持ち、それぞれがお互いをカバーするように設計されており死角がないということでヨーロッパでは17世紀後半にかけて多く取れいれられていました。日本ではここ五稜郭のほかに長野県佐久市にある龍岡城(龍岡五稜郭)があります。
城は当時の13代将軍徳川家定の命により洋式軍学者である武田斐三郎が設計を行い築城を開始しましたが、幕府の費用不足もあり設計から大幅に縮小され要塞としての機能が半減した形で築城され、1869年(明治2年)に土方歳三、榎本武揚を中心とする旧幕府軍が占拠した後の函館戦争(五稜郭の戦い)では政府軍の砲撃にさらされ開戦後わずか1週間で無欠開城したとのことです。
城内の箱館奉行所を初めとする建物は1871年(明治4年)にすべて解体され一時期陸軍省の練兵場として使用されていましたが、1914年(大正3年)より公園として一般に公開され、2010年(平成22年)に箱館奉行所が再建されています。
 

五稜郭タワー展望台から見る五稜郭の全景
 
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一の橋
郭内に入るには大手口にあたるこの一の橋と北側にある裏門橋のふたつがあります。
 
   
一の橋を渡ったところが半月堡です。ヨーロッパ式の築城では二重、三重に半月堡を築いて防御に当たっているようですが予算不足でこの一箇所しか築かれなかったようです。  
       
二の橋
半月堡と郭内の間にはお濠がありこの二の橋を渡らなければなりません。
(左が郭内、右が半月堡になります。)
 
 
箱館奉行所
箱館奉行所は18世紀末のアイヌの反乱、ロシアの来航を機に北方警護のため松前藩領内の箱館に1802年(享和2年)に遠国奉行のひとつとして蝦夷奉行をおいたのが始めであり、現在の元町公園付近に奉行所が置かれました。ロシアの脅威が去った1821年(文政4年)には廃止されるも幕末の箱館開港(1855年(安政6年))により翌年元町に再設置され、1864年(元治元年)に五稜郭に移転しています。
奉行所の建物は箱館戦争後に撤去されたままとなっていましたが、函館市が2006年(平成18年)から当時の図面・古写真・文献資料に基づいて復元工事に着手、当時の建物の三分の一の規模で140年の時を経て2010年に完成したものです。
右は奉行所の遺構全体図と復元部分を示した図面です。
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復元に使用された古写真
パリの骨董市で発見された手札サイズの写真の裏には「二条御城」と書かれていましたが調査の結果、1868年(明治元年)頃に撮影された箱館奉行所と判明したもので、復元に際して大きな役割を果たしたようです。
 
   
 
   
太鼓櫓
この太鼓櫓は箱館戦争時において新政府軍の格好の標的となり軍艦からの砲撃にさらされあわてて撤去したとのことですが、射撃角度を正確に知られたため郭内に正確に着弾したとのことです。
復元後時を知らせる太鼓の音をテープで流していましたが、現在は日に数回太鼓をたたいているようです。
 
 
奥の大砲がブラッケリー砲で旧幕府軍が使用していた大砲で、手前の小さい大砲がクルップ砲で新政府軍が軍艦朝陽に載せていたものだといわれています。
 
   
仮牢跡(左)と公事人腰掛跡
仮牢は罪人を一時拘置して置くところで、今でいう留置場のようなもので男牢と女牢に分かれてトイレも設置されていました。
 
   
板蔵
裁判記録や物品保管庫として使用されていました。
 
   
稜堡
中央にある坂は大砲を本塁に運ぶための坂で、郭内にある5箇所の稜堡に設けられています。
 
   
本塁から見る奉行所  
   
近中(近習)長屋跡(右奥)、湯遣所跡(右手前)、徒中番大部屋跡(左奥)、給人長屋跡(左手前)  
   
低塁と本塁の間には空濠があります。  
 
北側の出入り口となる裏門橋  
   
  裏門橋の正面には「見隠塁」があります
この見隠塁は郭内の様子をうかがうことができなくするためのもので、本塁を補助するような形となっています。
 
   

低塁から見る五稜郭タワー
   
 
    
   
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