悲劇の町ゲルニカ
 
サン・セバスチャンから約1時間半でサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のルートのひとつである北の道の途上にある町ゲルニカに到着。ここゲルニカはバスク自治州の町で現在の正式名称は近隣の町と連合したことにより「ゲルニカ・ルモ」となっていますが、単に「ゲルニカ」と呼ばれるほうが多いようです。
このゲルニカを有名にしているのが、ピカソの代表作で戦争の悲劇を描いた「ゲルニカ」です。
1936年7月にスペイン陸軍のフランシスコ・フランコが率いる右派の将軍グループが左派のスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争(スペイン内乱)は政府軍を当時のソヴィエト連邦が、反乱軍をイタリア、ドイツのファシズム陣営が支援することにより混迷を深めてゆき、翌1937年4月26日に反乱軍を支援するドイツ空軍及びイタリア軍の爆撃機がバスク地方攻撃の一環として約3時間にわたって爆弾約200トンを投下更に機銃掃射を加えた世界最初の無差別爆撃が行われ、町の7割以上が被害を受け、市民約3000人が死傷するという惨事が発生しました。
当時ピカソはパリ博覧会の壁画を依頼されていたときであり、この悲劇を知りわずか1ヵ月半で縦約3.5m、横約7.8mの壁画を憤怒をこめて描きあげ博覧会のスペイン館に展示したとのことです。この絵は博覧会後ニューヨークの近代美術館に預けられ、内戦に勝利した独裁者フランコ政権による度々の返還要求にもピカソは「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」と拒否し続け、ピカソの死後1981年にスペインに返還され、現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されています。
    
街中にはゲルニカのタイル画のレプリカが置かれています。
昨年9月ソフィア王妃芸術センターで見た実物同様に迫力があります。
 
        
ゲルニカ駅
この駅はスペイン国鉄の駅ではなく「バスク鉄道」というバスク州保有の鉄道です。(車窓より撮影)
 
街中の市民公園には池や小川があり、ヒナギクが一面に咲いていました。  
   
   
   
ビスカヤ議会
ゲルニカにはビスカヤ県の議会(バスク議事堂)がおかれており、この建物はドイツ軍の空爆のさいに奇跡的にも被害を受けなかったものです。
 
    
   
   
ゲルニカの木
何世紀もの間にわたってビスカヤ人の伝統的な議会は「ゲルニカのオーク(樫)の木」の下で行われており、この木の下で宣誓を行うことにより領主として認められていました。
オークの木はビスカヤ人の自治の象徴で、バスク地方の自治の象徴にもなっていて、代々植え替えられています。
内戦当時のオークの木は2代目でしたが、ビスカヤ議会同様に戦火を逃れたものの2004年に枯れたため、若木に植え替えられましたが病気に罹り、現在の4代目と交代しています。

下の写真は4代目のゲルニカの木と集会場です。
     
  2代目のオーク(石化しているため保護されています。)
 
   
 
   
  
ホール一階のステンドグラス
議事堂ホールの天井一面には自由の象徴であるゲルニカの木の下で誓いをたてるビスカヤの人達の姿を描いたステンドグラスが施されており、その大きさと見事さに圧倒されます。
 
    
議事堂内部
議席はせいぜい50席くらいでしょうかそんなに大きくありません。
 
   
議長席
議長席の後ろにはオークの葉を周りにあしらい中央にゲルニカの木が描かれたビスカヤ県の紋章が描かれたタペストリーが掲げられています。
 
   
議事堂内部の壁面にはビスカヤの街々の歴代の議員の肖像画が掲げられています。  
   
サンタ・マリア教会
15世紀にゴシック様式で建てられた教会で、ドイツ軍の空爆の際に警報代わりに鐘楼の鐘が街に鳴り響いたということです。
 
   

セイヨウシャクナゲ(ツツジ科)

議事堂のタペストリー
  ゲルニカのマップ
 
   
   
    
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