広島城(2015.11.05撮影)
 
日本100名城73番に選定されており、名古屋城、岡山城とともに日本三大平城のひとつである広島城。天正17年(1589年)に毛利輝元によって大阪城を参考にし、築城の名手といわれた黒田如水(官兵衛)参加のもとに築城されたもので、五重の大天守と2つの三重小天守を渡櫓で連結する構造となっており、当時の大阪城に匹敵する規模の城でした。
築城後、関ヶ原の戦いで毛利氏は広島を去り、福島正則が入封するも洪水による被害の修復を徳川幕府に無届改築であると咎められ、信濃に転封となり、以後明治に至るまで浅野氏の居城となりました。
城の各曲輪には本丸23基、二の丸5基、三の丸17基、外郭43基の櫓がありましたが、廃城令でほとんどの櫓が廃却され、
火災により本丸御殿が焼失するも天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代の建物がそのまま残っていました。
その後城内には大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになり、広島大本営が置かれたり、太平洋戦争末期には本土決戦に備えて軍管区司令部が置かれるなど一般人が立ちることが不可能な状態が続き、昭和20年(1945年)8月6日には軍事施設が集中していたことから広島は米軍の原子爆弾の投下目標となり、町は一瞬のうちに焦土と化しました。
天守閣は爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風による衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊とのことです。
現在の天守は、昭和33年(1958年)に広島復興大博覧会が開催された際に復元されたもので、初代天守を忠実に再現するように濠に沈んだ瓦を探したり、市民の協力を仰いて行ったようです。
 
    

左から再建された二の丸の表門橋(橋御門)、表御門、平櫓、多聞櫓そして太鼓櫓
 
      

二の丸太鼓櫓
  
太鼓櫓
 
     

左から平櫓、多門櫓そして太鼓櫓
 
表門橋(橋御門)、表御門、平櫓
 
     

二の丸から見る表御門
 
菊花展
 
     
   
被爆樹木のユーカリの木(左)とマルバヤナギ(右)  
     
  広島大本営跡
明治27年(1894年)に日清戦争が勃発した際にここ本丸内に大本営が設置されました。大本営設置後は明治天皇が戦争式のためこの地に移り戦争指揮を行っており、行宮(仮宮 一時的な宮殿)として用いられ、日清講和条約締結までの227日間指揮を執ったとのことです。大本営としての機能は明治29年まで続けられその後解散しましたが、史跡として残され、広島城の一般開放とともに名所として公開されていました。
建物は原爆の投下によりすべて焼失、現在では、建物の基礎および礎石が残っているだけです。
 
     

天守閣正面
 
小天守跡から見る天守閣
 
     
  旧天守閣の礎石
天守再建にあたって掘り起こし、原形のままこの地に移したものとのこと。
 
     
   
天守閣から見る街並み  
     
   
表門橋、表御門、平櫓   
     
   
本丸で見る天守閣  
     
   
お濠越しに見る天守閣   
     
  広島城天守閣から見る原爆ドーム(中央の丸屋根)
広島県の物産販売を拡大するために建てられた「広島県物産陳列館」は太田川と元安川が合流する近くに大正4年(1915年)に竣工したものですが、太平洋戦争末期には業務を停止して行政機関の事務所となっていました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分17秒に相生橋を目標として原爆が投下され、爆風と熱線により勤務していた職員は全員即死したと推測されています。
建物は全体が押しつぶされるだけの衝撃を受けなかったため被爆建造物として残り、昭和26年(1951年)ごろから「原爆ドーム」と呼ばれるようになり、復興を続ける広島において撤去又は平和のシンボルとして残すべきとの論争が続き、被爆による白血病で亡くなった少女の日記を呼んだ市民たちから保存運動が始まり、昭和41年(1966年)に永久保存が決定しました。
被爆50年にあたる平成7年(1995年)には国の史跡として指定され、翌年にはユネスコの世界遺産に登録され、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて「負の世界遺産」と呼ばれています。
 
   

相生橋から見る原爆ドーム
 
 
 
       

天守閣から見る中央公園
 
 
     
     
     
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