吉田郡山城(2015.11.04撮影)
 
 
広島県安芸高田市にあリ日本100名城72番に選定されている吉田郡山城は、戦国大名毛利元就の居城であったところで、江の川(可愛川)と多治比川にはさまれた吉田盆地の北にある郡山全体に築かれた戦国時代の城としては最大級の城郭跡で、「毛利氏城址 郡山城址」として国の史跡として指定されています。
城の築城時期は定かではありませんが、場内にあり正中2年(1325年)の棟札(建物の建築・修復の際の記録を残すために取り付けられる札)が残る祇園社(現 清神社)より後に築城されたようです。
城の築城当初は砦程度の規模であったようで、郡山全体に城郭が拡がっていったのは元就の晩年である天文年間(1532-1555年)の後半ではとみられており、山頂にある本丸を中心に270以上の郭がおかれ、一段低いところの二の丸、三の丸は元就の居館や重臣たちの館も設けられていたとことで、城下町も形成されていたようです。
広島城が天正19年(1591年)に築城され本拠が移されると家臣や城下の町民も移住したため後詰の城として置かれましたが、島原の乱後には徳川幕府の命により破却処分が行われ、濠や石垣も含めて破却されました。
(右図は安芸高田史跡ガイドブックより)
        
       
 
     
    元就公火葬場跡
大通院谷公園の一角には元亀2年(1571年)に75歳で亡くなった元就公の火葬を行った跡で、石碑の後ろの木は栂の木で、初代の栂の木は高さ10m、幹廻り3mまで成長するも昭和46年に枯れたため、後に植えられたものです。
 
      
   洞春寺跡
元就の3回忌にあたる天正元年(1573年)に孫の輝元により創建された臨済宗の寺ですが、輝元が広島城に移城した際に広島に移転、関ヶ原の戦い後毛利氏が山口に転封されると山口に移転しています。
奥の階段を上ったところに元就公、隆元公や毛利一族の墓所があります。
 
     
元就公の墓
元就公は、明応6年(1497年)に毛利弘元の次男としてここ郡山城にて生まれ、幼少時に父母を亡くしすも20歳の時に有田中井出の戦いで初陣を飾り、以後220戦を超える戦いを行って小さな山城の領主から中国地方全体を支配する大名までのぼりつめ75歳という当時としては異例の長寿を全うしました。
   
 
   
  百万一心の碑
石碑の字は「百」の字の一画を省いて「一日」、「万」の字を書き崩して「一力」と読めるようにしてあり、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」ということから、皆が力を合わせれば何事も成し得るという意味で、本丸石垣の工事が難航した際に人柱に変えて、この文字を刻み込んだ石を埋めたと伝えられており、三矢の教えととともに元就公が一致団結の大切さを教えたとされています。
言い伝えでは、江戸時代に城内の姫の丸で発見された石碑が発見され、その拓本をもとに造られた石碑とのことですが、拓本のもととなった石碑は発見されていません。
 
     
御蔵屋敷跡
西側の勢溜の壇、北側の釣井の壇そして東側の三の丸に通じている郭で、所々に石垣に用いた石が残されています。
     
 
     
   
二の丸跡(右は説明板)  
     
  本丸跡
元就公が拡張した城の本丸は、旧本城の本丸より北に500mほど離れた標高約390mの郡山の頂にあり、6本の尾根のちょうど頂点にあたるところに位置しています。周りにはいくつもの郭が設けられていて、本丸北側には見張り用の櫓台が設けられていました。
 
     
  勢溜(せだまり)の壇跡
本丸の周りにはこの勢溜の壇のほかに、釜屋の壇、釣井の壇、厩の壇、妙寿寺の壇、姫の丸などのた郭群がありました。この勢溜の壇は、大小10段の郭から構成されていて、本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を設けていたようです。
 
     
  尾崎丸の堀切
旧本城との間にある尾崎丸の郭との間に設けられた堀切で、現在は堆積した土砂や枯葉等で埋まっていて深さはそれほどではありませんが、設けられた当初はかなりの深さで防御していたのではないでしょうか。
 
     
  安芸高田の街並み  
     
  清神社
郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所となっていた神社で、神代の代に創建されたとの言伝えがあり、古くは「行宮清神社」「祇園社」「祇園崇道社」と呼ばれていました。
神代の代の創建は記録として残ってはいませんが、境内に植えられていて台風で倒れた杉の木の年輪を調べたところ1200年の樹齢が確認されたとのことであり、また、正中2年(1325年)をはじめとする何枚もの棟札(建物の建築・修築の記録・記念のための札)が残されていることからそれ以前の創立とされています。
 
     
境内の杉の巨木
境内には6本の杉の木が植えられていましたが、平成11年(1999年)にこの地を襲った台風18号によりうち一本が倒壊したとのことです。
   
 
     
三矢の訓の石碑
「一本の矢ははたやすく折れるが束ねた矢は折れない」と「毛利元就の三本の矢の教え」として教科書にも載っていた逸話は古い年代の人なら記憶があると思いますが、元就公が弘治3年(1557年)に息子である毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に書いた「三子教訓状」には、一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくよう諭した文書が残されていますが、教訓状には「三本の矢」の記述はないようです。
石碑は元就公の居館であった御里屋敷があったと伝えられている安芸高田少年の家の敷地内にあり、石碑の揮毫は毛利家第30代当主で、侯爵、衆議院議員であった毛利元道によるものです。
 
 
     
     
     
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