勢堂岱遺跡(2021.10.13撮影)
 
 
  伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡は、秋田県北秋田市にある縄文時代後期前半の遺跡で約4,000年前の環状列石が主体となっているところで、遺跡の広さは約20万㎡あり、このうちの約16万㎡が国の史跡に指定されています。
遺跡は秋田内陸縦貫鉄道の縄文小ケ田駅南側に米代川水系の湯車(ゆぐるま)川が流れている脇の標高40~45mの台地上にあって、1992年(平成4年)に、大館能代空港へのアクセス道路を工事中に発見されたもので、国内唯一となる4つの環状列石が発見されたところです。
 
 
   
  駐車場のそばにはガイダンス施設があり、遺跡から発掘された土偶などが展示されていますが、見学は後にして遺跡そのものの見学を先に行います。
 
 
   
  上の写真で左下から上中央に向かって空港へのアクセス道路建設が進められていましたが、環状列石が発見されたため工事が中断し、湯車川点前の橋桁(下の写真)を残したまま、道路の通る位置を変えて工事が行われました。
 
 
   
   
   
  遺跡内を流れる湯車川、奥には迂回して工事が行われた日本海沿岸東北自動車道(県道大館能代空港西線)が見えます。(緑色の看板は伊勢堂岱インターの案内板)
 
 
 
   


遺跡の周りには、クマが出没するとのことで、クマ除けの電気牧柵が設けられています。
当時の住民たちはクマ対策をどうしていたのでしょうね。
      
 
   
  掘立柱建物跡
 
 
   
  環状列石B
環状列石は、環状石籬(かんじょうせきり)あるいはストーンサークルともいい、石を環状に配置した古代の配石遺構や遺跡で、土坑墓が存在していたと判明しています。この環状列石B左半分が埋戻しされています
環状列石に用いられた石は近くを流れる米代川や長流部川から運ばれたようで、遺跡から出土した土器や骨壺の年代調査から、10世代以上、約200年に亘って作られたことが判明しています。
環状列石は、英語に訳すとStone Circleとなり、最も有名なのはイギリスのストーンヘンジです。(私が行ったフランスのカルナックの巨石遺跡もそのような感じです。)
 
 
   
  環状列石Aは直径が約32mあります。
 
 
   
  直径が約45mある環状列石C
 
 
   
  配石遺構
こちらの配石遺構はお墓の上に置かれていたものなのでしょうか。
  
 
 
  
木の実が成っています。
縄文人たちはどんぐり、クリ、くるみ、トチの実など食用にしていたとのことですので、この実も食べていたのでしょうね。    
 
   
  こちらの環状列石は手前側が入り口のように石が敷き詰められています。
 
 
  ガイダンス施設の伊勢堂岱縄文館に入ってみます。
 
 
   
  内部には伊勢堂岱遺跡や近くの遺跡から出土した土器、土偶などが展示されています。
 
 
 
 


重要文化財に指定されている板状土偶

大きさは高さが18.7cm、幅13.0cm、厚さが3.7cmあります。
 
     
   
   
出土した土偶(上及び下の写真)
 
 
   
      
   
  縄文時代後期の土器、石刀、石棒   
   
   
  右は向陽田D遺跡から出土した縄文時代晩期の大皿、左は漆下遺跡から出土した縄文時代後期の異形台付土器(左)
台付土器は注ぎ口があるるので、水またはお湯を入れて用いたのでしょうか。
 
 
   
  こちらは動物の形をした土製品で、左端は漆下遺跡から出土したものですがどうやらクマのように見えます。中央手前は藤株遺跡から出土したイノシシ型の土製品、その後ろは漆下遺跡から出土したサル型の土製品、その右が二重鳥B遺跡から出土した鳥型土製品などが置かれています。いずれも縄文時代は後期のものです。
 
 
 



装飾品に分類されている縄文時代後期の環状土製品、手前は耳飾りとなっていますが、いずれも漆下遺跡から出土したものです。
 
   

おまけ

昨夜宿泊したホテルが大館市内の中心部で、地図で見ると大館城跡近くにあるので、朝食後に朝の散歩を兼ねて行ってみました。
 
 
 

 



狩野良知・良吉の生家跡

狩野良知は幕末から明治にかけての漢学者で、久保田藩の大館城代家老を務めた後に、内務族権小書記官(内務省の事務担当)を務めました。
秋田市の久保田城跡に造られた都市公園である「千秋公園」の命名として知られています。
良知は開国論者で、安政元年(1854年)に執筆した『三策』は、当時北陸から奥羽を旅していた吉田松陰の目にとまり、のちに萩の松下村塾から出版されています。
息子の亮吉は第一高等学校(旧制一高 現:東大教養学部の前身)長、京都帝国大学(現:京都大学)文化大学初代学長を務めた人です。

生家跡は市のローズガーデンとなっていますが、あいにくと工事中で休園となっていました。
秋田犬会館と望郷のハチ公像

忠犬ハチ公は、渋谷駅の道玄坂改札口を出たところにあるハチ公前広場の像が有名ですが、ハチはここ大館市の出身で、生後間もない大正13年1月14日に、米俵に入れられて飼い主となる東京帝国大学教授の上野英三郎の届けられました。
ハチが上野のもとで過ごし始めて1年足らずの翌年5月に教授が急逝しましたが、亡くなったその日以降親戚のもとに預けられるも、毎日渋谷に向かうというくらい教授を慕い続け、代々木の家に戻されてからは毎日渋谷駅に通い続け、教授が亡くなってから10年近くたった昭和10年(1935年)3月8日に、現在の渋谷ストリームの駐車場付近で死んでいるのが見つかったとのことです。

ここ大館のハチ公像は「望郷のハチ公」と名付けられています。
 
     
   
  桂城橋
橋の下は国道7号線、左は秋田犬会館、橋を渡った右側は大館城址跡の桂城公園です。
 
 
 
桂城とも呼ばれた大館城は、戦国時代の天文時代に築城されたとされる古い城ですが、戊辰戦争の際に南部氏の攻めに対して、大館城代の佐竹義道が自ら火を放ったため全焼し(大館城攻城戦)、堀などの遺構を残すだけとなったようで、この門跡も明確なものではないようです。
 
 
   
  桜櫓館
桂城公園内のそばにあり、大館市が市制を敷く以前に町長を務めた桜庭文蔵の私邸でしたが、たびたび大火に見舞われた大館の町にあって、奇跡的に残った昭和初期の建物で、国の登録有形文化財に指定されています。
 
 
 



上原敏顕彰碑

本名が松本力治の上原敏はここ大館出身の流行歌手で、「妻恋道中」、「裏町人生」などを歌って昭和10年代に一世を風靡した人です。
専修大学の学生時代には野球を楽しみ、東京五大学リーグ戦で投手として活躍し優勝した経験を持っています。
卒業後は普通のサラリーマンとしてわかもと製薬に勤めていましたが、遠縁からレコードの吹込みを勧められポリドールからデビュー、「上海だより」、「妻恋道中」など数多くのヒットを生みましたが、太平洋戦争の昭和17年(1942年)召集令状を受けてニューギニアに戦線に。
報道班員として勧められるも前線の兵たちを励ましながら従軍し、日本軍が敗色濃厚となった昭和19年(1944年)7月ウエクワ方面での戦闘に巻き込まれ消息を絶ちました。
 
     
 
 
 
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