旧東海道神奈川宿  
 
 
   


オランダ領事館跡の碑

京浜急行の神奈川新町駅を降りて少し川崎寄りに歩いたところにある、神奈川通東公園の付近は、浄土真宗の長延寺というお寺があったところです。旧東海道で江戸から3番目の宿場となる神奈川宿、宿場の入口がどのあたりか調べても出てきませんが、長延寺があったこの場所には宿場の入り口に設けられていた枡形(土居)が設けられていたとのことですので、この場所が神奈川宿の東の入口と推測されているようです。
長延寺には日米通商修好条約の締結により、横浜に港が開かれることとなって、各国の領事館が設置されることとなり、安政6(1859)年にオランダ領事館が置かれていました。

長延寺は、天正10(1582)年に創建された歴史あるお寺ですが、太平洋戦争の空襲でほとんどの堂宇を焼失し、仮本堂を設けていましたが、周辺の区画整理もあって、昭和41年に緑区に移転しています。

(所在地:神奈川区新町15-4)
 
 
     


良泉寺

浄土宗大谷派に属する良泉寺、正式には海岸山良泉寺といい、室町時代に本願寺第8世蓮如上人に帰依した宣教房聞海によって、小机付近の旧街道沿いに開基され、慶安元(1648)年に徳川幕府よりこの地を施入されて移転したと伝えられています。
日米修好通商条約締結後によって横浜開港が行われたのちに、外国領事館として寺院が用いられることとなりましたが、これを良しとしない当時の住職が、本堂の屋根を剥がし「修復中である」とし、幕府の命令を断ったといわれています。

(所在地:神奈川区新町9-3)
   
   

笠䅣(かさのぎ)稲荷神社

天慶年間(938~947年)に、稲荷山の中腹に社殿を建立して、伏見稲荷大社のご分霊を勧請して創建されたと伝えられる歴史ある神社です。
鎌倉時代中期に発生した元寇の際には、北条時頼が菊一の銘刀と神鈴を奉納して、国家の安泰を祈願しました。
元禄2(1689)年には山麓に遷座しましたが、社前を通行する者の笠が自然と脱げて地に落ちたことから、「笠脱稲荷大明神」と称されるようになり、後に笠䅣稲荷神社と改称されました。なお、現在の地に遷座したのは明治2(1869)年です。
右の写真の板碑は、稲荷山の中腹に鎌倉時代末期から室町時代にかけて建立され、その後境内に移設されたものですが、身部の上位には阿弥陀如来をあらわす種子「キリーク」を、中位には天蓋を配し、その下位中央には、六字名号「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研彫りで力強く刻まれています。

(所在地:神奈川区東神奈川2-9-1)
   
          


納満寺
正式には海運山満願院能満寺というこのお寺は、正安(1299)元年に、地元の漁師内海光善が、海中より仏像を発見して開基となり、重蓮法印が開山したと伝えられています。
寺は隣接する神明宮の別当寺でしたが、神仏分離令により別れています。
 寺の三門の入口わきには芭蕉の句碑があり、「父母の しきりにこいし 雉子の声」という句が刻まれています。

(所在地:神奈川区東神奈川2-32-1)
   
 
 
   


神明宮

正確な創建時期や由緒は不明ですが、能満寺と同時期に創建されたものと伝えられており、「東神奈川神明宮」とも呼ばれています。
現在市立神奈川小学校がある付近には、上無川という小川が流れていて、これが訛って神奈川となったといわれ、又、カミナシガワのミとシを略してカナガワとなったという説もあり、神奈川宿発祥の地と伝えられています。川は、関東大震災後の復興計画で埋め立てられ、その姿を見ることはできません。

(所在地:神奈川区東神奈川2-34-6)
   
     


東海道分間延絵図
市立神奈川小学校の東北側の塀にあるこの絵図は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、文化3(1806)年に道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図をもとに造られた、神奈川宿の部分のタイル画です。
絵図には、神奈川宿の沿道にある、主な問屋・本陣・脇本陣・寺社などが丹念に描かれ、一里塚・道標・橋・高札なども描かれています。

(所在地:神奈川区東神奈川2-35-1)
 
 
   


神奈川宿高札場

旧東海道沿いにある神奈川地区センターのところに設置されたこの高札場は、当時は瀧の橋の傍にあった神奈川宿本陣の所に設置されていました。
この高札場は、資料を基に復元されたもので、間口約5m、高さ約3.5mあります。
高札場は、江戸時代に幕府が諸法度、掟などを庶民に撤退させるため設けたもので、各宿場に設けられていましたが、明治時代になって情報伝達の手段が整ってくるにしたがい、その姿を消しました。

(所在地:神奈川区神奈川本町7-9)
   
 
     


成仏寺 外国人宣教師宿舎跡の碑

永仁年間(1293~1298)に僧覚心によって開基されたという歴史のある寺、成仏寺は正式には正覚山法雨院成仏寺といい、徳川家康の江戸入府の際に寺領10石を朱印状を拝領し、3代将軍家光が京へ上洛する際には、神奈川御殿が築かれることとなったため、この地に移転しました。
寺は、安政6(1859)年の横浜開港時には、アメリカ人宣教師の宿舎として用いられ、ヘボン式ローマ字で知られる、宣教師で医師でもあったジェームス・カーティス・ヘボン(ヘボン博士)、宣教師のサミュエル・ロビンス・ブラウン、新聞社の通信員として来日し、ニューヨーク・トリビューン紙に記事を配信したフランシス・ホールなどが滞在していました。

(所在地:神奈川区神奈川本町9-3)
   
 
     


慶雲寺

室町時代の永享年間(1390~1440)から文安年間(1441~1447)に、芝増上寺第三世の音誉聖観によって開かれたといわれる慶雲寺、正式には、吉祥山芳艸院慶雲寺といいます。
幕末の横浜開港にあたっては、フランス領事館として用いられていました。
このお寺、Googleマップで調べると、「慶雲寺」ではなく、「浦島寺」で表示されます。
明治時代に浦島太郎伝説のあった観福寺(観福寿寺)が廃寺となったことから、同寺を合祀しいることから別名の「浦島寺」が通称となっているようです。境内には、竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっており、浦島太郎親子のお墓もあります。
寺は、太平洋戦争の際の横浜大空襲の被害を受けて焼失しましたが、その後再建されています。

(所在地:神奈川区神奈川本町18-2)
     
 
     

                             本 堂
 
                          浦島観音堂
 
     


神奈川宿本陣跡

神奈川宿の本陣は、宿場の中を流れていた滝野川(現 滝の川)の両側にあって、瀧ノ橋を挟んで江戸側(中央の写真の左側)には神奈川本陣、京側(中央の写真の右側)には青木本陣が置かれていました。
現在は第一京浜(国道15号線)となっており、上には首都高速神奈川1号横羽線が通っています。
左の写真の説明板は、滝の橋より上流側の青木町10-13にあり、右の写真の碑は、下流側の栄町22に設置されています。
     
 
     


宗興寺 ヘボン施療所跡の碑

正式には開塔山日輪院宗興寺というこのお寺、創建年代は不詳ですが、江戸時代後期に出版されたといわれている伊豆海島風土記には、永享12(1440)年に、神奈川宿開塔山宗興寺から住職を請うて八丈島宗福寺を創建したとあり、当初は本覚寺の末寺となっていました。
横浜開港時には、
ヘボン博士がここで施療所を開設して医療活動を開始、生麦事件の際には負傷者の治療にもあたっており、横浜での近代医学の歴史が始まったといわれています。

(所在地:神奈川区青木町10-4)
   
 
     


神奈川の大井戸

宗興寺の傍にあるこの井戸は、江戸時代においては東海道中で、その名が知られていた井戸のひとつで、当時宗興寺「大井戸寺」と呼ぶほどであったとのことです。
江戸時代の初期には
神奈川御殿を訪れた将軍のお茶の水として用いられたと伝えられており、宣教師宿舎に滞在していたヘボン博士もよく利用していたとのことです。
また、水の増減で翌日のお天気を知ることができ
たことから、「お天気井戸」とも呼ばれていました。

(所在地:神奈川区幸ケ谷10-3)
   

浄瀧寺

文応元(1260)年に創建されたお寺で、戦国時代より幾たびか戦火で焼失していましたが、江戸時代において神奈川宿の青木本陣鈴木家より土地の寄進を受けてこの地に移転したとのことであり、横浜開港時には、境内にイギリス領事館が置かれていました。

(所在地:神奈川区幸ケ谷17-6)
 
 
     


神奈川台場跡

横浜開港当時に設けられた神奈川台場は、江戸湾(東京湾)に侵攻してきた船舶に対する防衛を目的として築造されたもので、勝海舟の設計に基づき伊予松山藩が、7万両の費用と1年の工期で、万延元(1860)年築造した台場です。完成した当初は総面積2万6千㎡(約8000坪)で、海に突き出た扇形となっていました。
台場は明治32(1899)年に廃止されるまで、礼砲や祝砲の発射施設として用いられていました。
台場はその後大正時代半ばから、埋め立てが行われ、現在は、その石垣部分が残るだけとなりましたが、写真の星野町公園や台場公園にその面影を見ることができます。

(所在地:神奈川区幸ケ谷17-6)
   
 
     
   
築造当時の台場図   台場公園そばの石垣   船溜まりに残る石垣
 
     


高島線の遺構

東高島駅近くの運河に架かる廃線橋梁で、東神奈川と東高島を結んだ横浜線の貨物支線で、生糸の輸送を目的として設立されるなど貨物輸送が行われていましたが、貨物輸送の減少に伴い、昭和34(1959)年に廃線となり、その遺構が残されています。

(所在地:神奈川区星野町)
   
 
     


洲崎大神

源頼朝が、安房国(現 千葉県)一宮にある安房神社の分霊を移して、建久2(1191)年(1191)創建したと伝えられている神社で、江戸名所図会では、鳥居傍から海に向かって参道があり、現在第一京浜がある辺りが船着場となっていたとのことです。
この神社では、明治天皇が東京入城の際、神奈川本陣に御宿泊の折り、内侍所奉安殿を造営したこともあって境内にその石碑も残されています。

(所在地:神奈川区青木町5-29)
   
 
     


普門寺

洲崎大神の別当寺であったといわれる普門寺は、文治3(1187)年の創建といわれており、山号の洲崎山はこれからつけられたとのことです。
寺は関東大震災で焼失してその後建てられていますが、幕末の横浜開港時には、イギリス士官の宿舎に充てられていました。

(所在地:神奈川区青木町3-18)
   

甚行寺

明暦2(1656)年の創建とされる真色山甚行寺、横浜開港時には、土蔵造りであった本堂を改造し、フランス公使館として用いられていました。
寺は関東大震災、そして横浜大空襲と2度の被害を受けており、昭和46(1971)年にコンクリート造りで再建されています。

(所在地:神奈川区青木町3-9)
 
 
     


本覺寺

第二京浜国道にある青木橋傍の高台にあって、横浜の街並みを見渡すことができるところにある青木山本覺寺、鎌倉時代の嘉禄2(1226)年に創建された臨済宗のお寺でした。
寺に隣接して権現山城や青木城が造られていましたが、戦国時代の永正7(1510)年においては、権現山の戦いで荒廃し、享禄5(1532)年に曹洞宗の寺として再興されました。
幕末の日米修好通商条約締結により神奈川開港が決められましたが、諸外国の公使たちは金画での開港を求めたのに対し、幕府は松代藩士の佐久間象山、外国奉行の岩瀬肥後守忠震らの意見により東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け、対岸の横浜村に開港場を新設することを決定、諸外国は神奈川宿周辺に領事館をおきました。開港後は居留地での交易が活発化して、諸外国も横浜開港を受け入れたとのことであります。
寺の三門脇には横浜開港を推した岩瀬肥後守の顕彰碑とレリーフ像が置かれています。
また、寺の場所が高台にあり、横浜港を一望できることから初代アメリカ公使のハリスがここをアメリカ領事館に定めたといわれています。

(所在地:神奈川区高島台1-2)
   
 
   

                   岩瀬肥後守の顕彰碑とレリーフ像
 
                             本 堂
 
                                       


神奈川台関門跡

横浜駅西口の鶴屋町3丁目交差点の北側にある上台橋から川崎方向に坂を上ると、Y字型交差点があります。その角にあるのがこの神奈川台関門跡の碑です。
神奈川台関門は神奈川宿の京側にあって、横浜開港後、開国に反対する浪士たちによる外国人への殺傷事件が相次いだことから、安政6(1859)年に幕府が設けたもので、明治4(1871)年に他の関門や番所とともに廃止されました。
かつてこの付近は東京湾を見ることのできる高台となっており、現在は、高層ビルが建ち並んで東京湾を見ることはできませんが、歌川広重が描いた「東海道五十三次之内神奈川台之景」も、この付近から描いたといわれるほどの景勝地であったといわています。

(所在地:神奈川区台町3-1)
   
 
        
   
        
     
        
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