キウス周堤墓群(2022.06.21撮影)
 
 
キウス周堤墓群は、千歳市にある縄文時代後期(約3200年前)の集団墓のことをいい、全部で8基の墓がありますが、その大きさは日本最大の集団墓となっています。
周堤墓は、地面に大きな穴を掘って(竪穴)、その土を周囲に盛って土手を作り(周堤)、竪穴内や周堤に1基から数十基の墓を設けたものです。
周堤墓は大部分が恵庭市、千歳市、苫小牧市の石狩亭地帯に集中して造られており、一部が道東と芦別市に見られるとのことです。

周堤墓の大きさは直径が10から30mが一般的ですが、ここでは50mを超える大規模な周堤墓が群集していますが、残念なことに周堤墓として現認される以前の1890年(明治23年)に由仁街道(現在の国道337号線)が開通して一部の周堤墓が分断されています。

「キウス」とは、アイヌ語の「キ・ウシ(かや・たくさんあるところ)」からきており、遺跡の周りには沼がたくさんあって茅がたくさん生えていたことからそう呼ばれていたとのこと。
 
     
 
   
  周堤墓の位置関係
 
 
   
  2号周堤墓
超広角のレンズで撮影しましたが、中央部分が盛り上がっているのが周辺の高さと関係と判別できる程度となりました。ロープが張ってあってこれ以上近寄れませんが、中央には窪みがあって底面と周堤上部では5mほど高差があるようです。
 
 
   
  1号周堤墓のそばには台が設けられていて内側が見えるようにしたようですが、その台の高さが中途半端で内部を見ることができません。もう少し考えてくれるといいんでけどね・・・・・
 
 
   
  国道337号線により中央部で分断された4号周堤墓
外径は79m、内径が43m、周堤の幅が18.5m、周堤の高さは1.5mあって最大規模のものです。
  
 
 
(千歳市埋蔵文化財センターの広報資料より抜粋)
 
 
   
     
   
  1号周堤墓のそばには巨大な切り株があります。
埋蔵センターに何でこれが残っているのか調べ頂いたところ、平成30年に台風21号の被害を受けて倒れてしまった風倒木とのことで、そのままここに残してるのは、風倒木や木の根っこにより遺跡が破壊されてしまう可能性があることや、これを防ぐには計画的に遺跡地内の木を伐採するなどして遺跡を保護することが必要であることを理解してもらうためであるとのことでした。
 
 
   
  千歳市埋蔵文化財センター
キウス周堤墓群のガイダンスセンターで、遺跡だけでなく千歳の歴史について展示、解説されています。
 
 
 



「千歳」の地名の由来説明板

説明板によると千歳は、かつて「シコツ」、秋になると鮭が遡上する千歳川は「シコツベツ」、千歳川の源流である支笏湖は「シコツトー」とアイヌ語で呼ばれいたとのこと。
そのほか、語源等について記載されています。
 
 
   
  北海道の歴史のうち7世紀ごろから13世紀にかけて、栄えた時代を擦文時代(さつもんじだい)と呼んでいたとのことで、その時代の説明と擦文式土器等について展示されています。
 
 
   
  縄文時代の土器の変化が前期から晩期に分けて展示説明されています。
 
 
 
動物型土製品
近くにある美々貝塚遺跡から出土した頭・首・胴と四肢が表現されている中空の土製品で、大きさは全長が約31cmあります。水鳥やムササビ、アザラシなどの海獣にもたとえられる不思議な形をしているので土製品と呼ばれているようです。
 

 
   


市内で発見された約350年前に作られたと推定されている丸木舟。
敷かれている石は約6,000年前の美々貝塚北遺跡から発見された漁網の錘に使われていた石の破片。

 



4号墓から発見された石柱

長さが62cmあるこの石柱は4号墓の中心に埋設されていたもので、直立した状態で埋まっていたことから墓標と推定されています。
 
   
  貝塚の断面
美々貝塚北遺跡で発見された貝塚の断面で、シジミの貝殻や鹿の骨などがあります。
 
 
   
  1号周堤墓より発掘された土器
 
 
     
     
     
     
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