津宿(2020.10.14撮影)
 
江戸時代において、東海道五十三次の52番目の宿場、中山道六十九次の68番目の宿場として合流するところにあり、江戸時代の末期となった天保14年には本陣2軒、脇本陣2軒があり、旅籠72軒、宿内の家数が586軒、人口約2,300人であったと『東海道宿村大概帳』に記されています。
宿内には現存する本陣の中でも最大級といわれる「田中七左衛門本陣」があり、国の史跡に指定されています。
 
 
 
  
 
  草津駅の東口出て宿場内を歩きます。
 
 
 
 


大路井(おちのい)道標

県道下笠大路井線(143号線)と中山道が交差するところにある覚禅寺の門前にありますが、これは明治19年(1886年)に旧草津川隧道の完成によって移設されたとのことです。
 
所在地:草津市大路1-15
      
   


江戸口見附 横町道標
旧草津川の堤防の途中にあり、火袋付石造の道標となっていています。
火袋がついていますので常夜燈として用いられていました。
 
所在地:草津市草津1-15-23
      
 
   
  追分道標
追分とは道が二つに分かれる場所のことをいい、各地に残っていますが、ここの追分は道標にあるように「右 東海道いせ道」と「左 中仙道(中山道)美のぢ」となる場所でした。
道標は文化13年(1816年)に設けられたもので火袋付きとなっており、常夜燈も兼ねていました。
 

所在地:草津市草津1-3
 
 
  DSC04503.jpg  
  草津川隧道(通称 草津マンポ)
旧草津川は、江戸時代の末期から明治19年(1886年)までの間に、多量の土砂流出と堤防の積み上げにより短い期間に一気に天井川となったと推測されていて、この隧道ができたのは明治19年の3月でした。
現在旧草津川は埋め立てられ、草津川跡地公園となっています。
 

所在地:草津市大路1-19
 
 
   
 
隧道の壁には当時をしのばせる絵が描かれています。
上の絵は茶店の風景を描いており、下の絵は大名行列を描いています。
(車が通るので排気ガスで少し汚れているのが少し残念です。)
 
 
   
     
 
 


高札場跡

隧道のあるところは追分ですので高札場が設けられ、東海道を往く旅人、中山道を往く旅人もお触れ(御布令」あるいは御触書」とも書きます。)を読むことができました。

所在地:草津市草津1-3-14
      
 


堯考法師の歌碑
 
『近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何処(いずこ)ともなき』と刻まれているこの歌碑は、 『覧富士記』に収められている歌で、室町時代の歌人堯考(ぎょうこう)法師の作といわれています。
歌の意味は
「将軍(足利幕府六代将軍義教)のお供をして富士を見に行く途中、秋の近江路草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに、心寂しい思いをするものだよ。」とのことです。


所在地:草津市草津1-4-33
      
 


書状箱

明治4年(1817年)に郵便が創業した当時に用いられていた郵便ポストの複製です。
古い街を歩いているとよく見かけますが、現役の郵便ポストです。


所在地:草津市草津1-4-33
      
 
 



草津宿本陣

本陣は江戸時代において、街道筋に、大名や旗本、幕府役人、勅使や宮、門跡などが宿泊するするところとして指定されたところで、原則的に一般のものは泊まることができず、旅籠(宿屋)とは別となっており土地の名主や宿役人の家などが本陣となっていました。
制度化されたのは、三代将軍徳川家光の時代に始まった参勤交代からでした。
五街道や脇往還の宿場町に本陣は置かれましたが、明治時代になって参勤交代の制度がなくなったことにより、その多くが取り壊され、現在残っている本陣は全国でも20軒ほどしかありません。
ここ草津宿の本陣は、2軒あった本陣の内の1軒で、「田中七左衛門本陣」とも呼ばれており、現存する本陣の中では最大級のものであり、国の史跡に指定されています。
この本陣には忠臣蔵で知られる浅野内匠頭と吉良上野介が9日違いで宿泊したこともあり、14代将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮が立ち寄り食事をしています。
現在は一般公開されていますので、中に入り見学してみました。


所在地:草津市草津1-2-8
 
 
 
   
     
   
   
   
  畳廊下
上段(写真奥)に通じる廊下で、本来は襖があり、利用人数が多い時は部屋として用いられていました。
 
 
   
  上段の間
本陣内でいちばん格式の高い部屋で、主客が休泊する部屋です。中央にあるのは「置畳」と呼ばれる二畳分の畳が置かれており、部屋の内装は他の部屋に比べて豪華な構えとなっていて、床の間・違い棚・書院そして格天井があります。
 
 
   
  台所土間
竈(かまど)は五連式となっていて、大勢の宿泊に対応できるようになっていました。一番大きいお釜2つでで30人分の食事の準備ができたそうです。
 
 
   
  田中九蔵本陣跡
この本陣では、薩摩藩士島津忠剛の長女として生まれ、藩主島津斉彬の養女となって、13代将軍徳川家定に嫁いだ篤姫や14代将軍徳川家茂が泊まっています。
 
所在地:草津市草津2-8-25
 
 
   
  脇本陣仙台屋茂八跡
 
所在地:草津市草津2-7-29
 
 
   
  京方見附(黒門)跡
草津宿の京方の入口とるところで、草津川沿いに黒門が設けられていて見附と同様な機能を持っていたようですが、規模や形状等を表すものが残っていないようです。
 
所在地:草津市草津4-4-13

 
 
 
 
 
  矢倉道標と矢倉立馬
道標は、寛政10年(1798年)に建てられたもので、上には「右やばせ道」、下には「これより廿五丁大津へ船わたし」と刻まれています。
この道標のあるところはかつて東海道と矢橋街道の分岐点であったところで、「右やばせ道」とあるのは旅人を旅人を矢橋の渡し場へと道案内するものでした。
当時、旅人はこのまま東海道を歩いて瀬田の唐橋を経て大津に行くか、やばせ道を行って矢橋の渡しで琵琶湖を渡って行くか思案したとのことです。
よくことわざで、「急がば回れ」という言葉を聞きますが、近道だからといって矢橋の渡しまで行って風待ち屋、波があれて舟が出なて時のことを考えると、回り道ではあるが瀬田の唐橋を行った方が良いとのことで使われだした言葉のようです。
「立場(たてば)」とは街道に設けられた茶店などで、旅人が杖を建てて休んだことからついた名です。
  
所在地:草津市矢倉2-2-1

 
 
 
 
野路一里塚
南草津駅にほど近い上北池公園にある一里塚跡の碑で、野路一里塚は江戸から119番目となる一里塚でした。
 
所在地:草津市野路6-5-13
 
   
   
  野路玉川古跡の碑
野路の玉川は「諸国六玉川」の一つといわれ、萩の名所であったことから「萩の玉川」とも呼ばれて平安・鎌倉時代には和歌にしばし登場していました。
少し見にくい写真となりましたが、描かれている浮世絵は、玉川の清流と咲き乱れる萩に、源俊頼と思われる人物二人の従者が描かれており、俊頼が詠み『千載和歌集』に所収されている「あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる浪に月宿りけり」の和かが絵の左肩に刻まれています。
 
 
 
 
 
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