京都御苑 その1

京都市の中心部にある京都御苑は、東西約700m、南北約1300mと広大な国民公園で、公園内には、京都御所、仙洞御所、京都大宮御所をはじめ宮内庁のや皇宮警察の施設、さらには公家屋敷の遺構やグランドやテニスコートなどもあり、市民の憩いの場となっているところです。
御苑のあるところは、江戸時代には200近くの公家の屋敷があったところでその歴史は織田信長の時代まで遡るようですが、明治時代になって天皇が東京に移ってからは、華族も東京に移り住んだことから荒廃しはじめ、御所の保存のため火除け地として空き家となった公家の屋敷を整備したことが、御苑の始まりといわれています。
 
  
 
   
   
今出川御門
京都御苑の北側を通る今出川通りに面してある門で、北側では唯一の門です。
  中立売(なかだちうり)御門
烏丸通りにある3か所の門のうちの一つで、北側にあります。
 
        
 



蛤御門

烏丸通りにある3か所の門のうち、中央にある御門で、この御門の所では、幕末の元治元年(1864年)に、御所の警備にあたっていた会津藩・薩摩藩の藩兵と、京都から追放されていた長州藩の藩兵の間で武力衝突が発生した発生した禁門の変(「蛤御門の変」あるいは「元治の変」とも呼ばれています。)が起きたところです。
御門の柱や扉には当時の激戦の様子を物語る鉄砲の弾痕が残されています。
 
 
   




堺町御門

丸太町通りに面している御門では、幕末の文久3年(1863年)の8月18日に、後に「八月十八日の政変(この政変は「堺町御門の変」または「文久の政変とも呼ばれています。」と呼ばれる、孝明天皇、中川宮朝彦親王および公武合体派の公家、会津藩と薩摩藩が武力をもって、長州藩の計画した攘夷親征計画に対抗する目的で、三条実美ら破約攘夷派の公家および長州藩を京都から追放する政変が発生しました。
 
   




閑院宮邸跡

閑院宮は、江戸時代において伏見宮、有栖川宮、桂宮とともに四世襲親王家の一つで宝永7年(1710年)に創設され、後桃園天皇の急逝により、第二代当主典仁親王の第六王子の祐宮が光格天皇として即位しています。
宮邸は明治時代に入って宮家東京に移転した後は、家庭裁判所や華族会館として利用されたとのことですが、建物はほぼ完全な形で残り、江戸時代の面影を残す唯一の公家住宅となっており、一般に開放された庭園を見ることができます。
 
   




厳島神社

堺町御門を入ってすぐ西側にあるこの神社、九条池の中島に鎮座していることから「池の弁天さん」と京都の人たちに呼ばれる神社で、創建時期は不明ですが、宗像三女神(市杵島姫命[イチキシマヒメ]、田心姫命[タキリビメ]、湍津姫命[タギツヒメ])が主祭神で、平清盛の母といわれる祇園女御(ぎおんにょご)を配祀しています。
神社は江戸時代に五摂家の一つである九条家の邸宅内に組み込まれましたが、明治時代になって九条家が東京移転後もそのままこの地に残されています。
社の前にある石鳥居は、笠木と島木が唐破風形式で造られていることから「唐破風鳥居」と呼ばれ、「京都三鳥居」または「京都三珍鳥居」の一つとなっています。
なお、「京都三鳥居」はこの鳥居の他に、北野天満宮境内にある伴氏社(ともうじしゃ)の石造鳥居、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の三柱鳥居です。

 
 
 
九条池
正面の建物は、拾翠亭(しゅうすいてい)という茶室で、九条家の庭園内にあったもので、江戸時代後期の200年前に建てられたものです。
九条池と厳島神社

 
 
   
 



清水谷家の椋(むく)の木

京都御所の西南、築地塀のそばにあるこの大きな椋の木は、樹齢が300年を超すといわれる老木で、江戸時代には西園寺家の一門であった清水谷家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
この木のそばでは、禁門の変の際に長州藩士で遊撃隊の総督であった木島又兵衛が討死したと伝えられています。
 
       
 



車返桜

中立売御門を入ッたところにあるこの桜は、サトザクラの一種で「御所御車返し(ごしょみくるまがえし)」という名で、後水尾天皇が牛車で外出されたとき、この桜があまりにも美しかったので、車を返すように命令され鑑賞されたことから、この名がついたといわれています。
 
 
       




仙洞御所(せんとうごしょ)

仙洞御所は、譲位した天皇(上皇・法王)のごしょで、もともと仙洞とは仙人の住み処のことをいい、そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われていました。
仙道御所は後水尾上皇のために寛永4年(1627年)に造営されたもので、桜町殿と名付けられていました。御所内の建物は嘉永7年(1854年)に発生した火災のため焼失し、再建が行われなかったため庭園が残っているだけとなっています。
御所の参観は、事前の申し込みか当日空きがあればできるとのことで、出かける前にインターネットで予約し参観することに。
但し、参観はツアー形式で、説明員のあとに続いて参観することとなり、参観者の後尾には常に警備員がついていて、道を外れたり写真を撮って少し遅れると注意されます。(できればゆっくり写真撮りたいんですけどね・・・・)
 
 
 
御所の正門(左)と北門(右)  ※ 参観の入り口は北門からのみです。  
   
 
大宮御所の車寄せ(左)と御常御殿(右)
大宮御所は、皇太后(大宮)の御所(女院御所)のことをさしており、「京都大宮御所」とも呼ばれています。
 
   
 



六枚橋と阿古瀬淵(あこせがふち)

庭園に入ると六枚橋と名付けられた切石を6枚並べて設けられた橋があり、その横には北池(左の写真では橋の左側)と阿古瀬淵があります。
この阿古瀬淵の名は紀貫之の幼名「阿古久曽」に因んで名付けられているとのことで、六枚橋を渡ってすぐ左の小高いところには紀貫之の邸宅跡を示す石碑(右の写真)があります。
 
 
 

北池

紅葉橋
 
   




洲浜

南池の西側の淵は「洲浜(すはま)」と名付けられており、一升石と呼ばれる長円形の平たい小石が敷きつめられています。この石は、小田原の領地にある海岸にて、石一つにつき米一升を与えて集めさせたというもので、その数は約11万個にもなるとのことです。
 
   

南池(中央に見えるのは葭島)

南島(奥には藤棚のある八ツ橋と中島が見えます。)
 
   
 



八つ橋には藤棚があり、藤の花芽が伸びだしています。もう1か月もすると藤の花が見頃になるのでしょう。
 
 
   
 
醒花亭

御所の最南端にある杮葺きの茶亭で南池に面して設けられており、その名の「醒花(せいか)」は中国の詩人李白の詩からきているとのことで、入側の鴨居には中国明の時代の文徴明の筆である扁額がありますが、写真を撮ろうしても警備員に「遅れているから急げ」と言われ、外観のみの撮影となりました。
柿本社

万葉の歌人、柿本人麻呂を祀っており、御所内で火災が多く発生したことから、江戸時代に零元(れいげん)上皇が、「人麻呂(火止ろ、ヒトマル)」の縁起で勧請したといわれています。
 
 
 
   
 



又新(ゆうしん)亭

又新亭は、北池の西側に建てられている茶室で、近衛家の茶室として建てられましたが、近衛家が明治17年(1884年)に東京に移転する際、この地に移設されています。
 
 
   
ツアー開始前に説明員が中を回るのは約1時間といってスタートしましたが、実際には40分足らず。もう少しゆっくり見せてくれるといいんですけどね。  
   
   
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