京都街歩き  その3
 
 
 
 
阿国歌舞伎発祥の地碑(左)と出雲の阿国像(右)
阿国歌舞伎発祥の地碑は、四条大橋の近くの鴨河原において慶長8年(1603年)に、出雲出身の阿国が初めてかぶき踊りを披露したと伝えられており、昭和28年(1953年)に、歌舞伎発祥350年を記念してKyoto南沢機に設けられたものです。
右の写真の出雲の阿国像は、四条大橋の脇に置かれています。

 
   
 



四条大橋

五条大橋の上流にある四条大橋、三条大橋、五条大橋とともに鴨川に架かる代表的な橋ですが、三条と五条が街道筋にあることから、幕府が管理を行っていましたが、四条大橋は町の人たちの努力によって架橋、整備されていました。
最初の橋は康治元年(1142年)に架けられ、明治初期に京都で初めての鉄橋に架け替えられています。
その後明治末期に鉄筋コンクリート製のアーチ橋となり、昭和17年(1942年)に現在の形の鋼連続桁橋に改築されました。
橋の高欄には金属製の丸いものがところどころに埋め込まれていますが、何かなと思い市役所に確認したところ、これは昭和40年の改修時に、ボルト隠しとして、一般公募からのデザインを一部変更して設けられたもので、御所車をかたどった金メッキが施された青銅鋳物です。
 
      
 
   
     
     
  花の回廊の碑
三条大橋の東詰めにある碑で、鴨川河畔の整備事業完成を記念して設けられたものです。
碑の右横には堀井由紀子が詠んだ「我が心きよめ流るる鴨川は優しき母のまなざしに似て」の歌碑があり、左側にも句碑がありますが、刻まれた字がかすれだしていて判読できません。
 
 
  三条大橋
三条大橋が最初に鴨川に架けられたのは室町時代といわれ、江戸時代に入ってからは、東海道五十三次の京側の出発点であったので、橋の管理は幕府が行う「公儀橋」として定められていました。
四条大橋と五条大橋の高欄がコンクリート製となっていますが、ここ三条大橋は木製のままです。親柱に設けられている擬宝珠には天正18年(1573年)に改修を行った際の碑文が刻まれており、その年号と秀吉に命ぜられて改修を行った増田右衛門尉長盛の名があります。
なお、鴨川にかかる橋と川岸の構造物は、2019年に「賀茂川・賀茂川河川構造物群」として、土木学会選奨土木遺産として認定されています。
 
 
 
  
 
 
   
  橋の高欄(手すり)はかなり古くなってきています。そろそろ換え時なのでしょうか。でも新しいピカピカの高欄になると風情も違ってくるので難しいんでしょうね、
下の写真は河原から撮影(碑は令和元年(2019年)に土木遺産に認定されたことを示す碑です。)

 
 
   
   
 
 
高山彦九郎正之像と歌碑
三条大橋の東詰めにあるこの像は、江戸時代末期の尊王思想家であった高山彦九郎の像で、18歳で家を出て各地を遊歴して勤皇論を説き、大槻玄沢、林子平、上杉鷹山など多くの人と交友を持ち、閑院宮への尊号贈与に関する事件(「尊号一件」共「尊号事件」とも呼ばれています。)に遭遇したことから、時の老中松平定信の警戒を呼び、その後も各地を歩くも捕縛され、寛政5年(1793年)に自刃しています。
その思想は、吉田松陰をはじめとする幕末の志士たちに大きな影響を与えた人物です。
右の写真の碑は、愛国百人一首に撰されている高山彦九郎が詠んだ詩で『我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ』と刻まれています。
この像は、皇居を遥拝している像とのことですが、そのポーズが土下座していると誤認されて、「土下座像」とか「ドゲザ」と通称されているとのことです。
 
所在地:中京区土手町通竹屋町上ル東入
 
 
 
   


駅伝発祥の地碑とモニュメント

三条大橋の東詰め北側にあるこの碑は、東京奠都50周年を記念して開かれた大博覧会の企画の一つとして、大正6年(1917年)に、ここ三条大橋を出発地点とし、東京は上野公園の不忍池の博覧会会場まで、516kmを23区間に分けて、関西と関東のチームに分かれて、「東海道駅伝徒歩競走」として3日間競い合った大会が開かれた、現在の駅伝の元祖ともいわれている競技です。


所在地:中京区土手町通竹屋町上ル東入
 
 
 
      
夏目漱石の句碑

御池大橋そばにある句碑には、大正4年(1915年)に京都を訪れた際に、祇園の茶屋「大友」の女将多佳女と交友を持ちましたが、その後若干の行き違いが生じたため、木屋町の宿から彼女宛に送った句です。
碑には前文の「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに」とあり、続いて「春の川を 隔てゝ 男女哉」と句が刻まれています。

 
   


舎密局跡

「舎密(せいみ)」とはオランダ語のシェミー(Chemie)の訳語で化学のことをいいます。
大政奉還により東京遷都が行われたことにより、沈滞し始めた京都の産業を振興する目的で、この地に舎密局(理化学研究所)が明治6年(1873年)に造られたところです。
ここでは、大阪舎密局で学んだ明石博高達によって陶磁器、織物染色などの改良実験や、わが国初となる石鹸の製造、ガラスや七宝そして工業化学などの研究が行われ、島津製作所の創業者である島津源蔵ら多くの人材が育てられました。
舎密局は明治14年(1881年)に廃止され、銅駝小学校が移転してきており、現在は市立銅駝美術工芸高校となっています。

所在地:中京区鉾田町542
     
   


木戸孝允邸宅跡

幕末の倒幕の志士であった旧姓桂小五郎が、近衛家の下屋敷を譲り受けて、別邸として利用していたもので、大腸がんで療養中のところ、明治天皇の見舞いを受けた明治10年(1877年)5月26日に43歳で亡くなっています。

所在地:中京区末丸町284-3
     
 
   
  達磨堂

木戸孝允の息子さんである忠太郎氏が木戸邸の改修に併せて新築したコレクションルームで、生涯にわたってコレクションした達磨数万点が展示されているとのことです。

所在地:中京区末丸町
 
 
   
     
 
 


高瀬川一之舟入(上の写真)と角倉了以の顕彰碑(右)

高瀬川は、江戸時代の初期の慶長16年(1611年)に豪商角倉了以と素庵親子によって開削された物流用の運河で、京都から伏見に至る全長9.7kmの間を結んで開削から大正9年(1920年)まで約300年間利用されていました。
川の水深は、数十cmと浅いため、物流のための船は底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる川船が用いられていました。
荷揚げや荷降ろしそして船の方向転換のために、「舟入」と呼んだ入り江が各所に設けられていましたが、現在残っているのは国の史跡として指定されている上の写真の一之舟入だけとなっています。
また、森鴎外が大正5年(1916年)に発表した短編小説『高瀬舟』は、遠島を申し渡された罪人が高瀬舟でこの高瀬川と高瀬舟大坂に護送される時のことを描いています。
 
 
     
 
高瀬川
 
 
 
桂小五郎像

この地はかつて長州藩の屋敷があったところで、京都ホテルの前に置かれています。
 
 
  伊藤博文像

京都ホテル前にある銅像で、京都ホテルの創業者である前田又吉と親交があったのことでここに置かれているとのことです。
 
   
  御池通り
 
 
 
   


池田屋騒動址の碑

幕末の元治元年(1864年)6月5日に、三条木屋町にある旅籠の池田屋に潜伏していた長州藩士や土佐藩士などの尊王攘夷派の志士たちを、新撰組が襲撃した事件で、「池田屋事変、池田屋事件とも呼ばれている騒動の址です。
事件は、池田屋で謀議中の志士たちを、近藤勇、沖田総司をはじめとする新撰組の隊士達が襲撃したことからはじまり、9名の志士たちはその場で討ち取られ、市中での掃討もあり、最終的には尊王攘夷派で12名の死者、新撰組側も会津藩、彦根藩などから11名の死者が出る大騒動であったようです。
この騒動がきっかけで、新撰組の名は天下に響き渡り、長州藩はその後蛤御門の変を引き起こすています。

所在地中京区中島町
      
 
     
     
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