桜満開の松江城(2014.4.6撮影)

日本100名城、日本三大湖城のひとつである松江城(別名:千鳥城)は、宍道湖の近くを流れる京橋川と堀川を濠として有効に使えるこの地に関ヶ原の戦いで戦功をあげた堀尾忠氏が慶長5年(1600年)に松江藩を立藩、慶長12年(1607年)にこの地に築城を開始し慶長16年(1611年)冬に落成しました。
しかしながら堀尾氏は嗣子なく寛永10年(1633年)に3代で改易となり、翌年若狭小浜藩から京極氏が入封して三の丸を三の丸を造営して松江城の全容が完成。この京極氏も嗣子なく寛永14年(1637年)に改易となり以後松平氏が信濃松本藩より入封して明治まで治藩しました。
明治の廃城令により天守以外の建造物は民間に払い下げられて撤去され、天守も売却される予定でしたが元藩士等の努力により保存されることとなり、現在までその勇姿をとどめることができました。

天守は現存12天守のひとつであり、国の重要文化財に指定されています。また、日本のさくら名所100選、都市景観100選などにも選定されています。
    
  
 
        
  内濠と千鳥橋(御廊下橋)
内濠は市内を流れる堀川を利用して造られたもので、千鳥橋は城の南側の入口となる橋で江戸時代は屋根付の橋であったとのこと。(平成6年架け替え)
    
南櫓と中櫓(下左の写真で左が南櫓、右が中櫓)、太鼓櫓(下右写真)
二の丸にはかつて南櫓、中櫓、太鼓櫓、中櫓、月見櫓と5つの櫓がありましたが廃城令後にいずれも取り壊しとなり、平成13年に復元されたものです。

 
 
   
   
松江神社
二の丸内にある神社で明治10年市内西川津に楽山神社として造営された、明治33年にこの地に移築されています。
 
   
馬溜井戸
かつての大手木戸門跡を過ぎたところは馬溜りとしていた枡形部分で、発掘調査により発見されたものです。
 
   
石垣に彫られた堀尾氏の紋所
三の門跡そばにある石垣には堀尾氏の紋所である「分銅紋」が刻まれています。城内には家臣の家紋など約20種類があるとのこと。
 
   
 
江戸時代に米蔵や屋敷などのあった二の丸下の段  
   
一ノ門
本丸に通ずる門で昭和35年に復元された門です。
 
   
天守閣の附櫓
天守入口の防備を堅くするため設けられた櫓で、入り口の扉は鉄板張りの大戸、更に内部は枡形構造となっています。
 
   
木製銅版張りの鯱
天守に設けられる鯱は陶器製、青銅製(鋳造)が多いですが、ここ松江城の鯱は木製銅版張で高さは2mを超える国内最大のものです。下右の写真は天守内に展示されている江戸時代に造られた鯱です。

 
 
 
   
天守地下にある井戸
城郭内に籠城戦に備えて飲料水を確保するため井戸を設けているのはよく見かけられますが、ここ松江城は天守内の穴蔵の間と呼ばれる地下に設けられています。天守内に井戸があるのは松江城だけとのこと。
 
   

天守から見る松江市街、中央を流れるのは堀川

天守から見る本丸の庭園
 
   
天守閣から見る宍道湖
中海、大橋川を介して日本海につながる宍道湖は汽水湖となっています。中央にある島は「嫁が島」といい、姑にいじめられた嫁がで水死した際に水神が浮き上がらせたとする伝説などいくつかの悲しい伝説が残されています。
松江市が選定した「宍道湖十景」に「嫁が島の残照」というのがあり、湖岸の袖師ヶ浦が絶好の撮影ポイントとなっているようです。
 
     
   
        
堀川
松江城取り囲むように流れる堀川、内濠の役目を果たしていますが、和船による観光が人気となっているようです。
 
   
塩見縄手の武家屋敷
 
塩見縄手は松江城の北側の濠沿いにあり、江戸時代の松江藩の中老で町奉行であった塩見小兵衛の屋敷があったところで、その名に由来してこの名がついたとのことで500mほどにわたって武家屋敷が並んでいます。この地域は松江市伝統美観指定地区に指定されており、「日本の道100選」にも選定されています。

 
 
 
   
小泉八雲の旧居と小泉八雲記念館
 
ギリシャ出身の新聞記者、作家であるラフカディオ・ハーン(パトリック・ラフカディオ・ハーン)はアメリカ出版社の通信員として明治23年(1890年)に来日、その後英語教師として松江で教鞭をとり、明治29年(1896年)には帰化して「小泉八雲」と名のり日本と松江を西洋世界に紹介した人として知られています。
旧居(下左)は小泉八雲が松江在住時代に住んだ塩見縄手にある武家屋敷で「ヘルン旧居」とも呼ばれています。隣接する記念館(下右)は雲の遺品、著書、関係図書・資料、妻セツの遺品などが展示されています。

ちなみに「ヘルン」とは松江赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのがひろまって定着したものとのこと。
 
 
 
   

ヘルンの道
 
        
以下は前回撮影できなかった場所を中心に2015.11.5に撮影したものです。
 
     
    重要文化財に指定されていた天守閣は、国宝指定に向けて資料を探していたところ、築城時期を特定できる「慶長拾六年正月吉祥日」などと書かれた祈祷札が見つかり、文化審議会が松江城天守の国宝指定について文部科学大臣に答申を行い、2015年7月に国宝に指定されました。
     堀尾吉晴公像
安土桃山時代から江戸時代前期の武将で、尾張丹波の土豪の出身で、織田信長、豊臣秀吉に仕え、永禄10年(1567年)の稲葉山城(岐阜城)攻め、天正10年(1582年)の備中高松城攻めなどでで武功を上げ、大名となり、秀吉の晩年には豊臣政権に参政。
秀吉の死後は徳川家康のもとで関ヶ原の戦いに参戦した。
慶長16年(1611年)に松江城を築城する。
 
     
       
松江城鉄砲隊と姉様鉄砲隊による真剣による試斬りと鉄砲演武
 
     
  祈祷櫓跡
祈祷櫓は本丸にある6ヶ所の櫓のうちのひとつで、築城前にはこの場所に塚があり、榎を神木とする荒神が祀られていたところです。築城の際に何回か石垣の崩落が発生したため、築城後この場所で毎月祈祷を行い、城の安全を祈願したことからこの名前が付けられたとのこと。
 
       

本丸西側にあった鉄砲櫓跡
 
乾櫓跡
 
       
  南櫓
二の丸の南東角にある二階建ての櫓で、「南櫓」または「南二重櫓」と呼ばれていたようですが、幕末期には「お召蔵」とも呼ばれていました。
この櫓は廃城令後の1875年(明治8年)に取り壊されましたが2001年(平成13年)に125年ぶりに再建されたものです。
 
     

北ノ門
 
水ノ手門
 
     
  興雲閣
明治36年(1903年)に明治天皇の行幸時の御宿所として建てられた擬洋風建築の迎賓館ですが、日露戦争勃発のため天皇の行幸は行われず、後に当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が行啓して宿泊しています。
現在は松江郷土館として松江の歴史、民俗資料などが展示されています。
 
     
  三の丸から二の丸に続く廊下門  
     
  千鳥橋
御殿のあった三の丸と二の丸をつなぐ橋で、江戸時代には「廊下橋」と呼ばれ、橋には屋根が設けられていました。
 
     

三の丸から見る南櫓
 
左から千鳥橋、南櫓、中櫓
 
     
  北惣門橋
江戸時代には内堀の東側にあった家老屋敷(現 松江資料館)との間に設けられた橋で、明治時代の中頃に石造りのアーチ橋に架け替えられ「眼鏡橋」と呼ばれていました。現在の橋は平成6年(1994年)に架けられたものです。
 
      
     
        
         トップページに戻る        月山富田城を見る