三原城(2015.11.03撮影)
 
三原市の駅前にあり、続日本100名城の172番に選定されている三原城は、永禄10年(1567年)に毛利元就の三男で毛利水軍の指揮官として活躍していた小早川隆景が、沼田川の河口の三原湾にある小島や中州を利用して砦を築いたのが始まりといわれ、天正8年(1580年)から10年にかけて更に整備が行われたといわれており、海に向かって船入りを設けて、本丸、二の丸、三の丸等にめぐらした濠により、満潮時にはあたかも海に浮かぶように見えることから「浮城」とも呼ばれていました。
小早川隆景の死後は関ヶ原の戦いの後に福島正則が入封して更に整備を行い、正則が改易となった後には浅野忠長が入封し広島藩の支城として幕末まで利用されていました。
明治維新後には帝国海軍の鎮守府建設用地として政府が確保しましたが、沼田川の堆積作用が危惧されて計画はご破算となり、建物や樹木等は競売にかけられ、建物は移築されたり建設用材として処分され、その後明治27年(1894年)には当時の山陽鉄道三原駅(現 JR)建設のため駅用地となり本丸が分断されるに至りました。
 
 

   
当時の城の縄張りの絵図と現在の地図(Googleマップより)を見くらべると、中央の本丸部分が鉄道により完全に分断されているのがよくわかります。  
  天守台の石垣
天守台は本丸の北側に設けられ、東北西三方を石垣で囲まれ、南側は土塁となっていたようで、江戸城の天守台と同じくらいの広さがあったと推測され、三基の櫓が多門櫓で連結されていましたが、天守が造られた記録は残っていないようです。
写真の右側は三原駅のホームになります。
 
        
   
天守台の石垣は扇の勾配で美しい形となっていますが、この石垣は表に出ている面のほうが中の控えになる部分より大きい「アブリ積み」という方法で行われていて、時間がたつにつれて石がズレル現象が起きやすく、余人は真似るべきではない と言われた工法ととのことです。しかしながら築城400年を経た現在でも、修復は行いつつもその姿を保っているのは、当時の石工の技術のよさなのでしょうか。  
     
  三原駅構内に入ると高架下にはご覧のように石垣、上にはホームがあるのがわかります。  
     
  天守台
駅構内から天守台に上がることができます。天守台は公園として整備されており、列車の時間待ちにここで過ごすのもよさそうです。正面奥は三原駅になります。
 
     
  天守台から見る桜山
三原城の北正面にある標高180m足らずの桜山には鎌倉時代に山名氏が桜山城を築いたところであり、小早川氏が三原城を築城した際にはこの城を詰めの城として機能を担わせたと考えられています。山の真下は国道2号線の山陽バイパスのトンネルが貫いています。
 
   
   
船入跡(左)と船入櫓の石垣(右)  
     
船入櫓の横には慶長元年(1597年)に長崎でキリシタン弾圧により処刑された日本の26聖人の一人である聖トマス小崎少年の像があります。
小崎少年はこのとき14歳で、伊勢から長崎に向かう途中この地で母マルタに宛てた手紙を残しています。
手紙の一部が碑文にあり、
「私のこともゲル父上のことも心配くださいますな。天国の全き幸福を失わぬよう努力なさいますよう。人からいかなることを受けようと耐え、慈悲をかけられますよう。陰暦12の月2日 安芸の国三原城にて」とあります。
     
 
     
  本丸跡
正面奥は三原駅です。
 
     
  臨海一番櫓跡
写真の歩道の部分は当時海でした。
 
     
     
本丸中門跡の碑と中門前の濠と石垣    
 
     
  藩校明善堂跡
広島藩の筆頭家老で第10代三原藩主となった浅野忠敬により文政3年(1820年)に設置された藩校跡です。
 
     
     
     
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