世界文化遺産二条城(2016.03.10撮影)
 
 
京都市中京区二条通堀川西入二条城町にあり、日本百名城の53番に選定されている二条城(正式名称は元離宮二条城)は典型的な平城で、、足利氏、織田氏、豊臣氏そして徳川氏が建てていますが、現存する二条城は徳川氏が関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)に徳川家康が京都上洛の際の宿泊所として西国諸大名に城普請を命じて慶長8年(1603年)に完成したもので、その縄張りは東西約500m、南北約400mのほぼ矩形となっています。城の完成後に家康は将軍就任の手続きとして御所への「拝賀の礼」を行い、城内において公家や重臣を招いて祝賀の儀を行われました。
その後三代将軍家光時代の寛永三年(1626年)に後水尾天皇の行幸を迎えるための大改築が行われ、寛永11年には30万人を超したといわれる兵を引き連れて上洛して入城するも、以後歴代将軍がこの城を訪れることはなく、歴史の舞台から引き下がる形となっていました。
城の建物はその後暴風雨、地震、落雷等で破損或は老朽化が進み、さらには火災による飛び火で本丸御殿、隅櫓なとが焼失しましたが、破損した部分は修理されるも焼失した本丸御殿などは再建されることなく幕末を迎え、慶応3年(1867年)10月第15代将軍徳川慶喜が大政奉還して朝廷のものとなり、明治17年に宮内庁所管の「二条離宮」となりました。
二条城は城内全体が国の史跡に指定されており、二の丸御殿(遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院そして白書院の6棟)が国宝に、22棟ある建造物や二の丸御殿内の障壁画が重要文化財に指定されています。
平成6年(1994年)にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されています。

訪れたこの日は城内への入口となる東大手門は修復中のため覆いが掛けられていて見ることができず、また本丸内も時間の都合で割愛、次回に譲ることとなりました。
 
    
唐門

二の丸御殿の正門にあたり、唐破風造りの四脚門形式で建てられています。平成23年(2011年)から始まった修復工事の一環で昨年修復が完了したばかりですので、施された彫刻や飾り金具が往時の輝きを取り戻しています。
門には天皇家の菊花紋(十六八重表菊)がありますが、修復の際この門の下に徳川家の家紋である葵紋があったことがわかり、時代の移り変わりの名残と推測されています。
右の写真は二の丸御殿内から撮影
    
     

        外側から見る唐門、奥には二の丸御殿の車寄が見えます。
 
                      唐門の彫刻と飾り金具
 
     
  築地塀の屋根にも金飾りの装飾が施されており、菊花紋が見えます。  
     
二の丸御殿

国宝に指定されている二の丸御殿は、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院そして白書院とありますが、写真は御殿への入口となる車寄せと遠侍です。
内部の見学はできますが全て撮影禁止となっています。
   
   
   
     

 
二の丸庭園から見る二の丸御殿(右から遠侍、式台そして大広間)、廊下は鴬張りと呼ばれる構造となっています。
 
   
  鴬張りとは人が床の板の上を歩く事によりきしみ音が鳴る様につくられた仕組みをいい、日本古来の建築技法で、外部侵入者の危険探知の為に設けられたとされています。
詳しくはWikipediaの「鴬張り」で
 
     
   
寛永3年(1626年)に小堀遠州が作庭したといわれる池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園の二の丸御殿庭園は国の特別名勝に指定されています。  
     

  二の丸庭園から見る桃山門
桃山門は二の丸と本丸の間にある通路の南側にあって、築城時の寛永3~4年に入母屋造りの瓦葺き、長屋門形式で建てられており、重要文化財に指定されています。
この門を抜けて左へ行くと唐門に通じます。
 
     
   
二の丸庭園から本丸に行くには内濠に架かる東橋を通られなければなりません。その先には重要文化財に指定されている本丸櫓門。寛永3年(1626年)に入母屋造り瓦葺きで建てられており、天明8年(1788年)に発生した天明の大火の被害をまぬかれた遺構です。  
     
   
桃山門に対して北側にあるのが鳴子門、脇戸袖塀付きの薬医門形式で建てられておりこちらも重要文化財に指定されています。  
     
  清流園の北山杉
ちょっと変わった格好をしていますが、これは「台杉仕立て」という方法で手入れされた北山杉で、床柱用の磨き丸太を効率よく育てるために室町時代から取り入れられたものです。
 
     
   
二つある大手門のうちこちらは北大手門と呼ばれているもので、重要文化財に指定されていて、江戸時代初期の寛永4年(1626年)に建造されたものですが、車の出入りに使われているだけで普段は閉じられています。左の写真は二の丸庭園側から、右の写真は竹屋町通からの撮影です。  
     
  西門
城の西側の美福通に面してあるのがこの西門で、こちらも寛永4年(1626年)に建造されていて重要文化財に指定されています。門は埋門形式となっており、橋は架けられていません。
 
     
  西南隅櫓
江戸時代前期の寛永4年(1626年)に入母屋造、本瓦葺で建てられた二重二階の櫓で重要文化財に指定されています。
 
     
  南門
大正4年(1915年)に大正天皇の即位の儀式である大典に備えて新たに造られたもので、本来の城門ではなく橋も取り付けられていません。
 
     
  東南隅櫓
二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺で慶長8年(1603年)に建てられ寛永4年(1627年)ごろに一部手が加えられています。(重要文化財指定)
 
     

緑の園で咲いていた寒緋桜
 
 
     
本能寺跡
 
本能寺は、当初「本応寺」という寺号で応永22年(1415年)に創建された法華宗のお寺で、法華経の解釈の違いから一時破却されましたが永享5年(1433年)に四条坊門小路(現・蛸薬師通)一帯に再建されました。
寺域は天文年間に大伽藍が造営されるほどなりましが、天正10年6月2日(1582年6月21日)この寺を京都上洛時の宿所としていた織田信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃するといういわゆる「本能寺の変」により堂宇が焼失しました。
その後寺の再建を図るも豊臣秀吉の命により寺町御池(中京区)へと移転させられ現在に至っています。
    
 
     
     
     
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