二条城 桜の園(2019.04.16撮影)

2016年の3月に一度訪れている世界遺産に登録されている二条城、今回は桜の時期に訪れ、本丸と桜の園を中心に見ることにしましたが、本丸の工事はまだ完了しておらず、桜の園だけとなりました。
 
      
   
  二の丸庭園の御所御車返し(ごしょみくるまかえし)  
   
     
 
二の丸庭園
 
     
   
  内堀に架かる東橋を渡って本丸櫓門をくぐり本丸内に入ります。  
     
 
本丸庭園
 
   
   
  天守台跡
本丸の南西角に天守台跡があります。創建時の天守は城の北西に建てられていましたが、慶長年間の一国一城令後に伏見城の天守を移築していました。天守は寛延3年(1750年)に落雷により発生した火災で焼失してその後再建されずに至っています。
 
     
   
  天守後から見る内堀、中央の橋は西橋で、その奥には重要文化財に登録されている西北土蔵(米蔵)が見えます。  
     
 
重要文化財に登録されている西南土蔵(米蔵)
 
     
 
西橋
 
   
 
天守台跡
 
     
 
重要文化財に登録されている南中仕切り門を抜けると桜の園です。
 
     
 
桜の園には幾種もの桜の木がありますが、ソメイヨシノは盛りを過ぎており、タンポポとの共演となっています。
 
     
 
東錦(アズマニシキ)
お酒のような名前ですが、淡紅色の八重咲きで遅咲きの桜です。
 
     
 
松月(ショウゲツ)
サトザクラの一種の八重桜で「松月桜」または「野田大桜」とも呼ばれます。
 
     
 
松月
 
   
 
 
関山(カンザン) 
別名は「セキヤマ」といい、サトザクラの一種で八重咲き

 
 
 
 
 雨宿(アマヤドリ)
八重咲きの白い花の桜で、花の時期は4月中旬の開花となります。
 
      
 
 
 一葉(イチヨウ)
サトザクラの一種で、八重咲きの桜。花の色は淡紅色、花の時期は4月中旬の開花となります。
別名は「イチヨウサクラ」
 
     
 
清流圓の枝垂れ桜
 
      
  二条城を出てから少し足を延ばして「応仁の乱」の勃発の地へと向かいます。  
     
 




応仁の乱勃発の地

室町時代の応仁元年(1467年)、時の幕府管領であった畠山氏と斯波氏の家督争いから、守護大名の細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、さらに八代将軍足利義政の継嗣争いもあって、全国的に戦乱が発展したのが応仁の乱で、以後約11年間文明9年(1477年)まで続き、その後の戦国時代へと移行する原因となりました。
京都御所近くにある上御霊(かみごりょう)神社が、その戦乱の勃発地点で、文正2年(1467年)1月18日に、畠山政長と畠山義就との間で、後に御霊合戦ともよばれる私闘が境内で行われ、これが応仁の乱の前哨戦となったのです。

右の写真は境内にある「御霊合戦旧跡の碑」です。
 
 
     
   
  上御霊神社

正式な神社の名前が「御霊神社」というこの神社の創建は、平安時代の貞観(じょうかん)5年(863年)と歴史のある神社で、その起こりは、桓武天皇時代に各地疫病が続いたことから、これは「御霊の祟り」であるとして御霊会(「ごりょうえと」読み、思いがけず死に至った人たちの祟りを防ぐ鎮魂の儀礼)が行われたことが創祀となっています。

鳥居の脇には「応仁の乱勃発の地」と刻まれた碑があります。
鳥居の奥にある楼門は、江戸時代中期の寛政年間に再建されたものです。
 
     
   
  四脚門(南門)は伏見城の四脚門を移築したと伝えられています。  
     
   
  本殿
享保18年(1733年)に建てられた、内裏の賢所御殿の遺構を昭和45年(1970年)に復元したものです。
 
   半日は神を友にや年忘  
 
 



芭蕉句碑

元禄3年(1690年)に当社を参詣した、松尾芭蕉が詠んだ「半日は 神を友にや 年忘れ」の句が刻まれています。
      
 



新村出の歌碑

広辞苑の編集で知られる新村出が詠んだ「、「上御霊のみやしろに詣でてよめる 千早振 神のみめぐみ 深くして 八十ぢに満つる 幸を得にけり」の歌が刻まれています。
 
   
   
  上御霊神社では毎年5月18日に、洛中では最古といわれる「御霊祭」が行われ、後水尾天皇が寄進した「北之御座(今出川口)」、貴船神社より奉納された「中之御座(末廣)」、後陽成天皇が寄進した「南之御座(小山郷)」の三基の神輿が登場します。  
     
     
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