湘南発祥の地大磯    
「湘南」というと皆さんどこを思い浮かべますか?
「湘南」の範囲は人や時代により様々に呼称されており、神奈川県で「湘南地区」としているのは、相模湾沿いの藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、寒川町、大磯町、伊勢原市としており、車のナンバープレートではこの地域のほかに小田原市、秦野市、南足柄市、大磯町、二宮町、足柄上郡中井町、大井町、松田町、山北町、開成町、足柄下郡箱根町、真鶴町、湯河原町が含まれます。因みに「湘南海岸」というと茅ヶ崎市、藤沢市、鎌倉市にある海岸のことをいい、広義では西は湯河原町、東は横須賀市までの間の海岸をさしているようです。
「湘南」という言葉の語源は、、かつて中国にあった長沙国湘南県の湖南省を流れる湘江の南部のことをさしていました。
日本では、室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫が小田原に居して、大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが呼称の起源ともいわれています。
左の石碑は大磯駅のロータリーに建てられた湘南発祥の地碑で、大磯在住の画家堀文子氏の碑文で「著盡湘南清絶地」と刻まれています。

右の石碑は鴫立庵の横に建てられたものです。
 
       
藤村藤村旧宅
小説家藤村藤村が昭和16(1941)年2月から同18(1943)年8月までの約2年半の間、71歳でなくなるまで静子夫人とともに暮らした町屋園と呼ばれた貸別荘住宅です。
建物は関東大震災後に建てられたもので広縁のある八畳の居間、四畳半の書斎、控室からなっており、藤村はここを『静の草屋』と称し、質素を旨とする生活を送っていました。
(所在地:大磯町東小磯88-9)
   
     
   
     
大磯八景の碑
大磯は江戸時代から風光明媚な場所として知られ、元禄時代には俳人の大淀三千風や遠藤雉啄などがその情景を俳句に詠んだといわれており、明治38(1905)年には画家の齊藤松洲による絵を基にした大磯八景の絵はがきが発売されるほどでした。
碑は、大正12(1923)年には大磯小学校の校長であった朝倉敬之が、自ら詠んだ句を添えて自費で建てた大磯八景の碑で、大磯八景のうちの「富士之慕雪」を詠んだもので、「くれそめて 紫匂ふ雪の色を みはらかすなり富士見橋の辺」と刻まれているようですが、建てられてから90年以上経ているため刻まれた文字が薄くなり判読が難しくなってきています。

(所在地:大磯町東小磯 富士見橋際)
    大磯いにしえの歌の碑
古代の大磯海岸は「よろぎ(ゆるぎ・こゆるぎ・こよろぎ)」の磯と呼ばれており、 多くの歌人たちが、大磯の景観を舞台にして歌が詠まれています。
碑には「相模治乃 余呂木能波麻乃 麻奈胡奈須(さがみじの よろきのはまの まなごなす)児良波可奈乃久 於毛波流留可毛(こらはかなしくおもはるるかも)」と刻まれています。
(作者不明 万葉集 巻 14 東歌 相聞)
 
 
     
  海辺にくると伊豆大島がうっすらと見えます。その右奥には利島が小さく見えます。  
    
鴫立庵
京都市右京区にある落柿舎、滋賀県大津市の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる鴫立庵は、小田原からやってきた崇雪(そうせつ)という外郎(ういろう=丸薬)売りが、新古今和歌集の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」という西行の句に登場する鴫立沢を探して、この地に寛文4(1664)年に草庵を結んだのが始まりとされていて、敷地内に建てられた石碑の裏には、銘文「著盡湘南清絶地」と刻まれていることから、「湘南発祥の地」とされています。
右の写真は鴫立沢の標石ですが、建てられてから相当年数を経ているのでしょう、刻まれた文字が磨滅していて殆ど読み取れません。

(所在地:大磯町大磯1289 )
   
 
        
   
     
虎御前の碑(左)と法虎堂(右)
虎御前は、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」や、日本三大仇討のひとつである曽我兄弟の仇討ちを題材にした「曽我物語」に登場する人物で、曽我兄弟の兄、曽我十郎祐成の愛人であったといわれる大磯の遊女で、兄弟が仇工藤祐経を富士の裾野で仇討ちに成功した後に、斬殺されると出家をして尼となり、生涯にわたって兄弟の霊を弔ったといわれる実在の人物で、右の法虎堂には有髪僧体の虎御前が19歳の姿を写した木造が安置されています。
 
 
     
     
 
芭蕉句碑
安永9(1780)年に建てられた円筒形という珍しい形の句碑で、「芭蕉翁四時遺章」として春夏秋冬の句が、一句ずつ刻まれています。
 
  比翼塚
昭和7(1932)年に坂田山で起きた心中事件の男女を弔うために建てられたもので、この事件は「天国に結ぶ恋」として当時映画まで制作されていました。

 
   円位堂
鴫立庵主第一世の大淀三千風が元禄時代に建てたもので、堂内には等身大の西行法師の坐像が安置されています。
 

 
 
 
     
  五智如来像
五智如来とは、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、阿閦如来、宝生如来のことをいい、五大如来ともいって、密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもので、当初はこの如来像を本尊として西行寺を創るのが目的であったと伝えられています。
 
    
  新島襄終焉の地碑
国道1号線の照ヶ崎海岸への坂道のそばに建てられたこの石碑は、昭和15(1940)年に新島襄門下生によって旧百足屋旅館跡に建てられたもので、徳富蘇峰が揮毫しています。

(所在地:大磯町大磯1104 )
 
 
       
  海水浴場発祥の地碑
左は新島襄終焉の地碑のそばに建てられた「大磯照ヶ崎海水浴場」の碑で、右は湘南バイパス沿いにある照ヶ崎プールそばに建てられた「海水浴場発祥の地」です。
海水浴はヨーロッパでは17世紀にはじまったといわれていますが、日本では明治18(1885)年に時の軍医総監であった松本順により国民の健康増進のため、漁の邪魔になると言っていやがる漁師を説得して始まり、多くの名士が訪れたといわれています。
(所在地:大磯町大磯1398 )
 
 
     

大磯港の防波堤からは富士山がよく見えます。
 
     
  本陣跡の碑
江戸時代に東海道五十三次の8番目の宿場町であった大磯宿には3ヶ所の本陣があり、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定されていました。
この碑は3ヶ所のうちの小島本陣の碑ですが、他の尾上・小島本陣については地図を見ながら歩きましたが、見つからずじまいとなりました。
(所在地:大磯町大磯1133-1 )
 
 
     
  地福寺
境内に梅の花が咲く地福寺、本堂横にはここ大磯の地で亡くなった島崎藤村夫妻の墓があり、藤村の命日である8月22日には「旧島崎藤村忌」が行われ、毎年多くの人が墓参・献花に訪れます。
(所在地:磯町大磯1135 )
 
 
     
旧吉田茂邸
大磯駅から国道1号線(旧東海道)を西に約2.5kmほど行ったところに大磯城山公園があります。
旧吉田茂邸は公園の旧吉田茂邸地区となっていて、明治17(1884)年に吉田茂の養父健三が別荘として建てたもので、吉田茂は昭和19(1944)年ごろから亡くなった昭和42(1967)年までこの地で過ごしていました。
太平洋戦争後の昭和21年に内閣総理大臣に就任して以来昭和29年に総辞職するまで5次にわたり総理大臣を務めた吉田茂は、優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた人で、時には「ワンマン」とも呼ばれ、「バカヤロー解散」や「ワンマン道路(戸塚道路のちに横浜新道に吸収)」建設などで昭和時代の人には記憶のある政治家でした。
右の写真は入口となる門で「兜門」と名付けられていましたが、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われています。

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  約33,000㎡ある敷地には、心字池や築山のある日本庭園があります。写真奥の本邸は平成21(2009)年火災により焼失しましたが、平成25(2013)年に再建されて、この庭園を含めて一般公開が再開されました。  
     
  愛犬ポチの墓
吉田茂はかなりの犬好きであったようで、このポチ以外にもサンフランシスコ講和条約調印の際につがいのテリアを連れ帰り、雄には「サン」、雌には「フラン」と名前を付けたとのことです。
    大磯の海岸を見下ろす高台には、右手にステッキ、左手に葉巻を持ったおなじみのスタイルで銅像が置かれています。
 
     
  七賢堂
元は明治の元勲伊藤博文が、明治36(1903)年に倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたもので、伊藤博文の死後に婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ「五賢堂」となっていましたが、昭和35(1960)年にこの地に移され、昭和37(1962)年に吉田茂が西園寺公望を合祀、吉田茂の死後、昭和43(1968)年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、「七賢堂」となったものです。
 
     
 
 
     
        
        
        
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