岡山城(2012年11月6日撮影)

私の先祖発祥の地岡山、父が東京に移住して以来一度も訪れたことはありませんでしたが、古希になったのを記念して訪れてみました。亡き父の話では先祖は戦国大名宇喜多秀家の家臣であったとか。先祖のお墓参りをした後に岡山城に行ってみました。
黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう)」或いは「金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれるこの城は南北朝時代に築かれた石山城が最初と伝えられており、天正元年(1573年)に宇喜多直家が入城した後に修築を行い、嫡男秀家が慶長2年(1597年)に現在の姿の岡山城を築いたものです。宇喜多秀家は関が原の戦いで徳川軍に敗れたため八丈島に流刑されその後は池田氏が明治まで城主となっていました。
城は昭和の初期に国宝に指定されましたが、第2次世界大戦の末期に空襲で天守閣と石山門を焼失しており、天守閣は昭和41年(1966年)に旧来通りに再建されています。

旭川越しに見る天守閣
 
   
西之丸西手櫓(重要文化財)
慶長8年(1603年)に池田利孝によって建てられたもので武器及び食糧貯蔵庫として使用されていたとのことです。
この櫓は城内ではなく廃校となった内山下小学校の校庭の西隅にあります。
 
   

石山門跡の石垣

対面所の長屋門
 
        

馬場口門跡から見る天守閣
 
開祖400年を記念した宇喜多氏顕彰の碑
 
廊下門(左は馬場口門側から右は表書院側から撮影)
月見櫓
戦災を免れた唯一の建物で岡山城第5代城主の池田忠雄によって元和から寛永年間(1615〜1632年)の間に表書院の北西隅に建てられたものだそうで、重要文化財に指定されています。
  
穴倉
表所院内にあるこの穴倉は香川県産の凝灰岩で造られており非常用食料の備蓄庫であったと推定されているとのことです。
 

表書院

江戸時代の給水路跡
 
不明門
表書院と本段(本丸)をつなぐ門で通常は北側の渡り廊下を使用するため閉ざされていた、いわゆる「あかずの門」で、明治時代の廃城令後に取り壊されましたが昭和39年に再建したものです。
 

天守閣
 
 
六十一雁木上門
本段から川手に通じる石段の上にある門で石段が61段あったことからこう呼ばれたとのことです。
 
天守閣の礎石
昭和20年6月の空襲により焼失した天守閣の礎石で、昭和41年にコンクリート造りで再建する際に移動して元通りに配置されているとのこと。
 

鉄門跡

不明門の石垣とツタの紅葉
 
大手門跡
現在は烏城公園の入口となっています。
 
天守閣と月見橋
月見橋の右側には後楽園があります。
 
        
 
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