ライン川クルーズ
 
スイスアルプスのトーマ湖を源とするライン川、ドイツ国内を流れてフランスへ、そしてオランダから北海にそそぐ長さ1200kmにも及ぶ大河です。ドイツ国内だけでも700kmも流域があり、「父なる川」とも呼ばれています。
特に中域のリューデスハイムからコブレンツに至る区域は「ロマンチック・ライン」とも呼ばれ、川の両側には古城がいくつもあり、風光明媚なことで知られており、ビンゲン・アム・ラインからコブレンツの間約65kmの区間の渓谷ユネスコの世界文化遺産にが「ライン渓谷中流上部」として2002年に登録されています。
今回はリューデスハイム・アム・ラインからザンクト・ゴアールまで約1時間40分間のクルーズですが、あいにくの曇り空です。
 
   
リューデスハイム

正式な町の名前はリューデスハイム・アム・ライン(Rüdesheim am Rhein)といい、25kmほど南にもリューデスハイム・アン・デア・ナーエ(Rüdesheim an der Nahe)という町があり。間違えやすいので注意が必要。
町は7世紀ごろの民族大移動の時代にフランク人が住み着き、考古学の成果ではガラスが発見されており、このころからワイン造りが行われていたのではといわれ、11世紀にはワインで生計を立てていたとされています。
 
    
ブレムザー城(Broemserburg)
 
1090年頃に二―ダーブルク城という名で、古代ローマ時代の砦の跡に建てられたもので、13世紀にブレムザー家が支配することとなって、名を「ブレムザー城」と改め、ライン川を通行する船から通行税を取り立てていました。
現在は「ワイン博物館」として一般に公開されています。
   
 
     
つぐみ横丁
 
通りの名はドロッセルガッセ(Drosselgasse)といい、長さはわずか150m足らずの短く細い路地ですが、両側にレストランやお土産やさんが何軒も建ち並んでいます。
つぐみ横丁の名は、この町で一番古いレストランDrosselhofの屋根にある鳥(つぐみ鳥)からついたといわれています。
     
 
     
   
午後2時15分リューデスハイムの船着場を出発、ライン川クルーズの始まりです。ライン川沿いの南斜面にはぶどう畑が続きます。  
    
ニーダーヴァルト記念碑
 
二―ダーヴアルトの丘のぶどう畑の上にあるこの碑は、ドイツ統一を記念して建てられたもので、1883年9月28日に落成式が執り行われ、全高38mの碑の中央には、高さ10.5mのゲルマニア像が右手にドイツ皇帝の帝冠を掲げ、左手に皇帝の剣を持って立っています。
   
 
     
クロップ城(burg klopp)
 
リューデスハイムを出発してすぐに進行方向左側に見えてくるのがこのクロップ城です。
城はビンゲン・アム・ラインの町にあり、ローマ時代に築かれ、17世紀の終わりごろに破壊されるまでマインツ大司教の館となっていました。19世紀の半ばに門と塔が再建され、その後の城を再建して1897年以降町役場として用いられています。
   
        
ねずみの塔 (Binger Maeuseturm)
 
ビンゲン・アム・ラインを過ぎると川は右にカーブをとります。左岸寄りには中洲があり、ねずみの塔と呼ばれた監視塔が見えてきます。
塔の名前の由来は、この地を支配していた大司教ハットーの重税に苦しんだ農民たちが、飢饉の際に食べ物を乞ったところ、司教が穀物倉庫に閉じ込め皆殺しにしたところ、倉庫にネズミが大発生して司教を襲ったため、司教がこの塔に逃げ込んだところ、ねずみが川を渡って塔に入り司教を襲って殺してしまったということです。これからこの名がついたといわれてますが、伝説で本当のところはどうなのでしょうか。
この塔は、13世紀にマインツ大司教によって建てられたものですが、一説によれば、川を航行する船から通行税を取る為の監視塔であったといわれ、現在のものは1855年にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世によって再建されたものです。
この付近はライン川でも難所として知られ、19世紀以降航行する船が増加したため信号所として1974年まで用いられていました。
   
        
エーレンフェルス城(Burg Ehrenfels)
 
ねずみの塔を見下ろす形で山の上にあるのが名誉(Ehre)の岩(Fels)の城と名付けられたこの城です。
城は1220年にマインツ大司教ジークフリート2世の命を受けて築城され、ねずみの塔を補完する形で通行税の徴収にあたっていましたが、三十年戦争による被害を受けたのちの168年にフランス軍により破壊されました。
   
 
 
   
アススマンスハウゼンの街並み
 
ねずみの塔を過ぎて3分ほどでアススマンスハウゼン(Assmannshausen)の町を通過します。この町は黒ぶどうのシュベートブルグンダー種(Spätburgunder)を主に栽培しており、白ワインマ醸造が多いドイツにあって、珍しく赤ワインを醸造している町です。
   
   
ラインシュタイン城 (Burg Rheinstein)
アススマンスハウゼンを過ぎてすぐの左岸の切り立った岩の上にあるのが、このラインシュタイン城です。
城は10世紀ころに築かれたとの説があるようですが、詳しい築城の時期は解っていないようで、一時期は裁判所として用いられていたようですが、その後利用もなく17世紀にはフランス軍の攻撃を受けて廃城状態となっていました。
1823年にプロイセンのフリードリヒ王子がこの城を買い取り、当時ボニファティウスベルク城と呼ばれてい城の名を現在のラインシュタイン城に変えるとともに城の再建を行い、夏の別荘として利用していました。
現在ではここで結婚式も行われるほどで、ライン川でも美しいお城に数えられ絶大な人気があるようです。
   
     
ライヒェンシュタイン城(Burg Reichenstein)
 
ライン川左岸のトレヒティングハウゼンの町の高台にあり、11世紀に築城されたと推定されていて、城代が管理を行っていました。しかしながら13世紀に当時の城代が盗賊と化したため罷免され、後任の城代を任命するもこれまた盗賊になり下がるという結果になったため、1285年にハプスブルク家のレドルフ1世が盗賊集団の一掃を行いました。
その後14世紀にはマインツ司教により管理が行われていましたが、16世紀には廃墟と化してしまいました。19世紀になってヴィルヘルム・バーフース男爵がこの城を買い取って再建を行い、さらに何代か城主がわかって20世紀初頭にはゴシック様式で改築が行われ、現在では博物館として使用されています。
   
   
ゾーネック城(Brug Soneck)
 
左岸のニーダーハイムバッハとトレヒティングスハウゼンの中間あたりにある城で、11世紀に建てられましたが、13世紀後半にはライヒェンシュタイン城同様に盗賊の根拠地と化し、1282年にルドルフ1世の命により破壊され再建禁止命令が出されていました。
14世紀半ばに再建禁止令が解かれて再建されましたが、1689年のフランス軍の攻撃により廃墟となり、放置されていましたが、1825年に後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(当時皇太子)がこれを買い取って狩猟用のお城として再建されました。
第一次世界大戦後の1918年には城は国有化され、現在はラインラント・プファルツ州が城や古美術品の保護、管理を行っています。
   
 
     

ハイムブルク城( Burg Heimburg)と聖母昇天教会(Kath.Pfarrkirche St.Mariae Himmelfahrt)
 
二―ダーハイムブルグの町にあり、1294年にマインツの大司教が飛び地であるこの地に築城を命じ1305年に完成したもので、その後も断続的に改築が行われていました。
1344年にライヒェンシュタイン城の所有者がわかったことによりその戦略的価値が下がり、15世紀半ばまではマインツの裁判所として利用されていました。以後利用がなかった時代は荒廃が進み、プファルツ継承戦争の1689年にフランス軍によって破壊され、19世紀には個人の所有に移り改築され、現在も個人城主がここに居住しています。
   
   
フュルステンベルク城(Ruine Fürstenberg)
 
左岸のオーバーディーバッハの町にある城で、1219年にケルンの大司教によってバッハラッハ周辺の守りと通行税徴収のために築城された城で、中央の塔は16世紀初頭に設けられたものです。
城は17世紀の三十年戦争で、スペイン軍、スウェーデン軍に占領され、プファルツ継承戦争時の1689年にフランス軍により破壊されています。以後所有者は変わりましたが、再建されることなく現在に至っています。
    ノリッヒ城(Burgruine Nollig)
 
マインツ大司教により1300年頃にロルヒの町の防御とライン渓谷の監視のために木組みの塔が建てられたのが城の初めで、その後外壁を厚い片岩で覆い木片を取り除き強化がなされました。
1936年に宝石業者のヴィルト氏が買い取り改築工事を行いましたが、現在は誰も住んでおらず公開もしていないようです。
 
 
   
シュターレック城(Burg Stahleck)
 
バッハラッハ
の町を見下ろす丘の上にあるこの城は、11世紀末から12世紀のはじめにかけて、ケルン大司教が当地周辺の防御のために築城したといわれており、1135年頃にはシュターエレック家が城代として城を治めていました。その後ヴィステルバッハ家の時代が550年以上続いていましたが、三十年戦争、プファルツ継承戦争により荒廃し、廃墟となっていました。
1925年に城の再建が行われ、翌年よりユースホステルとして営業が行われ、円錐屋根の塔も復元して見事な姿となっています。
   
   
プファルツ城(Pfalzgrafenstein)
 
カウプの中州にあるこの城は、1327年、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世がライン川の通行税徴収のための税関施設として建設したもので、その後、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)の所有となりました。
城は中州にあることから春先の雪解けによる氷の破片や、増水による影響を受け城に与えるダメージが大きく、これを解決するためプアルツ選帝侯は川上側の城壁を砕氷船の舳先のように尖らせる工夫を行ったとのことです(右の写真)
城は税徴収のためのものであったころとから、戦禍による被害を受けることなく経過し、1866年の普墺戦争(プロイセンとオーストリア間の戦争で、「プロイセン=オーストリア戦争」とも「7週間戦争」とも呼ばれています。)以後は税の徴収も行われず、1960年代まで信号所として用いられていました。
   
 
     
シェーンブルク城
 
オーバーヴェーゼルの丘の上にあるこの城は10世紀にザクセン家の皇帝により建てられたもので、「シェーンブルク(Schönburg)=美しい城」という名前が当時からつけられていました。
1166年にシュタウフェン家の皇帝フィードリヒ1世から、戦功によってこの領地と城を与えられた家臣が、以来シェーンブルグ家を名乗るようになりました。その後、ライン川を航行する船からの関銭(通行税)や、領地内で生産されるワインからの収入等をもとに、領地を拡大して城を補強し、ライン川流域の城の中でも屈指の城としてゆきました。
17世紀末のプファルツ継承戦争において攻め込んだフランス軍が、あまりにも堅固な城で攻め落とすことができなかったといわれています。
19世紀末にこの城はドイツ系アメリカ人の銀行家に寄って買い取られて再建されましたが、1950年にオーバーヴェーゼル市がこれを買い戻してさらに再建を続行、現在はヒューットゥル家がホテルとして営業を行っています。
   
     
オーバーヴェーゼルの街並み 
オーバーヴェーゼルには最盛期には20を超す塔が設けられていたとのことで、現在も16の塔が残されています。
左は赤い塔のハーグ塔(Haagsturm/Roterturm)
、右の写真の一番背の高い塔は雄牛塔(senturm)ですが、中央と左端の塔はGoogleearthで調べても名が出てきません。
   
 
     
ローレライ
クルーズもそろそろ終着のザンクト・ゴアに着くころというときに、船から音楽が流れてきました。「なじかは知らねど心わびて・・・・」の歌詞でおなじみの「ローレライ」の曲です。
川が大きく右に曲がるところの岩山がローレライということですけど、川べりに「ROLELEY」という看板もなく、音楽もなければ気づかずに行きすぎてしまうというところです。
川の中州には「ローレライの像」もありますけど、それほど大きくなく、船も近くには寄りませんので、写真も望遠レンズを使っても大きく撮れません。
   
 
     
ねこ城(Burg Katz)
ザンクト・ゴアールスハウゼンの高台に、カッツェンエルンボーゲン伯爵ヴィルヘルム2世により、14世紀の後半に建てられた城です。
城の名前は、その名のとおり“猫(Katze)”という意味がありますが、その由来は二つあるそうで、一つ目は、この城を建てた人物が猫のような顔をしていたとからといわれ。二つ目は、城の一部が猫に似ていたということのようです。
城は三十年戦争、プファルツ継承戦争さらには七年戦争により度々被害を受け、1806年のにナポレオンの攻撃により完全な廃墟となりましたが、19世紀の終わりごろから修復が行われ、現在は日本人がオーナーとなっていますが、内部は公開されていません。
   
     
ラインフェルス城(Burg Rheinfels)
ザンクト・ゴア―ルまたはザンクト・ゴアと呼ばれる町にあり、「ラインの岩」という意味の名のこの城は、13世紀半ばにカッツェンエルンボーゲン伯爵ディーター5世により、ライン川を航行する船から通行税を徴収するために築城されました。
城は築城以来何度も包囲攻撃を受けましたが、その都度撃退を繰り返しプファルツ継承戦争の際にも数千の兵力で、3万近い兵力のフランス軍を撃退しています。しかし、18世紀末にフランス革命軍が攻め入った時には、なぜか無血開城し、革命軍により破壊されてしまいました。
その後19世紀半ばには修復が行われ、現在ではホテルと博物館として利用されています。
   
   

               15時55分ザンクト・ゴアールの船着場に到着です。
 
 
     
     
     
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