浅草・金龍山浅草寺
台東区浅草にあって、「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、都内最古の寺院である浅草寺、寺に伝わる縁起では、推古天皇の時代の628年に、隅田川で漁をしていた檜前(ひのくまの)浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像が、浅草寺本尊の聖観音(聖観音菩薩)像とのことで、兄弟の主人である土師中智が出家して自宅を寺にして供養したのが浅草寺の始まりとなっています。
小田原征伐後の天正18(159)年に、豊臣秀吉から関東への領地替えを命じられた徳川家康が、浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を与え、以後伽藍が構築されましたが、幾たびかの火災で焼失、三代将軍家光の援助を受けて五重塔が慶安元(1648)年に、翌年には本堂が再建され、徳川将軍家に重んじられていたこともあって観音霊場として多くの参拝者を集めていました。
現在では、東京観光の目玉として国内外から多くの観光客を集め、訪れる参拝者、観光客の数は年間3000万人にも上るとか、仲見世通りや境内では「ここは日本か?」と思うくらい、日本語よりも外国語のほうが多く飛び交っています。
 
        
雷門
浅草寺の表参道の入口となる門で、切妻造の八脚門で建てられており、向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから、正式には「風雷神門」といいますが、「雷門」の通称で知られています。
門は、慶応元(1865)年に火災で焼失した後は仮設の門が建てられたままでしたが、昭和35(1960)年に、松下電器(現 パナソニック)の創業者である松下幸之助氏が、浅草寺に祈願して病気平癒した報恩のため寄進して、鉄筋コンクリート造りで再建されました。
門に下げられ浅草のシンボルとなっている大提灯は、正面側に「雷門」、宝蔵門側には「風雷神門」と書かれており、高さ3.9m、直径3.3m、重さ約700㎏あって、いつ来ても写真を撮る観光客で賑わっています。
 
    
     
仲見世通り
雷門から宝蔵門に至る約300mの参道ですが、貞享2(1685)年に、寺が境内の清掃を行うことの見返りで開業を許したのがはじまりで、現在では参道の両側には土産物、菓子などを売る商店が約90軒ほど立ち並んでおり観光客でイモ洗い状態となっています。
左の写真は雷門の筋向いにある浅草文化観光センターの6階にある展望テラスから撮ったもので、手前が雷門、中央が仲見世通り、そして奥が宝蔵門となります。
この展望テラスは入場無料ですので、一度訪れてみてはいかがですか。
   
 
   
宝蔵門(仁王門)
入母屋造り二重門の宝蔵門は、浅草寺の山門にあたり、天慶5年(942)に平公雅の寄進によって建てられたのがはじめで、その後幾たびも火災のため焼失、再建を繰り返しました。
江戸時代には三代将軍徳川家光の寄進によって慶安2(1649)年に再建され、元禄5(1692)年には京都・曼殊院門跡の良尚法親王による「浅草寺」の扁額が掲げられています。
その後太平洋戦争中の昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失しており、現在の門は昭和39年に実業家大谷米太郎氏夫妻の寄進により鉄筋コンクリートで再建されたもので、門の両脇に金剛力士像が安置されています。
門の背面(本堂側)には、金剛力士像を制作した村岡久作氏の出身地である山形県村山市から、藁2500㎏を用いて造られ、高さ4.5mm、幅1.5m、重さ500㎏という大わらじが奉納されて吊り下げられています。
   
         
本堂
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる本堂は、慶安2(1649)年に再建され国宝に指定されていましたが、東京大空襲で焼失し、昭和33(1958)年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。
また、画像ではわかりにくいですが、本堂に葺かれている屋根瓦はオールチタン製で、耐震性に優れた瓦となっています。
   
 
     
五重塔
五重塔は、本堂とともに天慶5(942)年に平公雅の寄進によって建てられたのがはじめで、その後倒壊や火災による焼失にあってその都度再建されていました。
慶安元(1648)年には徳川家光によって再建され、大正12(1923)年の関東大震災による被害は免れて、国宝に指定されていましたが、東京大空襲で焼失。現在の五重塔は昭和48(1973)年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。
   
 
     
ニ天門
元和4(1618)年に、境内にあった東照宮(寛永19(1642)年に焼失して再建されていません。)の随神門として建てられたこの門は、本堂の東側にあり、関東大震災、東京大空襲の際に焼失を免れた貴重な建造物で、重要文化財に指定されています。
   
        
弁天堂
境内にある弁天山と呼ばれる小高い丘の上に建つこの弁天堂は、昭和58(1983)年に建てられたもので、江ノ島(神奈川県藤沢市)の弁天堂、布施(千葉県柏市)の弁天堂とともに関東の三弁天のひとつに数えられています。
   
        
鐘楼
弁天堂の隣にあって、貞享4(1687)年に松尾芭蕉が、貞享4(1687)年に詠んだ「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んだ句で知られる浅草寺の鐘は、その後、五代将軍徳川綱吉の命により、元禄5(1692)年に下総国関宿藩主牧野成貞が、金200両を寄進して改鋳され、江戸時代に9ヶ所(上野寛永寺、日本橋石町など)にあった「時の鐘」のひとつです。
鐘楼そのものは東京大空襲で焼失しましたが、鐘は被害にあわず、現在も毎日朝6時に役僧により搗き鳴らされています。
   
     
影向堂(ようごうどう)
本堂の西側にあるこのお堂は、もとはニ天門の脇にありましたが、平成6(1994)年に鉄筋コンクリート造りでこの場所に再建されたもので、本尊聖観音像ほか8体の仏像が安置されています。
   
     
薬師堂
慶安2(1649)年に徳川家光により建立されたもので、「橋本薬師堂」と呼ばれ、浅草寺境内に現存する古い堂宇のひとつです。建立された当時は「北薬師」といわれていましたが、そばに小さな橋があったことから改名したようです。
   
   
淡島堂
江戸時代の元禄年間(1688~1704)に紀州(和歌山市加太)の淡島明神を勧請して建立されたことからこの名がついたもので、現在のお堂は、戦後に仮本堂として用いられていました。
昭和30(1955)年に本堂の再建が始まると、影向堂としてニ天門の脇に移築され、平成6年(1994)に境内の整備が行われるに伴い現在の地に曳屋作業で移築されたものです。
   
    
伝法院
 
浅草寺の本坊となる伝法院は、仲見世から宝蔵門に至る通りの左側にあり、春と秋の一時期だけしか一般公開されていません。(公開する時期は伝法院に問い合わせると教えてくれます。)
伝法院内の約3700坪ある庭園は、小堀遠州によって寛永年間(1624~1645)に築庭された回遊式庭園で、国の名勝に指定されています。
   
 
 
 
   
大書院  
     
  天祐庵
名古屋の茶人であった牧野作兵衛が、京都表千家の「不審庵」を模して天明年間(1781~89)に造ったもので、現在の建物は昭和33(1958)年に復元されたものです。
 
        
   
         
銭塚地蔵堂
地蔵堂の由来は、江戸時代の享保年間(1716~1735)に、境内で「寛永通宝」が入った壺が埋めてあったといわれ、これが地蔵堂の名となったとか。その名から商売繁盛を願う人が多く訪れるようです。
毎月4の日に法要が営まれますが、参拝者が塩を用いてお地蔵様の体を清めることから「塩なめ地蔵」の名があります。

寛永通宝は寛永13(1636)年に創鋳され幕末まで鋳造された通貨で、表には「寛永通寶」の文字があり、裏面には波形が刻まれていることから「波銭」とも呼ばれていました。
通貨としては明治以降も通用し、法的には昭和28(1953)年まで通用していました。
      かんかん地蔵
地蔵堂の隣にある石碑で、大日如来像であったとのことですが、地震や火災等で頭、手足等が崩れこのような形になったとのことで、参拝者が石を打って祈ると「かんかん」と音が出ることからこの名がついたようです。
  
 
     
六角堂
浅草寺境内で最古の遺構で元和4(1618)年の建立と伝えられており、都内では珍しい六角形の構造で建てられていて、東京都の有形文化財に指定されています。
六角堂の本尊は日限地蔵といい、日数を決めて願いをかけるとそれが叶うといわれています。
   
     
三峯神社
埼玉県秩父市にある秩父三峯神社の末社で、浅草寺境内に勧請された由来等は不明ですが、江戸時代に秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになったものが、狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、「三峯講」が関東・東北地方に多く組織されたとのことですので、火災の多かった江戸においてもその講が組まれて、この地に勧請したのではといわれています。
   
     
一言不動尊
薬師堂の隣にあるのがこの一言不動で、何か願い事を一つだけお祈りすると必ず成就するといわれています。中でもほおずき市が開かれる7月9日、10日の功徳は「千日詣」といわれ、この日にお参りすると四万六千日分(約126年分)のご利益があるとのことですので、一度願掛けしてみてはいかがです。
    出世地蔵尊
陽向堂のそばにある小さなお堂で、そのいわれ、建立時期は不明ですが、就職、転職そして会社での出世を願う方が訪れているようです。
 
              
久米平内堂
久米平内は肥後熊本で生まれた、江戸時代前期の剣術家で、江戸に出て道場を開いたのちに千人斬りの願をかけて辻斬りを行ったといわれ、その後自身で浅草寺境内に「仁王坐像」を設置し、罪業消滅を願い通行人に踏みつけさせたといわれています。その『踏みつけ』が『文付け』に転じて縁結び信仰の対象となっていました。
    恵比須・大黒天堂
江戸時代前期の延宝3(1675)年に奉納されたという恵日寿(恵比須)と大黒天の像が納められており、この像は弘法大師空海が造ったと伝えられています。
 
 
     
金龍権現(左)と九頭龍権現(右)
浅草寺縁起によると、本尊の観音様のご示現の際に、長さ百尺にも及ぶ金龍が舞い降りて、観音様をお守りしたとされていることから、浅草寺の山号を「金龍山」としたとのことで、これにより奉安されたのが左側の金龍権現であるとされています。
右側の九頭龍権現は、長野県戸隠の地主神で、昭和33(1958)年の本堂再建にあたって勧請されたもので、浅草寺の伽藍安寿の守護神となっています。
   
     
銭塚弁才天
弁才天は七福神の一人で、学問や芸能の上達、財宝や福徳の神として信仰されています。
   
     
 
長寿の仏さまといわれるめぐみ地蔵

 
平和地蔵尊
第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲での罹災者は100万人を超え、そのうち亡くられた人は8万人を超えたとされています。
このお地蔵さまは亡くなられた方々の霊を慰めるために昭和24(1949)年に安置されたものです。
              
  母子地蔵
第二次世界大戦の末期に、中国東北部(旧満州)において、突然のソ連の参戦により大混乱をきたし避難行の際に命を亡くした日本人の数は20万人を超えるいわれています。このお地蔵さまはその方たちの霊を慰めるとともに、今後このような悲劇が繰り返されないようにと安置されたものです。
    なで仏
宝蔵門のそばにあるこの仏さま、「おびんずるさん」、「おびんずるさま」、「えぺっさん」などとも呼ばれていますが、正式な名前はビンドラ・バラダージャといい、お釈迦様の弟子で、釈迦の正法を伝える十六羅漢の一人でもあります。
場所的には分かりにくいところですが、撫でるとその場所が健康になるとのことで、頭の先からつま先まで相当撫でられたのでしょう、ピカピカに輝いています。

              
  お水舎
昭和39(1964)年に建立された手水舎で、手水鉢には高村光雲作の龍神像が置かれています。
  胎内くぐりの灯篭
淡島堂の手前にあるこの灯篭、江戸時代に造られたもので、燈籠の下をくぐることで虫封じや疱瘡除けになると伝えられ子供たちがくぐっていたといわれています。
 
 
        
ニ尊仏
一般的には「濡れ仏」といわれており、左側が勢至菩薩、右側が観音菩薩で、貞享4(1687)年に群馬県館林出身の高瀬善兵衛が願主となって建立したもので、江戸時代初期を代表する仏像です。
   
     
  石橋
現存する都内で最古の石橋といわれ、元和4(1618)年に浅草寺境内に東照宮が造営された際に、参詣のための神橋として、徳川家康の三女振姫の婿である和歌山藩主浅野長晟の寄進により造られたもので、重要美術品に指定されてます。
 
     
  鳩ポッポの歌碑
本堂前の広場に設置されたこの歌碑は、東くめ作詞、滝廉太郎作曲による童謡「鳩ポッポ」の歌碑で、東くめが明治33年に、境内で鳩と遊んでいる子供たちを題材に作詞したもので、昭和37(1962)年に造られたものです。
 
     
  迷子しらせ石
鳩ポッポの歌碑のそばにある石標で、正面に「南無大慈悲観世音 菩薩まよひこのしるべ」、右側面には「しらする方」、左側面には「たずぬる方」と刻まれています。
江戸時代に迷子の情報を交換するために設けられたもので、「たずぬる方」には迷子の特徴を記した紙を張り付け、「しらする方」には預かっているこの特徴を記した紙を張り付けていました。
この「迷子しらせ石」は日本橋にある一石橋のたもとと湯島天神(奇縁氷人石と石標にあります。)にも残されています。
    戦災公孫樹
樹齢800年を超すといわれる大公孫樹、源頼朝公が挿した枝が基といわれていますが、東京大空襲の戦禍を生き残ったもので、浅草寺の神木とされています。
              
  瓜生岩子像
福島県会津に生まれ、その半生を児童教育、貧困救済等の社会福祉事業にささげ、明治29(1896)年に女性として初めて藍綬勲章を授与された人です。
    力石
都内のお寺や神社でよく見かける力石、江戸時代後期に、人足達のうちの力持ちが酒樽や米俵を持ち上げて、その力を競っていましたが、この力石は明治7年に熊次郎という男が持ち上げた百貫(375㎏)の石で、当時浅草寺の門番であった神門辰五郎達が記念して碑を造ったものです。
              
  写経供養塔
信徒の人達が浅草寺に納めた、写経の経題と巻数を奉納しているもので、平成6(1994)年に建立されたものです。
    夫婦狛犬
浅草神社境内の神楽殿横にある狛犬ですが、一対の狛犬は神社の本殿の両側に離れておかれていることが普通ですが、ここの狛犬は寄り添っておかれて、相合傘をさしており、「良縁」、「恋愛成就」、「夫婦和合」の願いを込めて祀られているようです。

恋愛成就、良縁を望まれる方は是非一度訪れてみてはいかがですか。
 
   
  浅草神社
浅草寺本堂の右隣にあり、「三社権現」、「三社様」と呼ばれており、毎年5月には三社祭、正式には浅草神社例大祭が開催されることで有名です。
正面は拝殿でこの奥に、幣殿がありますが、この社殿は慶安2(1649)年に三代将軍徳川光圀公の寄進により造営されたもので、度重なる江戸の大火、地震、空襲などの被害を免れ、国の重要文化財に指定されています。
 
   
  暫像
境内駐車場奥にあるこの像は、明治時代の歌舞伎役者で、「劇聖」と称賛された九代目市川團十郎が十八番である『暫』を演じている銅像で、十二代目市川團十郎の襲名を機に復元されたものです。
 
     
  石井漠「山を登る」記念碑
浅草寺境内にある奥山の地域は、江戸時代に芝居・見世物小屋が並んで庶民的芸能が盛んなところでした。
その奥山で、浅草バレエを旗揚げし、近代バレエの創造に尽力した石井漠の活動を記念するために、実妹・栄子と共に踊った「山を登る」の姿を碑に刻んで、作家谷崎純一郎らが昭和38(1963)年に建てたものです。
 
     
  喜劇人の碑
奥山に建てられたこの石碑は、浅草をはじめとして国内各地で、人々に笑いと喜びを与えてくれた喜劇人たちに感謝の意を表すために、昭和57(1982)年設けられたもので、森繁久彌による題字が刻まれています。
碑の裏面には川田晴久、古河ロッパ、堺駿二、柳家金語楼、伴淳三郎、渥美清、森繁久彌など数十人の喜劇人の名が刻まれています。
 
   
 
 
     
        
        
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