ロカ岬とシントラ  
   
ロカ岬

ツア―のスタートはロカ岬から。
リスボンからバスで小一時間のところにあるロカ岬は、北緯38度47分、西経9度30分のところに位置しており、ユーラシア大陸の最西端の場所です。岬は高さ約140mのところにあって、はるか下にある大西洋から吹き上げる風が強く吹いていて、下を見下ろすと岩礁に打ち寄せる波が砕け散っているのが見えます。
 
     
    
        
岬の突端には、上部に十字架のある石碑があり、碑には「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」という碑文が刻まれており、中央部には石碑を建てたシントラ市の紋章があります。
この碑文は、ポルトガルで最大の詩人といわれているルイス・デ・カモンイスが、大航海時代にマカオに赴任していた際に執筆をはじめ、帰国後の1572年に発刊した叙事詩『ウズ・ルジアダス』の中に出ている言葉です。
   
 
     
  ロカ岬灯台
岬にあるこの灯台は、ポルトガルとして3番目にできた灯台で、稼働し始めたのは1772年ということですから、日本で最初の洋式灯台ができたのが1869(明治2)年の観音埼灯台ですので、それよりも約100年近く前に稼働し始めています。
 
    
シントラ

ロカ岬から約15分でシントラに到着です。ここシントラは、8世紀から9世紀にかけてムーア人が城砦を築いたところです。
城砦は、ポルトガル王国を建国したアフォンソ1世のレコンキスタによって、1147年この城塞の殆どが破壊され、現在はその城壁の一部が山の上に残されています。町には、シントラ宮殿、ペーナ宮殿、レガイラ宮殿といった歴史ある建物が多く残されており、これらの建築物は1995年に「シントラの文化的景観」としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。
 
    
ペーナ宮殿
ペナ宮殿とも呼ばれていますが、正式な名称はペーナ国立宮殿(Palácio Nacional da Pena)といい、19世紀のロマン主義を象徴する建築物として知られており、1836年にフェルナンド2世によって、1775年のリスボン大地震により倒壊したペーナ修道院の跡に夏の離宮として用いるために建てられたものです。
宮殿は、イスラム、ゴシック、マヌエル、ルネサンス様式が混在し、その色使いも少し変わっていて何とも不思議なスタイルの宮殿です。
時には「ポルトガルのノイシュヴァンシュタイン城」とも呼ばれているようですが、ノイシュヴァンシュタイン城を何度も見ている私にはそういう風には見えないんですけど・・・
 
    
   
     
宮殿の入口となる門
門の上部には中東の国でよく見かけ、魔除けとして用いられる「ファティマの手」があり、アズレージョ(azulejo)の部分にはバラの花の彫刻、そして下のアーチには鍵が彫刻されています。
アズレージョは、典型的な釉薬をかけて焼かれたタイルで、一般家庭はもちろんのこと、駅構内、教会、宮殿とポルトガル文化の典型的な要素となっているものです。
アズレージョは、ムーア人からスペインを経由して、15世紀のマヌエル1世の時代にポルトガルに入り、このシントラ宮殿で用いられたのがはじまりで、当初はムデハル模様のような幾何学模様が主流でした。17世紀に入ってオランダのデルフトからデルフト焼きが入り、それまでの反復模様と抽象的装飾から、現在のような歴史的光景を描生き、かつ、青白の造形的タイルが主流となって現在に至っています。
   
 
     
  第2の門
門の黄色い部分にはフェルナンドⅡ世の紋章があります。門にある丸い彫刻の部分はマヌエル様式の特徴のひとつである葡萄をあしらったものです。
 
     
  アズレージョのある壁面には、マヌエル様式の彫刻が施され、右側には貝や葡萄の葉、そして海の守護神であるトリトンの彫刻があります。  
 
     

宮殿内のステンドグラス
 
フェルナンドⅡ世の胸像
 
ドナ・アメリア王妃の肖像画
 
宮殿の窓から見るムーアの城壁
 
     
   
ダイニングルーム   キッチン  
       
ムーアの城跡
   
ペーナ宮殿から離れたところにあるムーア人が7~8世紀にかけて造ったといわれる城跡が見えます。城は現在廃墟となっていて、城壁が残るだけとなっているようですが、お城大好き人間の私としては時間があれば行ってみたいのですが、ツアーの中での限られた時間では遠くから写真を撮るだけです。
     
シントラ宮殿
 
   
イスラム人がこの地を支配していた7~8世紀にかけ造られた城がシントラの宮殿の始まりとされていて、アフォンソ1世がシントラを征服した後の14世紀に、ジョアン1世が夏の離宮として建築、その後建築を繰り返した結果、イスラム様式、ゴシック様式そしてマヌエル様式が混在した現在の姿になったといわれているこの宮殿、大きな白い2本の煙突が特徴的です。
宮殿は、ポルトガル王家の代々の住まいとなって、そのたびに新しい画法の装飾やタイル装飾、家具などが付け加えられ、18世紀のリスボン大地震での被害を受けたのちも修復が行われ、20世紀のはじめに共和国制となるまで王家がたびたび訪れていました。
      
  白鳥の広間の天井
ジョアン1世によって造られた宮殿の中で一番広い部屋がこの広間で、天井には生涯伴侶を変えないといわれる27羽もの白鳥がポーズを変えて描かれています。
この部屋は賓客の応接、晩餐会や舞踏会に用いられていたところで、1584年8月にキリシタン大名として知られる大友宗麟によってローマに派遣された、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人の少年を中心とした天正遣欧少年使節団が、ポルトガル王国副王であったアルベルト・アウストリア枢機卿に謁見した部屋です。ただ、その当時この部屋には白鳥の絵は描かれていなかったとか。
 
     
 
カササギの間の天井
天井には「PORBEM」と書かれた短冊を咥え、足にバラの花をはさんだ136羽又は152羽いるともいわれているカササギが描かれています。
ジョアン1世が、宮殿の侍女とキスをしているところを王妃に発見され、善意(PORBEM)から行ったことだと言い訳をし、おしゃべりの象徴であるカササギの絵を侍女の数だけ描かせたともいわれています。
 
 
    
  カエサルの間
ジュリアス・シーザーの名で知られたガイウス・ユリウス・カエサルの名がつけられたこの部屋には、カエサルの姿が織り込まれたタペストリーが架けられています。
 
 
     
  ガレー船の間と名付けられた部屋の船底型をした天井には、大航海時代をしのばせる何艘もの帆船の絵が描かれています  
 
     
  紋章の間
ドーム型の天井には、王の紋章を中心にその周囲を8人の王族の紋章、そしてさらにその周りをヴァスコ・ダ・ガマをはじめとする貴族72人の紋章が飾られています。
部屋の周囲は狩りをテーマとしたアズレージョとなっています。
 
 
     
  炊事場の煙突
外から見える巨大な2本の煙突の正体は、この炊事場にありました。高さ33mあるといわれる煙突、使われなくなってから久しいと思いますが、漆喰を塗りなおしたのでしょうか、黒く汚れてはいません。周りには3ヶ所の明り取りと思しき窓のようなものが設けられています。
 
     
レガレイラ宮殿


12世紀に建てられた王族の別邸を、20世紀のはじめに改築して宮殿としたもので、建物よりも池や地下道、螺旋階段など遊び心を誘われる庭には子供が喜ぶところかもしれません。
   
     
   
宮殿内にある教会  
     
     
 
     
   
     
   
宮殿内の壁のフレスコ画(上左)と床にあるモザイク画(上右)  
     
  暈(かさ)
シントラ宮殿の観光をしているときに現れた、「日暈(ひがさ、にちうん)」、「白虹(はっこう、しろにじ)」とも呼ばれる、珍しい太陽光学現象です。
 
       
     
     
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