スコピエ
 
マケドニアの首都であるスコピエ、1世紀ころからローマ帝国、東ローマ帝国、第一次ブルガリア帝国、セルビア帝国そして14世紀から約500年間はオスマン帝国の支配下となり、第二次世界大戦時には町は枢軸国の一部であったブルガリア王国の軍によって占領され、1944年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国であるマケドニア社会主義共和国の首都となるなど、幾多の変遷を経て1991年にユーゴスラビアから独立したマケドニア共和国の首都となった町です。
町は人口約50万人、1963年に起きた地震で市域の80%が被害を受け、日本人建築家の丹下健三氏によって再建計画が策定され、中心部は新しい建物が建築されています。
 
   
  市内を走るダブルデッカー
ツアーのバスを運転していたドライバーによると「このバスは中国製だよ」
そういえばヨーロッパ各国を旅行して多く見かけるようになった彼の国の人たち、モスタルで見かけただけで他のところでは会わずじまい、静かでいいですね。
 
        
丘の上にはスコピエ城塞が見えます。    
        
   
市内を流れるヴァルダル川(バルダル川またはアクシオス川とも表記されています。)沿いはマケドニアの官庁街となっています。左は外務省、右は財務警察  
       
  マザー・テレサ・スクエア
後にあるのはオペラ座の建物です。
 
     
   
地図を見ると「Art Bridge」となっているので「芸術橋」とでも呼ぶのでしょうか、「スコピエ2014」のプロジェクトの一環として2014年に架けられた長さ83mの歩道橋の両側には29体ものマケドニアのアーティストと音楽家の彫像が置かれています。まるでプラハのカレル橋のように。    
        
  マザー・テレサのプレート
ここスコピエはノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサの生まれた地とあって、町の建物の壁にはこのようなプレートがいくつもあるのを見かけました。
 
        
  こちらは芸術橋の上流にある「Eye Bridge」、直訳すれば「目橋」ですけどなんて呼ぶのでしょうか。芸術橋と同じように「スコピエ2014」プロジェクトにより架けられたもので、欄干にある彫像の数は28体あります。  
     
  古石橋(Stone Bridge)
芸術橋の上流にあるこの橋は「カメン・モスト」とも呼ばれており、オスマン帝国時代の15世紀半ばメフメトⅡ世によって最初の橋が架けられた長さ214mのアーチ橋でスコピエのシンボルとなっている橋です。
橋は11世紀に発生した地震や1689年のカルポス蜂起などで破損を受けるものの修復が繰り返され、第二次世界大戦の際にはドイツ軍によって爆薬が仕掛けられたようですが、危うく爆破の難を逃れたようです。
 
   
  マケドニア考古学博物館
「スコピエ2014」プロジェクトにより2014年に完成した博物館で古代マケドニアからの歴史がわかる展示物があるようです。
 
     
  古石橋から見るマケドニア広場
広場の中央にはアレキサンダー大王の騎馬像があります。
 
   
アレキサンダー大王の騎馬像
古代ギリシャのマケドニア王国の君主であったアレキサンダー大王は、マケドニア(『マケドニア旧ユーゴスラビア共和国』)にとっても偉大なる王であることには変わらず、国名同様にギリシャが反発してもこの像を置くことにこだわっているのでしょうか。(噴水は朝9時になると突然出てくるので写真撮影は要注意!)
     
 
     
   
マザー・テレサの生家跡
マケドニア広場から少し離れたところにマザー・テレサの生家跡があります。生家は左の写真の中央部のLで囲まれたところですがそんなに広くありません。
マザー・テレサ(本名はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ)は1910年8月26日にこの地で生まれて翌27日にキリスト教の洗礼を受け18歳までここで暮らしており、その後アイルランド、イギリスそしてインドのカルカッタ(現在のコルカタ)に移り貧しい人々のための活動を行って、1973年に宗教間の対話・交流に貢献のあった存命の宗教者・思想家・運動家等に贈られるテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、そして1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受け、1996年にはアメリカ名誉市民にも選ばれています。
 
     
  マケドニア門(ポルタ・マケドニア)
マケドニア広場から南のほうへ歩いたところにあるペッラ・スクエアにある高さ21メートルの凱旋門で、「スコピエ2014」プロジェクトにより2012年に完成したものです。
それにしても彫像の多い町です。
 
     
カルポシュ蜂起広場
カメン・モストを渡ったところにあるこの広場はオスマン帝国に対し蜂起したカルポシュを記念する広場です。
オスマン帝国の重臣であったカルポシュはマケドニア北部のクマノヴォに近いヴォイニクという村の出身で、オスマン帝国が弱体化し、また新たな税制に対する不満が高まってきた1689年に反乱軍に身を投じ、クマノヴォを解放し、オーストリア軍とともにスコピエの解放を目指しましたが、反乱軍の要塞があるクリヴァ・パランカでの戦いの後オスマン軍により逮捕され、カメン・モストにて処刑されました。
     
 
     
スコピエ城塞
ケールの要塞とも呼ばれるるこの城塞は、バルダル川の北岸、旧市街のスタラ・チャルシヤを見下ろす小高い丘の上に位置し、11世紀頃の建造とされる城塞です。
お城大好き人間としては上まで上って写真を撮りたかったのですが、時間が取れなく城壁の撮影だけで断念。
     
 
     
   
スタラ・チャルシャ
スコピエの旧市街にあるバザールで、イスタンブールを除いてバルカン半島では最大のバザールで、12世紀以来、街の交易と商業の中心となり、オスマン帝国時代に急速に発展し、最も栄えた時代には30を超えるモスク、多数のキャラバンサライ(隊商宿)があったようです。訪れたこの日は日曜日おまけに朝早い時間とあって店も開いておらず人もまばらです。
 
     
ムスタファ・パシャ・ジャーミヤ
1492年にキリスト教の聖堂があったこの地にムスタファ・パシャによって建てられたモスクで、マケドニア有数の美しいイスラム建造物のひとつとして知られています。
    
 
     
スコピエの旧市街はいろいろ見るところもあるようですが、わずか1時間半の観光ではこれだけ回るのが精いっぱいです。10時少し前に最後の訪問国コソボに向けて出発です。  
     
     
     
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