タリン歴史地区 その1  
        



ラトヴィアとエストニアの国境

リガのホテルを出発してから欧州自動車道E67号線を走ること約2時間、ラトヴィアとエストニアの国境に到着です。
従前、国境を超えるには、この国境検問所でパスポートなどの国境検査が必要でしたが、ラトヴィアとエストニアは2004年の5月にシェンゲン協定加盟国となり、国境検査は省略されています。ラトヴィアのアイナジ(Ainaži)とエストニアのイクラ(Ikla)の間に設けられた国境検問所下の写真)は、現在ドライブインのような形となり、休憩をとる人たちが少なくありません。
 
   



今年2018年が、1918年2月14日にエストニア第一共和国の独立を宣言してから100周年に当たるとのことで、国全体を上げてイベントが行われているとのことで、そのモニュメントとして置かれているものです。
 
   



午後1時半過ぎにエストニアの首都であるタリンに到着です。
ここタリンは、13世紀のはじめにデンマーク王のバルデマール2世がエストニア人の要塞集落を占拠してトームペアと名付けた城塞を築いたのがはじまりとなっています。
町は13世紀の終わりにハンザ同盟に加盟して貿易港として発展し、その後ドイツ騎士団、スウェーデン領、ロシア帝国領となっていました。
1918年にエストニア第一共和国としてロシアから独立すると、その首都となりましたが、その後ドイツ軍にそして第二次世界大戦後はソ連に占領されていましたが、1991年にエストニア共和国として独立し首都となりました。
町の旧市街は、「タリン歴史地区」として、1997年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。
右の写真は昼食をとったレストランから撮影したタリンのフェリーターミナルです。
 
   
 


モルック(Molkky)に興じる人たち

モルックとはフィンランドで生まれたスポーツで、ちょっとボーリングに似ていますが、モルックと呼ばれる長さ20cmくらいの丸い木製の棒を投げて、スキットルと呼ばれる1から12まで番号のついた的に当て得点を競い合う競技です。
競技は2チームで行われ、50点を先にとったチームが勝ちとなる競技で、日本でも行われているようですが、初めて見ました。
 
 
   



カドリオルグ宮殿(Kadriorg Palace)

タリン郊外にあるこの宮殿は、ロシアのピョートル大帝が、皇妃エカテリーナに捧げるために1718年から5年かけて、イタリア人建築家のミッケチの設計により完成した、バロック様式の宮殿で、現在は美術館として用いらています。
庭園は、カドリオルグ公園として一般に開放されています。

訪れたこの日は土曜日とあって、宮殿前の広場で多くの子供たちが、キャンバスを立てて絵を描いていました。
 
   

ネプチューンの噴水
 
    
 


広島の被爆敷石

庭園内の北側には、日本庭園が設けられていますが、その入り口付近に置かれているこの石は、2011年10月に「ひろしま・祈りの石の会」から贈られた石です。
石は、広島市内の相生橋付近に設置されていた市電の線路の敷石で、1945年8月6日の原子爆弾の投下を受けて被爆しています。
石には「平和を願う婦人像」が彫られており、同会はこれを世界各国に、世界平和をめざすシンボルとして贈り続けています。
 
         
 


日本庭園

2011年に、京都の造園設計家である曽根将郎氏の手により完成した日本庭園で、カドリオルグ公園の他の木々などとマッチするように造られ、桜、ツツジ、シャクナゲなど寒いエストニアの中でも育つ植物が植えられています。
 
 
   
 
レンゲツツジ  
    
 


公園にはマロニエの並木道が続いています。その奥にはルサルカ号記念碑が見えます。
の記念碑は、ロシアの軍艦ルサルカ号が、1893年の9月5日にヘルシンキに向かう途中に嵐のため遭難し、乗組員177名全員が亡くなられたことを慰霊するために建てられたものです。
 
 
   
 
白鳥の池と池の前の広場  
     
  木造住宅
ヨーロッパではあまり見かけない古い木造住宅、町の北側にはカラマヤ(Kalamaya)という地域があって、そこにはこのような木造住宅が建ち並んでいるようです。

もう少し撮りたいけど、バスの中からの撮影だけです。
 
 
    
 


タリンのホテルは旧市街ほど近いヒルトンホテル。
ホテルの前には、警察ガーデン(Politseiaed)という変わった名前の公園があります。
この地域は19世紀ごろに陸軍の菜園があったところで、1910年の独立後には、警察の菜園となっていたことからこの名がついたとのことです。
菜園は、第二次世界大戦後に、公園として一般に開放されています。
園内には直径1.5m以上、高さ2m以上ある巨大な植木鉢が置かれていますが、植えられている木は造木ではありません。
また、数種類の健康器具が設置されていて、いつでも、だれでも好きな時にこの器具を利用できるようになっています。ジムに通う必要もないので、日本にもあるといいんですがね。
 
 
   
 


合唱祭広場(Tallinna Lauluväljak)

カドリオルグ公園の北側にあるこの広場は、イベント開催地となっており、1959年に造られて以来、一年を通して、たくさんの大規模コンサートやフェスティバルが催されています。
この広場では198年にソ連に対して大規模な音楽デモが行われ、これがエストニアの再独立へのきっかけとなったいわれています。
広場では5年に1度「エストニア・歌と踊りの祭典」というのが開催され、最大で出場者が3万人以上、集まる観衆が20万人にものぼる祭典が開催されています。
右の銅像は、エストニア人にとって第二の国歌ともいわれている「わが祖国、わが愛」を作曲した、「エストニアの音楽の父」と呼ばれる作曲家グスタフ・エルネサクス(Gustav Ernesaks)の像で、広場の奥にイベント会場を見渡すように置かれています。
 
 
   


エストニア国立劇場(Estonian National Theatre)

タリンの町の中心部にあって、エストニア大通り(Estonia Puiestee)に面して建てられているこの歌劇場は、1913年にフィンランド人建築家のアルマス・リンドグレンとウィヴィ・ロンの設計により、アール・ヌーヴォー/新古典派様式でたてられたもので、当時としてはタリンで最大のでした。
劇場は、1944年にソ連軍の空襲で破壊されましたがその後再建されています。
建物の左側部分が国立オペラハウス、右側がエストニア•コンサートホールとなっています。
(余りにも横幅が広く一枚の写真に収まりません。)
 
 
    
 


エストニア銀行博物館(Bank of Estonia Museum)

エストニア大通りとサカラ通り(Sakal)の角にあるこの建物は、1904年にアダムズ銀行の本部として建てられたもので、現在は銀行博物館として。エストニアのお金の歴史や中央銀行の活動などを紹介しています。


右はレヴァライア(Lliivalaia)通りとラヴァラ通り(Rävala Puiestee)の角で見る新市街の風景です。
 
新市街
 
    
 


トームペア城(Toompea loss)
タリン旧市街西側のトームペアの丘の上にあるこの城は、エストニア人が11世紀ころまでてに造った木造の城がもととなっており、13世紀には、デンマーク王の支援を受けていたリヴォニア帯剣騎士団(後にドイツ騎士団に併合されています。)が占領して、本格的要塞の建設をはじめ、その後も拡張・改修を重ねて18世紀には現在のような姿になったいわれており、ヨーロッパ100名城のひとつに数えられています。
城壁の後ろに見える塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれる高さ50.2mある塔です。
なお、この城は、ロシアからエストニア独立した後は、国会議事堂として用いられています。
   
 
 
 
エストニア国会議事堂
議事堂正面の上部にはエストニアの国章が刻まれており、国旗が掲げられています。
 
 



アレクサンドル・ネフスキー大聖堂(St. Alexander Nevsky Cathedral )

国会議事堂の正面に建つこの大聖堂、エストニアが帝政ロシア時代の支配下となっていた19世紀末に典型的なロシア復古主義のスタイルで建てられたもので、ロシア正教の玉ねぎ型のドーム屋根が特徴となっています。この屋根がロシアの支配を想起することから、一時は破壊することも考えられたようですが、独立後は破壊されずに修復が行われ現在に至っています。
 
   
   
 
      



聖母マリア大聖堂(Cathedral of St. Mary the Virgin)

聖母マリア教会またはトーム教会と呼ばれているこの教会は、13世紀に建てられたルター派の教会で、創建後幾たびか修復が繰り返えされ、さまざまな建築様式が混じり合っています。
鐘楼は170年代ににバロック様式で増築されたものです。
   
 
   
 
トームペアの丘には、パックトリ(Patkuri)展望台とピースコピ(Piiskopi)展望台という展望台が2ヶ所あり、そのいずれからもタリンの町並みが一望できます。  
    
     
 
デンマーク王の庭園への入口
13世紀のはじめにデンマーク王とバルデマール2世が、トームペアを攻略する前に宿営したといわれることから「デンマーク王の庭園」と呼ばれています。門を潜った庭園側には何故か顔のない僧侶と思しき三体の像が置かれています。
この辺りは修道士の幽霊が出るとの言い伝えがあるようですが、ちょっと不気味ですね。
 
   
 


庭園側から見るトームペア城の城壁(左)と庭園下にあるデンマーク王の国旗(右)
城壁の中央に建てられている四角い形の塔は、「処女の塔」と呼ばれていますが、14世紀に建てられたもので、防護塔として用いられ、その後、娼婦を収容した牢獄として利用されました。現在は博物館として用いられています。
ダンネブロ (Dannebrog) と呼ばれるデンマークの国旗はこの地が発祥の地とされており、伝説によると、バルデマール王の軍が、エストニア人との戦闘能力を失っていた時、空が開き、白い十字架が描かれた赤い旗が天から舞い降りました。それが聖なる兆候となり、デンマーク軍に勝利への拍車がかかることとなったとのことです。
 
 
   
 


短い足通り(Lühike jalutuskäik)
トームペアの丘から旧市街の下町に通じる道で、2つのゲートを抜けると、急な坂道と階段が続きます。我々は丘から下りでしたが、逆に上りは結構きつそうな坂道です。

トームペアの丘があるところは、貴族たちの上流階級が暮らしたいたところですが、ここからは下町、商人や市民が暮らしていたところです。
   
 
 
   
短い足通りの終わるところには、エストニアで20世紀半ばに活躍した芸術家の作品を展示しているアダムソン・エリック博物館(adamson-ericu muuseum)という博物館があります。(上左の写真)
ここを過ぎると「長い足通り(ピック・ヤルク Pikk Jalg )」(上中央の写真)となります。長い足通りは、短い足通りに比べると緩やかな下り坂です。右端の写真は長い足通りの入口です。
自宅に帰ってからいろいろ調べていたら、長い足通りには、長い長靴のモニュメントが吊り下げられていたようですが、下り坂で下ばかり見ながら歩いていたので見落としています。残念。
 
         
 


ニクリステ博物館(Niguliste kirik)
長い足通りに沿って建てられているこの博物館、1230年代に建てられた聖ニコラス教会を転用して博物館としており、創建当初は、要塞としての機能も持ち合わせた堅固な造りでしたが、第二次世界大戦では爆撃により破壊されており、1980年代に再建されて宗教芸術のみを対象とする博物館となりました。
内部には、15世紀のドイツの画家であり彫刻家であった、バートン・ノトケ(Bernto Notke)が描いた『死の舞踊(Danse Macabre)』という絵が展示されており、内部の音響効果が優れていることから、週末にはコンサートも開かれているとのことです。。
中に入って見たかったけど、外観の写真を撮るだけです。
 
 
   
   
   
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