東京歴史さんぽ その1

都内に残されている江戸時代から明治・大正そして昭和初期にかけての史跡を訪ねてみました。
 
日本橋(重要文化財)
旧日本橋川に架かるこの橋、「お江戸日本橋七つ立ち」の歌で知られる日本橋です。
江戸時代に入ってすぐの慶長8年(1603年)に江戸と地方を結ぶ拠点として架けられたのが最初で、現在の橋は明治44年(1911年)に架けられた19代目となる石造二連アーチ橋です。
昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックに向けての道路整備で、前年の昭和38年に首都高速(首都高速環状線)が造られ橋の上を通っているため景観はよくありませんが、2020年開催予定の東京オリンピックに向けて日本橋川に空を取り戻すという機運が高まっています。
因みに日本橋の読み方は「にほんばし」で、大阪の道頓堀川に架かる日本橋は「にっぽんばし」です。
 
  
   
 
上右は橋の南詰にある「日本橋由来」の碑で、中央の写真の橋の親柱には青銅製の獅子の像の彫刻が施されており、「にほんばし」(南詰)の橋名盤は徳川幕府最後の将軍15代徳川慶喜によるものです。上右は中柱で台座の上には2頭の麒麟が両橋詰を向いて施されています。  
    
日本国道路元標(重要文化財)
日本橋の北詰にあり地下鉄銀座線の三越前駅のB5出口を出てすぐのところにあります。
日本橋は5街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)の基点となったところで当時の一里塚の里程の原点でありました。
下左の写真は東京市道路元票の柱と日本国道路元標そして左右に里程標があり、中央はその昔橋の中央にあった東京市道路元標と日本国道路元標のプレート、右の写真は日本橋中央にある道路元標地点碑(首都高速の高架橋上)です。
 
   
 
   
日本橋魚市場発祥の地碑
日本橋の北詰下流側にある碑で、徳川幕府が江戸に開かれて摂津より佃島に漁民が移り幕府献上の魚を収めていましたがこの残りをこの地で江戸の市民に販売していたのが魚市場の始まりです。
日本橋魚市場は大正時代まで約300年間続きましたが関東大震災により壊滅、その後現在の築地に移転となりました。
碑の後ろにある像は乙姫の像で「龍宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まった」ということから設けられたものです。
 
   
日本銀行本店
常盤橋交差点付近は江戸時代に金貨鋳造所の「金座」がおかれていたところで、文禄4年(1595年)徳川家康が後藤庄三郎光次(彫金師)を江戸に招いて小判鋳造を始めたのが金座の始まりで、明治2年までこの地で鋳造が行われていました。
この本店の建物は明治29年(1896年)ベルギーの国立銀行を参考にして建てられたもので、東京の建築遺産50選に指定されており、国の重要文化財となっています。
(魚眼レンズで撮影)
 
   
龍閑橋
江戸時代に日本橋川と神田川の間に造られた堀が龍閑川と呼ばれており、現在は川は埋め立てられてその面影はありませんが、大正15年(1926年)に架けられた橋の親柱と橋桁の一部が残されています。
「龍閑」の名は江戸時代この地に江戸城殿中接待役の井上龍閑の屋敷があったことからに由来しています。(所在:中央区日本橋本石町4丁目)
 
 
一石橋の親柱と迷子知らせ石標
一石橋は江戸城の外濠が日本橋川と分岐する地点に江戸初期からあった木橋で、橋の北詰に幕府の金座御用の後藤正三郎、南詰には呉服商の後藤縫殿助がいたことから「両後藤=五斗+五斗=一石」で、一石橋となったとか。親柱は4本ありましたが、高速道路の工事で撤去されたりして現在残されているのは大正時代に造られたこの一本だけ、都内最古の親柱です。
橋の南詰めには安政4年(1857年)に橋の西河岸の家主たちが建立した高さ約1.8mの石柱で、正面に朱で「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」の石柱があり、左面に「たづぬる方(尋ねる方)」、右側に「志らする方(知らせる方)」と刻まれており、「たつぬる方」には年頃、顔形、履物、着物等迷子の尋ね紙を貼り付け、「志らする方」には思い当たる人が見かけた情報を記した紙を貼り付けていました。
(所在:中央区八重洲1丁目11)
 
 
    
三浦按針屋敷跡の碑
イギリス人のウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)は慶長5年(1600年)東インド会社の航海士として乗船中に暴風により大分県の佐志生に漂着。後に徳川家康の通商顧問となり日英貿易に貢献してこの地に屋敷を賜っており、昭和の初めまでこの地は「按針町」と呼ばれていました。最初に建てられた記念碑は戦災により破壊され昭和26年(1951年)に再建されたものです。
碑はビルの谷間にありチョット探しにくくなっています。(所在:中央区日本橋室町1-10)
 
   
郵便発祥の地碑
明治4年(1871年)前島密の創意により東京-大阪間で郵便制度がスタート。この地は当時の駅逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)がおかれていたところで、現在の日本橋郵便局の玄関脇に碑が掲げられています。
(所在:中央区日本橋1丁目18-1)
 
   
石町時の鐘
江戸時代では鐘を撞いて時を知らせていました。当初江戸城内に置かれていましたが寛永3年(1626年)に本石町三丁目(現在の日本橋本町4丁目)に鐘を移し鐘楼を建てて、江戸城からの太鼓の音を基準にして鐘を撞いており、近くに長崎屋があったため「石町の鐘はオランダまで聞こえ」、「石町は江戸を寝せたり起こしたり」の川柳が詠まれていました
現在の鐘は宝永8年(1711年)に鋳直されたものでコンクリート製台座は現在の地に移設したときに造られたものです。
(所在:中央区日本橋小伝馬町5-2 十思公園内)
 
   
京橋
日本橋から東海道を上ること約1kmで当時この地を流れていた京橋川に架けられていたのが京橋です。今は埋めたてられて川の面影はありませんが明治時代と大正時代に架けられた橋の親柱が残されています。
左から明治8年(1875年)の親柱、大正11年(1922年)の親柱、そして築地警察署銀座一丁目交番は京橋にあったガス燈の頭部を生かして建てられています。(所在:中央区銀座1-2-4)
 
      
銀座発祥の地
銀座の地名の由来は江戸時代に設立された貨幣の鋳造所のことで、金座が「金貨」の鋳造であったのに対し、銀座は銀および銀貨の鋳造を行っていました。
慶長6年(1601年)に京都の伏見に創設されたのが始まりで、後に駿府(現在の静岡市葵区両替町)にも銀座役所が設置されており、駿府の銀座役所は慶長12年(1612年)に当時新両替町といっていた当地に移転し、寛政12年(1800年)に江戸の蛎殻町に移転するまで銀貨の鋳造が行われていました。
明治維新後の2度に亙る大火で銀座一帯が焼失するという被害があり、都市の不燃化を目指して明治6年(1873年)にロンドンのリージェント・ストリートをモデルにした銀座煉瓦街ができましたが、関東大震災で煉瓦街も壊滅的な被害を受けて復興するものの、太平洋戦争末期においても銀座7、8丁目の一部を除いて又壊滅的な被害を受けています。
(所在:中央区銀座2-7)
 
 
  京橋大根河岸青物市場跡の碑(左)
江戸時代この地は京橋川の河岸となっており、遠近の村々から多くの野菜が荷揚げされことに大根の江戸市民の荷揚げが多かったことから「大根河岸」と呼ばれるようになったようです。
この青物市場は築地に市場が開設されるまで寛文年間(1661~1672年)から昭和10年ごろまで約280年間続けられていました。
江戸歌舞伎発祥の地碑(右)
江戸三座(中村座・市村座・森田座)のひとつである「中村座」の始祖猿若勘三郎(初代 中村勘三郎)が寛永元年(1624年)この地に猿若座を建て、常設歌舞伎の劇場の始まりとなったところです。
(所在:中央区京橋3-4)
 
 
   
開運橋の親柱
海運橋は江戸時代に楓川(もみじがわ)と日本橋川が合流する地点に架けられていた橋で、「高橋」と呼ばれ幕府の御船手頭(船手奉行とも海賊奉行とも呼ばれる)であった向井将監の邸があったことから「将監橋」とも「海賊橋」とも呼ばれていました。
開運橋と呼ばれるようになったのは明治時代に入ってからで、現在は川が埋め立てられ上に高速道路が走っておりこの親柱だけが残されています。(所在:中央区日本橋兜町3先)
 
   
鎧橋(よろいはし)
当時の日本橋川に架かる橋は無く、明治5年に橋が架けられるまでここには鎧の渡しがあり、江戸の市民はこの渡しによって川を渡っていました。渡しの風景は江戸時代の元禄年間(1688-1704年)の切り絵図や安藤(歌川)広重描く「江戸名所百景」にも載っていたとのことです。
橋の名前の由来は源頼義が奥州平定の途中この地で暴風に遭遇したため、鎧を投げ込んで龍神に祈り波風を静めてもらい渡ったとの伝えからきているとのことで以来ここを「鎧ヶ淵」と呼んでいたようです。(所在:中央区日本橋兜町1-3先)
 
   
兜神社
東京証券取引所と日本橋川の間にある神社で奥に引っ込んでいるおり、高速道路の高架下にあるので知らずに通り過ぎてしまうかもしれないところにあります。
神社がある兜町の由来は平将門の兜を埋めて塚にした所を兜山と云ったところからきているいるということで、神社の縁起としては平将門の兜からきているという説と源義家が奥州征伐の際暴風雨にあって鎧を沈めて竜神に祈って無事を祈ったところで、都への帰途兜を埋めて塚を築き埋めて神を祭ったという説の二通りがあるようです。
右の写真は兜岩で、源義家が兜をかけた岩といわれています。(所在:中央区日本橋兜町1-8)
   
 
   
於岩稲荷田宮神社
四代目鶴屋南北による戯曲「東海道四谷怪談」(初演は文政8年(1825年))の主人公「お岩」の伝承を持つ神社で、当時の歌舞伎役者であった市川左団次の所有地であっといわれるこの地に明治の初めに創建されています。(所在:中央区新川2-25-11)
写真は左から社殿、狐塚、百度石です。

この百度石は四代目市川右団次が上演を記念して奉納したもので、田宮家の陰陽勾玉の家紋を型どった丸石を上部にのせて造られており、中央区内に残っている百度石では最古のもので、現在でもお百度参りをする人が少なくないとのことです。
     
 
   
小網神社
日本橋七福神詣の1つの神社で、稲荷大神を主祭神とし、540年前に鎮座した歴史ある社で強運厄除のパワースポットとして紹介されており、毎年11月28日に行われるどぶろく祭は関東3大どぶろく祭の1つとされ多くの人が訪れます。
(所在:中央区日本橋小網町16-23)
 
   
佃波除稲荷神社
佃堀のそばにひっそりと建っている神社で波除大明神(左)と於咲稲荷大明神(右)があります。(由緒を調べたけど不明)
鳥居のそばには佃の漁師が力自慢に用いていた「力石」(さし石と書かれている)が三つ置かれています。
 
 
   
清洲橋
関東大震災後の復興事業として当時ドイツのケルンにあったヒンデンブルグ橋をモデルにして「中洲の渡し」のあった中央区日本橋中洲と江東区清澄に間に架けられた橋で、竣工は昭和3年(1928年)。国の重要文化財に指定されています。
 
   
永代橋
隅田川に架けられた橋の中では四番目に古い元禄11年(1698年)に五代将軍徳川綱吉の50歳を祝して架けられたとい古い歴史があり、「永代」の名は当時この地が「永代島」と呼ばれていたからとか、徳川幕府が末永く続くようにとの願いを込めた意味もあるようです。当時は現在の橋より100mほど上流に架けられていたようです。元禄15年(1702年)12月15日の赤穂浪士の吉良邸討ち入りでは、討ち入り後に浪士たちがこの橋を渡って泉岳寺まで向かったとのことであり、また、文化4年(1807年)8月には深川八幡の祭礼時につめかけた群集の重みに耐え切れず橋が落下、江戸市民1400人が亡くなるという史上最悪の落橋事故がおきています。
現在の橋は関東大震災後の大正15年に復興事業の第一号として架けられたもので「帝都東京の門」といわれていたとのことで、2007年に国の重要文化財に指定されています。
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赤穂浪士休息の地碑
石碑には元禄15年(1702)12月15日早朝、本所松坂町(現 墨田区両国3丁目)の吉良邸に討ち入りを行い無事本懐を遂げたのち一ツ目通り(現在の萬年橋通り)を経て主君浅野内匠頭が眠る高輪泉岳寺に向かう途中、永代橋に差し掛かった時に橋の東詰にある乳熊屋味噌店が上棟を行っており店主の作兵衛が義士たちに甘酒粥を振舞い労をねぎらったとのことで、義士の一人である大高源吾が棟木に由来を記したと記されています。

所在は江東区佐賀1丁目の永代橋東詰にある交番の手前角を曲がって数十m歩いた右側のビルの駐車場のところです。(光が反射して読み難いですけど)
 
   
佃島の渡しの碑(左)と石川島燈台跡(右)
佃島は隅田川にできた自然の寄洲
(波浪などのために、河口・海岸などに土砂が吹き寄せられて 自然に出来た州)で、徳川家康が江戸に摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたことから「佃」の名がとのことで、この島と対岸の間を結んでいたのが「佃の渡し」です。渡しはなんと昭和39年(1964年)に佃島大橋が完成するまで続いていました。(所在:中央区佃1丁目)
右の「石川島燈台」は石川島人足寄場奉行清水純畸が慶応2年(1866年)に隅田河口や品川沖航行の船舶のため、寄場南端に常夜灯を築かせたもので住吉神社水門の反対河岸に六角二層で建てられていました。現在のモニュメントは佃公園に建てられたもので、モニュメントの下は公衆便所となっています。
   
 
   
石川島人足寄場のプレート
池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主人公であり、火付盗賊改方長官であった長谷川平蔵宣以が老中松平定信に建議して寛政2年(1790年)に創設されたのがこの人足寄場(正式名称は「加役人寄場」)で、当時の江戸の無宿人、軽罪人・虞犯者の自立支援施設であり、明治維新までおかれていました。
(所在:中央区佃2丁目3-14)
 
   
   
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