東京歴史散歩 その2
 
南町奉行所跡
徳川幕府は江戸を治めるため寺社奉行、勘定奉行そして町奉行の三奉行を設けましたが、このうち直接江戸市民に直接関係するのが町奉行でした。町奉行は旗本から任命され、江戸府内の行政、司法、警察等の業務に当たり、南と北の町奉行所が交代(月番)で任に当たっていました。
南町奉行所は当初常盤橋御門内にありましたがその後数寄屋橋門内に移転して幕末まで置かれていました。現在の有楽町駅中央口の地下に下りる階段の裏側にその記念プレートが置かれています。
   
数寄屋橋の碑と歌碑
数寄屋橋は寛永6年(1629年)に江戸城外濠に架けられた橋でしたが、現在は埋めたれられて橋も撤去されており、その地名だけが残っています。
ここ数寄屋橋は戦後間もない昭和27年(1952年)にそのドラマが始まると銭湯の女風呂が空になった言われるほど一世を風靡した菊田一夫作の「君の名は」の舞台となったところであり、昭和32年(1957年)にはフランク永井による「有楽町で逢いましょう」が大ヒットしてデートコースとして有名になったところであり、石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲「銀座の恋の物語(銀恋)」の舞台となったところです。
(所在:中央区銀座西4丁目及び5丁目)

 

数寄屋橋公園の石碑

菊田一夫による数寄屋橋の碑
 
       

有楽町で逢いましょうの歌碑
 
銀恋の歌碑
 
   
 
勝どき橋
隅田川が東京湾に注ぐところに位置する築地と対岸の月島には橋が無く明治38年(1905年)1月に日露戦争における旅順陥落を記念として「勝どきの渡し」が始まりました。月島はその後埋め立てが終わったことから工場が進出し橋の設置の要望が多く昭和8年(1933年)に着工開始、当時は隅田川を陸運よりも水運が主流であったことから、中央部を跳開により大型船舶の通航を可能にする設計が行われ昭和15年(1940年)6月に竣工し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどでした。
橋は当初1日5回ほど跳開していましたが、高度成長時期になると陸運が盛んになり航行する船も減少して跳開する回数が激減、昭和42年(1967年)を最後に通行のための開閉が停止されました。この橋は清洲橋、永代橋とともに重要文化財に指定されています。
(晴海には国際見本市の会場があり、ここで展示会が開かれるときには勤めていた会社が出品していたので営業部時代には毎年この橋を渡って通っていたのを思い出します。それも当時運行されていた都電が車両混雑のためノロノロ運転となり時間がかかるので築地で電車を降りて歩いて会場まで行っていました。今から40年以上前のことです。)
 
   

佃大橋のたもとより撮影
 
橋の南詰めより撮影

 
         
 
左の写真は水上バスより撮影した橋の開口部で、右の写真は橋のたもとに設置されている「かちときのわたし」の碑です。  
 
   
波除稲荷神社
明暦3年(1657)に発生した火災は延焼面積、被災者(一説には死者は3万とも10万人とも言われ戦火、震災の被害を除いては日本最大の被害とのこと)が江戸時代最大のものでこれにより江戸城の天守も焼失し、以後江戸城は天守のない城となりました。この火事以降江戸の町の再建に当たって築地の埋め立て工事が行われましたが荒波により難航する中で海中より光るご神体が発見され、以後波が収まって難航していた工事が順調に進んだことからこのご神体が波除の神様として信仰を集めました。
埋め立て工事が完成したのは萬治2年(1659年)、「災難を除き、波を乗り切る」波除稲荷として創建されたのが築地の波除稲荷神社です。(所在:中央区築地6丁目)
 
鳥居をくぐると左手に弁財天舎があり中には総重量700kgの「お歯黒獅子」が収められており、正面に昭和12年(1937年)に総檜で建てられた社殿(左の写真)、右手には平成2年(1990年)に再建された獅子殿があり中には樹齢3千年という黒檜を用いて造られた重さ1tの「波除天井大獅子」が収められています。
このほか境内には商業の守り神とあって、「魚がし碑」、「活魚塚」、「鰹塚」、「すし塚」、「海老塚」などの碑があり、すぐそばの築地市場の人たちや市場にきた人達が訪れています。
     
 
   
築地本願寺
本願寺は元和3年(1617年)に浅草横山町に建立され「江戸浅草御坊」と呼ばれていましたが、「明暦の大火(振袖火事)」(明暦3年(1657年))により本堂を焼失、同地での再建が許されず八丁堀沖の埋め立てでできた土地(この埋め立て工事が地名築地の由来)に延宝7年(1679年)に再建されました。
寺は関東大震災後に発生した火災により焼失、昭和9年(1934年)に「インド様式」の石造りで再建され現在に至っており、国の登録有形文化財に登録されています。
 
    
浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕の地
中央区明石町にある聖路加看護大学の裏手には忠臣蔵で有名な赤穂藩の上屋敷跡と作家芥川龍之介生誕の地の碑が同じ道筋にあります。
赤穂藩の上屋敷は現在の聖路加国際病院のあたりに8900坪余を有していましたが、内匠頭の刃傷そして切腹後幕府に取り上げられお家は断絶しています。
芥川龍之介は明治25年(1892年)3月にこの地で生まれ7ヵ月後に母の長兄芥川家に引き取られその後養子となっています。(所在:中央区明石町10)
   
 
      
聖路加国際病院トイスラー記念館
芥川龍之介生誕の地の看板を過ぎてすぐの角を曲がったところにあるこのトイスラー記念館は昭和8年(1933年)に聖路加国際病院の宣教師館として建てられたもので、現在の建物は平成10年にこの地に移築されましたが創建当時の西洋風住宅として築地居留地の面影を残しています。(所在:中央区明石町10)
 
   
カトリック築地教会聖堂
この教会の前身は明治4年(1871年)に鉄砲洲の稲荷橋近くに建てられた「稲荷橋教会」で、明治し7年(1874年)に明石町の築地居留地に移ったものです。創建当時の聖堂は関東大震災で焼失し、昭和2年(1927年)に再建されたものです。(所在:中央区明石町5-26)
   
 
       
 アメリカ公使館跡の記念碑
明治元年(1868年)に明石町付近に外国人居留地が設けられ、アメリカ公使館も明治8年(1875年)から赤坂(現在のアメリカ大使館)に移転する同23年(1890年)までおかれていました。記念碑は独立当時のアメリカ合衆国をあらわす13星や星、白頭鷲の記念碑があります。(所在:聖路加タワーの川沿いにあるテラス付近)
   
     
電信創業の地碑
明治2年(1869年)当時の横浜裁判所(神奈川奉行所から改称)と築地運上所(後の東京税関)の間、32kmに亙って電信線架設工事が行われ、同年12月25日より電信業務が開始されて日本の公衆通信がスタートしました。
といっても現在の電話回線とは違って「ブレゲ指字電信機」というフランス製の電信機で送信速度は1分間当たり5、6文字程度というスピードでした。
運上所跡(東京税関発祥の地)
徳川幕府は慶応3年(1867年)に明石町一帯を外国人居留地として定めましたが、これに伴い税関業務を行う運上所をここに設けました。東京税関発祥の地です。
碑は料亭の壁に沿うように置かれておりチョット探しにくい感じがします。
 
 
シーボルトの胸像
ドイツ生まれのフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトはオランダの商館医員として文政6年(1823年)に長崎の出島に到着し診療に当たるほか長崎郊外の鳴滝に鳴滝塾を開設して西洋医学や自然科学の分野で高野長英、二宮敬作、伊東玄朴らを指導していました。その後文政9年(1826年)3月にはオランダ商館長の随員として江戸に向かい約1ヶ月間蘭学の指導を行っていました。
その後文政11年(1828年)に帰国する際に荷物のなかに最新の日本地図が見つかるというシーボルト事件が発生国外退去処分となりましたが、嘉永6年(1854年)に開国が行われた後に追放令も解除され安政5年(1859年)にオランダ貿易会社顧問として再来日し、文久元年(1862年)に帰国するまで幕府顧問として勤めていました。
この胸像はシーボルトが日本の蘭学の発展に寄与し、また、娘の「いね」がこの地に産院を開いたことから日蘭の橋渡し役としての功績に報いるため置かれています。
(所在:中央区明石町 あかつき公園内)
 
月島の渡し跡
月島1号地の埋め立てが完了して間もない明治25年(1892年)に土木請け負う業を営む鈴木由三郎が、私設の渡船を南飯田町(現在の築地7丁目)と月島(現在の月島3丁目)の間に有料で有料で運営し始めたのが始まりで、明治34年(1901年)に東京市が市営化して無料で渡船を行っていました。
月島の発展に伴い利用者が急増し明治44年(1911年)には徹夜で運行したという記録もあるようですが、勝どき橋が完成した昭和15年(1940年)以降には利用者が減少してその後廃止されました。
      
 
稲荷橋の橋名標
鉄砲洲通りの交差点の角にあるこの橋名標、江戸時代堀川の「八丁堀」が流れていたところで、橋名の由来は、鉄砲洲稲荷神社があったことによっていました。明治時代に入って八丁堀は「桜川」と名前を変えその後埋め立てられているので、この橋名標がわずかに当時を偲ばせているだけです。
(わずか数十センチの高さの石標ですので上を見ていたら見落としてしまいます。)
   
 
 
鉄砲洲稲荷神社
鉄砲洲稲荷神社の歴史は古く、承和8年(841年)に当時桜田郷(現在の桜田門交差点付近)の住民が産土神を生成太神(いなりのおおかみ)として祀ったことに始まっており、その後入り江の埋め立てで京橋に遷座して「京橋稲荷神社」と呼ばれていました。江戸時代に入っての寛永元年(1624年)には稲荷橋近くに遷座し、その後境内には「富士塚」が築造されて富士山信仰で訪れる人で賑わっていたとのことです。明治元年(1868年)に現在の地に遷座しており関東大震災で被害を被ったものの昭和10年(1935年)に再建されています。(所在:中央区湊1
-6-7)
(クリックすると大きな画像が表示されます。)
 
   
   
鉄砲洲通りから撮影 富士塚 力石 百度石 境内で見る社殿
 
   
南高橋(みなみたかはし)
亀島川に架かる橋で、明治38年に架橋され関東大震災によって被害をうけた両国橋の三連トラスト橋の一部を利用して昭和7年に竣工したもので、奇しくも明治時代の遺構が残っており、車両も通行可能な鋼鉄トラスト橋としては都内最古のもので中央区の有形文化財に指定されています。
(所在:中央区新川2丁目~湊1丁目)
 
 
住吉神社
佃島にあるこの神社は徳川家康が天正18年(1590年)に関東へ下降する際に摂津の国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が江戸鉄砲洲向かいにある干潟を下賜されここを「佃」と命名し、天保3年(1646年)に摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分社として創建されたものです。
境内にある水盤舎の水盤には背面に「天保十二年(1831年)丑正月 白子組」と刻まれており、水盤舎の欄間には石川島の燈台や佃の渡しなどの風景が浮き彫りで描かれています。また、境内入口の鳥居には陶製の扁額が掲げられていますが、有栖川宮幟仁親王が明治天皇が北海道より還幸される際の出迎えの途中立ち寄って記したものといわれており、中央区の文化財に登録されています。(所在:中央区佃1-1-14)

(クリックすると大きな画像が表示されます。)
 
 

社殿

水盤舎

陶製扁額のある鳥居

扁額

鰹塚
 
   
佃島渡船場跡
佃島と対岸の船松町(現在の佃大橋の西詰め付近)の間に正保2年(1645年)から手漕ぎの渡し舟が通り、昭和2年(1927年)2月まで運行が続けられ同年3月に曳船の渡船となりました。渡船は昭和39年(1964年)に佃大橋が完成するまで300年間以上続けられていました。
(左渡船の碑は佃大橋の両側にあります。右側の写真は月島1丁目付近の隅田川沿いから見る佃大橋です。)
 
    
        
        
        
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