東京歴史さんぽ その10(南千住界隈)  
      
江戸時代は、北に向かう日光街道の初めての宿場町であった「千住」、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれていた宿場町でした。
地名の由来は、嘉暦2(1327)年に荒川(隅田川)で、網に千手観音像がかかり、この地を「千手」と呼んだことによるとされてます。
江戸時代から明治の初めにかけてこの地には江戸三大刑場のうちのひとつである「小塚原刑場」があったところでもあります。
ここ南千住は、松尾芭蕉が元禄2(1689)年に弟子の河合曾良を伴って奥の細道の旅に出立したところで、南千住駅西口の広場には、矢立を持った芭蕉の像が置かれています。

江戸三大刑場は、このほかに鈴ヶ森刑場(品川区南大井)、大和田刑場(八王子市大和田町)がありました。
   
 
     
南千住回向院

正式名称は「豊国山回向院」といい、過去は両国回向院の別院でしたが、現在は独立しており、小塚原回向院とも呼ばれています。
寺は、小塚原刑場での刑死者を供養するため、寛文7(1667)年に常行堂を創建したことがはじまりで、刑場で磔刑、火刑、斬首された刑死者は埋葬せず申し訳程度に土を被せるのみで、夏には一帯に臭気が充満し、野犬などによる食い散らかしなども多かったといわれています。
刑場は、明治初期に廃止されましたが、処刑者は実に20万人を超えるといわれ、文政5(1667)年に相馬大作が処刑されて以降、国事犯の刑死者の死体が埋葬され、安政の大獄、桜田門外の変での刑死者などが埋葬されました。


所在地:荒川区南千住5-33-13
    観臓記念碑
明和8(1771)年蘭学者の杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らが刑死者の解剖に立ち会い、オランダ語で出版された『ターヘル・アナトミア』と見比べ、その正確さに発奮して、安永3(1774)年に『解体新書』解体新書5刊を完成、西洋学術書の翻訳のもととなり、蘭方医学の発展に寄与しました。
観臓記念碑は、大正11(1922)年に奨進医会(日本医学会の前身)により当堂内により設置されましたが、太平洋戦争の戦禍にあったため、解体新書の絵扉をかたどった浮彫青銅版を設置したものです。
 
 
     
相馬大作供養碑
相馬大作とは、江戸時代の南部藩士下斗米秀之進の別名で、弘前藩主津軽寧親の相馬大作事件(暗殺未遂事件)の首謀者でした。
相馬大作事件とは、南部氏の一族であった大浦氏(後の津軽氏)が独立し、南部氏の領地を奪取した安土桃山時代から続いていた盛岡藩と弘前藩の確執が、文政3(1820)年に弘前藩津軽氏の石高が主家筋であった盛岡藩南部氏の石高を超えたことから、藩内に不満が増大。
翌年になって下斗米秀之進は、弘前藩主津軽寧親に果し状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を予告。
これを無視した津軽寧親を暗殺しようと、参勤交代で帰国する途中の秋田県角館において同志ら数人と襲撃を企てるも、密告により未遂に終わり、捕縛を逃れるため相馬大作と名を変えて江戸に隠れ住んでいましが、幕吏に捕らえられて、小塚原刑場で文政5(1822)年に獄門の刑に処せられ事件です。

   
     
吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎の墓
安政5(1858)年、大老井伊直弼、老中間部詮勝らが勅許を経ずして日米修好通商条約を締結、更に将軍継嗣を徳川家茂に決定。これらの諸策に反対した者たちを弾圧した安政の大獄事件において斬罪とされた長州毛利大膳家臣の吉田松陰、越前松平家臣の橋本佐内、京都町儒者の頼三樹三郎をはじめ、水戸藩士の鵜飼吉左衛門と幸吉の父子達の墓があります。
 
吉田松陰の墓
 
橋本佐内の墓
 
頼三樹三郎の墓
 
     
桜田十八烈士の墓
安政の大獄後の安政7年3月3日(1860年3月20日)、ひな祭りのため在府の諸侯は祝賀へ総登城することになっており、降りしきる雪の中、彦根藩上屋敷(現在の千代田区永田町1-1-1憲政記念館)を出発した大老井伊直弼の一行は、桜田門近くで待ち受けていた関鉄之助をはじめとする水戸浪士達18名の襲撃を受けて井伊直弼が落命、斬首された『桜田門外の変』、に加わった「桜田烈士」または「十八烈士」とも呼ばれる浪士たちの墓です。
   
     
左より
江戸時代後期に大名屋敷を中心に窃盗を繰り返し、義賊とも呼ばれ小塚原で処刑された鼠小僧次郎吉(本名は次郎吉)の墓(両国回向院にも墓があります。)
河内山宗俊とともにゆすり、たかり、詐欺などを繰り返し、小塚原で刑死した「直侍」こと片岡直次郎の墓(墓は吉原の遊女三千歳により建立されています。)
明治初期に夫を毒殺し「明治の希代の毒婦と呼ばれ、日本で最後に斬首刑となった高橋お伝(本名 でん)の墓(墓は谷中霊園にもあります。)
江戸時代の侠客で、傷を負った自分の腕を子分に鋸で切り落とさせた、腕の喜三郎こと野出の喜三郎の墓
   
   
吉展地蔵
寺の入口に建立されているこの地蔵は、「吉展ちゃん事件」の被害者である村越吉展ちゃんの霊を供養するため村越家により建立されたものです。
「吉展ちゃん事件」とは、昭和38(1963)年3月31日に、村越吉展ちゃん(当時4歳)が、台東区入谷町にある自宅そばの公園に遊びに行き行方不明となり、その後身代金要求の電話があり、誘拐事件に発展。
警察は日本で初めて報道協定を結んで犯人捜査にあたり、犯人の要求にこたえて身代金50万円を指定場所に持って行くも身代金のみ奪取され、吉展ちゃんは戻らず、そのまま迷宮入りかと思われていました。
2年後の昭和40(1965)年5月に警視庁が、当時、「昭和の名刑事」、「警視庁の至宝」、「落しの八兵衛」と呼ばれた平塚八兵衛刑事を投入して再捜査にあたり、容疑者の一人だった元時計職人・小原保(当時30歳)より自供を引き出し、すでに殺害されていた吉展ちゃんの遺体は、南千住にある円通寺境内の墓地より発見されました。
犯人の小原保は、逮捕後の昭和42(1967)年10月13日に最高裁において死刑判決確定、昭和46(1971)年12月23日に宮城刑務所において死刑が執行されています。
 
 
     
首切地蔵
回向院から常磐線のガード下を潜ったところにある延命寺にある地蔵で、もともと延命寺のある場所は、回向院の敷地でしたが、常磐線建設のため分断されて独立寺院となりました。
この首切地蔵(延命地蔵尊)は、刑死者の菩提をとむらうため寛保元(1741)年に造立されたもので、花崗岩を用いており、高さは約3.6mあります。
地蔵像は、平成23(2011)年3月の東日本大震災で、一部破損しましたが、現在は修復が完了しています。
左の写真にある「南無妙法蓮華経」と刻まれた石塔は、「題目塔」と呼ばれ、元禄11(1698)年に京の商人らによって造立されたもので、小塚原刑場のあったことを象徴する石造物として、地蔵とともに荒川区の有形文化財に指定されています。

所在地:荒川区南千住2-34-5
   
 
     
千住大橋
 
最初に架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3(1594)年のことで、現在の位置より200mほど上流にあった「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」の渡船場があったところとされており、隅田川に最初に架けられた橋でした。橋は単に「大橋」と名付けられ、佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋となっていました。「千住大橋(小塚原橋とも呼ばれていました。)」と呼ぶようになったのは、下流に両国橋などが架けられてからのようです。
橋は何度も架け替え、改修が行われ、昭和2(1927)年に現在のような鉄橋となったもので、橋の構造であるタイドアーチ橋としては日本最古のものです。
 
所在地:荒川区南千住6丁目付近
 
   
     
素戔雄神社

延暦14(795)年に役小角の弟子である黒珍が、牛頭天王・飛鳥権現の二柱の神が降臨した奇岩を祀って創建したと伝えられる神社で、古くから厄病除けで知られ、江戸時代にコレラが流行した際には、疫除守を求めて参詣者が群れ集まりました。明治時代に入っての廃仏毀釈により、祭神名を素盞雄大神・飛鳥大神へ改め、社名も素盞雄神社へ改称しています。
境内には、松尾芭蕉の「奥の細道」旅立ち記念碑があります。
また、3年に一度6月に行われる「天王祭」では重さ千貫の神輿渡御が行われますが、普通の神輿は担ぎ棒が4点棒(井桁の状態)であるのに、前後方向の二点棒の神輿で、これを左右に振りながら担ぐということですから、かなり見ごたえがあるのではないでしょうか。

所在地:荒川区南千住6-60-1
   
     

                            社殿
 
社殿前の獅子山と狛犬                      
 
     

                          神楽殿
                    左から福徳稲荷、菅原神社、稲荷神社  
   
社殿の横には芭蕉の碑がありますが、手前には千住大橋に見立てた小さな石橋があります。    
       
橋の先には石碑が二つあり、
右側の碑は、俳聖芭蕉をしのんで、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により、文政3(1820)年の芭蕉忌の際に建てられたものです。
碑には奥の細道の一節が刻まれていますが、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読しにくくなっていますが、下のように刻まれています。

千寿といふ所より船をあがれば
前途三千里のおもひ胸にふさがりて
幻のちまたに離別の
なみだをそそぐ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」
    左側にある碑は、文字が殆ど判読できませんが、芭蕉が詠んだ矢立初めの句
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」が刻まれています。
 
 
     
  富士塚
元治元(1864)年に設けられたもので、頂上には浅間神社があり、当時は参詣する人で大いに賑わっていたようです。
 
     
  瑞光石
素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩と いわれ、伝承によると、文政12(1829)年に編纂された「江戸近郊道しるべ」の中に、千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現隅田川)まで延びていた為に橋脚が打ち込めなかったとされています。
 
    
橋本佐内の墓旧套(さや)
 
素戔雄神社のすぐそばにある荒川ふるさと文化館前に建てられたこのお堂は、南千住回向院にあったもので平成21(2009)年に荒川区に寄贈されたものです。
この旧套堂は、橋本佐内の墓を保護するために、昭和8(1933)年に幕末の安政の大獄で刑死した橋本左内を追慕し、遺徳を広く発揚することを目的として、建てられたものです。
注:套堂とは、鞘堂と同じ意味を持ち、本体の建物などを保護するために、それを覆うように建てられるものです。

所在地:荒川区南千住6-63-1
   
 
       
旧千住製絨所跡

明治維新後、新政府で使用する軍服、制服等は輸入により賄われていましたが、外貨の減少を抑えるために国産化することが検討され、被服製造技術を学ぶため技師をドイツに派遣するとともに、千葉県内に牧羊場を設けて羊毛の生産を開始、明治12(1879)年にこの地に千住製絨所が完成して生産を開始しました。
工場は、その後火災により焼失し、再建後は国内繊維・被服産業の発展に大いに貢献していましたが、昭和20(1945)年敗戦により一切の操業を停止。その後民間に売却ましたが、業績不振により昭和35(1960)年に閉鎖、製絨所は80余年の歴史に幕を閉じています。
跡地は一時期大毎オリオンズ(現 千葉ロッテマリンズ)の本拠地野球場東京スタジアムとなっていましたが、親会社の大映の経営破たんにより閉鎖撤去され、現在は煉瓦塀が一部残るだけとなっています。
写真は都立荒川工業高校グランド付近の塀です。

所在地:荒川区南千住6-42-1
   
     
井上省三像
井上省三は、旧長州藩士で奇兵隊隊長として倒幕運動に参加。明治維新後は4年間ドイツにおいて被服製造技術を学び、千住製絨所の初代所長として、それまで輸入に頼っていた羊毛製品、洋服の国産化を実現した井上は、「日本毛織物工業の父」と称されています。

所在地:荒川区南千住6-43(荒川スポーツセンター横)
   
    
円通寺にある旧寛永寺の黒門

慶応4(1868)年に上野で行われた新政府軍と彰義隊との間の上野戦争は、寛永寺の根本中堂など主要な伽藍を焼失しましたが、被害にあわなかった総門(黒門)を移設したものです。
門のあちこちに当寺の弾痕が残されており、戦闘の激しさを伝えています。

所在地:荒川区南千住1-59-11
   
 
     
  彰義隊士の墓(右)と死節の墓
上野戦争で戦死した彰義隊士の供養を行い、荼毘に付して266体の遺骨を境内に埋葬しています。また、死節の墓は、神田の雑貨商であった三河屋幸三郎が、自らの別荘内で彰義隊をはじめ鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者を供養していたものをこの地に移設したもので、土方歳三、近藤勇などの名前と「神木隊二十八名」と刻まれています。

このほか榎本武揚や後藤鉄次郎をはじめとする彰義隊士の供養碑、神門辰五郎の碑などがあります。
 
        
        
        
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