東京歴史さんぽ その11  
    
雑司が谷鬼子母神
    
豊島区雑司が谷3丁目にある鬼子母神(きしもじん)堂は、すぐそばにある法明寺の飛地境内の中にあり、室町時代の永禄4(1561)年に目白台にある井戸の中から、当時雑司の役を務めていた柳下若挟守の家臣である山村丹右衛門が掘り出して祀ったのがはじまりとされており、安土桃山時代の天正6(1578)年に堂宇が建てられ、寛文4(1664)年に本殿が建立され幾たびか改修、拡張され現在に至っています。

鬼子母神とは、仏教を守護する夜叉で、女神ヤクシニーのことをいい、「きしもじん」または「きしもしん」と読みます。
(所在地:豊島区雑司が谷3-15-20)
   
 
  境内に入ると阿形と吽形の金剛力士像が迎えてくれます。
金剛力士は、仏教の守護神のひとつで、一般には「仁王」の名で呼ばれており、寺院の仁王門の左右に、仏敵が入り込むことを防ぐ守護神として安置されていますが、ここでは石像で屋外に置かれています。
左が口を結んで怒りを内に秘めた「吽形」像、右が口を開け怒りの表情を顕わにした「阿形」像です。
 
   
   
本殿
本殿は、拝殿・相の間・本殿を一体化したいわゆる権現造で建てられており、寛文4(1664)年の創建で、平成28(2016)年に国の重要文化財に指定されています。
 
 
本堂に掲げられた扁額
扁額の「鬼」の字は、上に点がありませんが、これは字が間違っているのではなく、本堂横にある鬼子母神像(右の写真)を見てもわかるように鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけた姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用いています。
 
 
   
  妙見堂
本殿の背面に接して反対向きに祀られていて、鬼子母神堂の附(つけたり)として重要文化財に指定されています。
 
   

金剛不動尊が安置されている法不動堂
 
山岡鉄舟の石碑
 
地主神である武芳稲荷
 
樹齢600年といわれる大銀杏(秋に撮影)
 
   
  みみずく公園と境内のみみずくのベンチ
鬼子母神の参道手前に「雑司が谷みみずく公園」と名付けられた公園があり、境内にもみみずくの像があるベンチが置かれています。
なんでかなと思って調べてみたら、「すきみみずく」といって、豊島区の郷土玩具で、貧しさゆえに病気の母親の薬を買えなかった娘が鬼子母神に祈ったところ、夢の中に鬼子母神が現れ、「ススキの穂でみみずくを作り、それを売って薬代にしなさい」とのお告げがあり、娘がそのお告げ通りにしたところ、飛ぶように売れて、母の薬を買うことができたと伝えられ、以来、鬼子母神の境内で売られるようになり、現在も境内で参詣土産として売られています。
 
 
     
雑司ケ谷大鳥神社

正徳2(1712)年に、鬼子母神堂の境内に鷺大明神として創祀され、明治に入っての神仏分離令によって鬼子母神より少し南にあるこの地に大鳥神社として移ったもので、雑司が谷七福神の恵比須神が祀られています。 (所在地:豊島区雑司が谷3-20-14)
 
   
     
清立院(せいりゅういん)

   
雑司が谷七福神の毘沙門天像が祀られている清立院は、鎌倉時代の寛喜年間(1229~1289年)頃に、真言宗の清瀧院として創建されましたが、創建後の正嘉年間に疫病が発生した際に、当寺に寄宿していた法華の旅の僧が祈願して庶民を救ったことから日蓮宗に改修して現在に至っています。

(所在地:豊島区南池袋4-25-6)
 
     
  十一面観音像
ガラスケースに収められているので少し反射が発生しています。
    雨乞の松
正嘉年間(1259)大旱魃が起きたときに、この松に雨が降るように願いを込めて効果があったとのことで、以後旱魃が起きるごとに農民たちが集って雨乞をしたと伝えられていますが、現在の松は何代目のものなのでしょう。
 
     
雑司ヶ谷霊園
    永井荷風の墓
代表作「あめりか物語」、「ふらんす物語」、「墨東綺譚」などで知られる小説家で、昭和34(1959)年4月30日に満79歳で亡くなられています。
都営の雑司ヶ谷霊園は、池袋に近い住宅街の中に明治7(1874)年開設されたもので、小説家や音楽家など文化人が眠る墓所が多くあります。そのうちのいくつかを訪れてみました。

(所在地:豊島区南池袋4-25-1)
 
        
  小泉八雲の墓
ギリシャ生まれの新聞記者で、パトリック・ラフカディオ・ハーンが出生時の名前。
明治23(1890)年に日本に来日、その後日本国籍を取得して小泉八雲となり、「耳なし芳一のはなし」をはじめとする多くの怪談小説や随筆等を執筆。明治37(1904)年9月26日に満54歳で亡くなられています。
    泉鏡花の墓
石川県で生まれ、明治後期から昭和の初期にかけて「高野聖」、「婦系図」など多くの小説や戯曲を執筆。作品は舞台での上演や映画化されるなどしています。昭和14(1939)年9月7日に満65歳で亡くなられています。
              
  竹久夢二の墓
「夢二式美人」と呼ばれる抒情的な美人画を多く発表した大正ロマンを代表する画家で、詩、歌謡、童話なども発表。中でも明治45(1912)年に発表した「宵待草」の詩は、大衆歌として発表されると多くの人たちが口ずさむほど流行していました。昭和9(1934)年9月16日に満49歳で亡くなられています。
    夏目漱石の墓
本名を夏目金之助といい、江戸時代末期に東京牛込で生まれ、正岡子規と知り合って俳句を学び、帝国大学(現 東京大学)卒業後にイギリスに留学。帰国後に「吾輩は猫である」を発表。以後、「坊っちゃん」、「草枕」、「三四郎」など多くの小説を発表していました。大正5(1916)年12月9日に満49歳で亡くなられています。
 
        
金乗院
 
     
室町時代の天正年間(1572~1593年)頃の創建と伝えられている金乗院は、真言宗の寺院で、正式名称を神霊山金乗院慈眼寺といい、江戸三大不動・江戸五色不動のひとつである目白不動としてて知られています。
当初は中野区中央にある宝仙寺の末寺で蓮華山金乗院の名でしたが、その後護国寺の末寺となって神霊山金乗院となりました。
寺は太平洋戦争末期の戦災で本堂等を焼失しており、現在の本堂は昭和46(1971)年に再建されたものです。
:境内ある目白不動尊は、文京区関口にあった新長谷寺(しんちょうこくじ)の本尊である不動明王像が、新長谷寺が戦災により壊滅的な被害を受けて廃寺となったため移されたものです。

(所在地:豊島区高田2-12-39)
 
     
   
本堂   不動堂(目白不動尊)  
     
  倶利伽羅不動庚申
寛文6(1666)年に建立されたもので、不動明王の倶利伽羅剣に龍が巻き付いて彫られています。
この龍は、人間を罪過か守る青面金剛の化身といわれ、下部にはその罪を神に伝えないという意味で、見ざる聞かざる言わざるの三猿が彫られています。
    青柳文蔵の墓
江戸時代後期の仙台出身の商人で、仙台藩に収蔵した書籍約1万冊と1000両を贈り、藩がこれを図書館として公開、日本で最初の図書館となり「公開文庫」と名付けられていました。
文庫の蔵書は戊辰戦争で散逸しましたが、現在では仙台市にある宮城県図書館に約3300冊が蔵書として所蔵されており、「青柳文庫」としても知られています。
 
     
  丸橋忠弥の墓
丸橋忠也の出自は定かでないものの、江戸において宝蔵院流槍術の道場を開き、その後知り合った軍学者の由井正雪とともに、慶安4(91651)年に徳川幕府転覆を計画するも、決行寸前で仲間の裏切りにより計画が露見し、同年8月磔の刑に処せられています。
この幕府転覆計画は、「慶安の変」、「慶安事件」、「由井正雪の乱」とも呼ばれています。
 
     
     
     
     
        トップページに戻る     東京歴史さんぽ その12を見る